第二部 神なき大地

序章 旅の途中

旅の途中 1

 まばたきのためにときおり睫が揺れる事を除けば、少女は美しいだけの人形と変わらなかった。

 馬車に乗り込んでから随分と時間が経過しているが、指先ひとつ動かさず、小さな唇で声を発する事もない。車輪から馬車全体に伝わる振動に身を任せ、小刻みに体を揺らす、ただそれだけだ。肩からこぼれた金髪が頬をくすぐっても、不快な様子は見せない。

 男は少女の端整な顔を見下ろした。

 透き通るように白い頬に影を落とす長い金の睫。その奥に隠された晴天を思わせる空色の瞳には、小窓の向こうを流れる景色が映るのみで、感情は何ひとつ映っていなかった。喜びも、悲しみも――それは、少女が馬車に揺られて行く先を考えると、とても悲しい事だと男は思った。

 第二の人生がはじまると言って過言ではない。普通の少女ならば、期待か不安のどちらか、あるいは双方に、胸を膨らませる事だろう。だというのに、少女は変わらないのだ。この人生の転機を、呼吸をし、食事を取り、睡眠を取る事となんら変わりのない、ごく当たり前の日常として認識しているようだった。

 少女が押し付けられた使命を疑わず、拒絶せず、それのみが生の意味であると思い込んでいるのは、過去の過ちを振り返り、同じ過ちを繰り返すまいと人々が努力した結果である。彼らの努力は実ったと言って良く、喜ぶべきなのかもしれない。

 しかし、男はそれを心から祝福する事ができなかった。まだ10代半ばでしかない少女が、感情に揺らめく事を知らなくて良いとは、どうしても思えないのだ。

 いや、何より。

 過ちの一端を担った者が、他ならぬ自分であるから、なのだろう。

「どのような方でしょうね。貴女の運命のお相手は」

 少女にそのような話を振っても意味がない事を知りながら、男は問う。己の中に巣食う悲しみを、少しでもごまかしたかったからだった。

「どのような方でも」

 返って来た答えは、男が予想したものと一言一句違いなかった。悲哀はより色濃くなり、男は口元に笑みを浮かべる。

「必要なのは血脈のみ、ですか」

 男は嫌味と取られかねない言葉を吐いたが、少女が機嫌を損ねる様子はない。変わらない無表情で小さく肯くのみだった。

「わたくしは、わたくしの他の何者にも成しえない、尊い使命を果たすのみ――」

 突如、少女の言葉を遮るように、馬車が大きく揺れた。車輪のひとつが石を踏んだようだった。

 馬車と同じように少女の体も大きく揺れ、頑なだった体勢を崩す。頭や肩を打ちつけそうになったが、男が腕を伸ばして少女の体を受け止める事で、難を逃れた。

 男は安堵のため息を吐いたが、少女は表情ひとつ変えなかった。逃れるように男の腕から離れ、元通りに座り直す。つい先ほど姿勢を崩した事が幻であったかのように、毅然とした態度で。

「わたくしの身にはけして触れないようにと、以前命じたはずです」

 少女が真っ先に口にしたのは、自分の身を守ってくれた男に対して投げる言葉としては、最も不適切と言えるだろう。

 だが男は不愉快には思わず、深く頭を下げ、謝罪の気持ちを露にした。

「失礼いたしました」

 言い訳も、反抗も、一切ない。少女の望み通りに動く事が、男にとって重要な使命であるからだ。触れるなと命令を下されている以上、たとえ少女を守るためであっても、触れる事は許されない。

 厳しい条件であったが、従うしかなかった。少女は、そういう娘なのだ。

 いや――仮に普通の少女であったとしても、同じだろうか。倍以上歳の離れた男に触れられて喜ぶ少女など、そうは居ないであろうから。

「どうしてわたくしの言葉に従わなかったのです」

「シェリア様の御身をお守りせねばと、咄嗟に考えました。シェリア様をお守りする事が、私の第一の使命ですありますから」

「わたくしの命がかかっていたわけでもないでしょう」

「僅かに傷付かれる可能性はございました」

「そんな事が、わたくしの命令、貴方の使命よりも、大切だと考えたのですか?」

「はい」

 男がためらいなく答えると、少女は一拍置いてから冷たい言葉を吐いた。

「おかしな方」

 少女はそれきり口を閉じ、鈴のように可憐な声を響かせるのを終わりにした。

 本当におかしいのは自身か、それとも少女か。

 胸の内側に湧き上がった疑問に結論を出さず、男は小窓から外を覗いた。

 昨夜中振り続いた雨に濡れた草花に、太陽の光が反射して、辺り一面を輝かせている。眩しさに目を細めた男は、流れ行く景色に美しい思い出を蘇らせ、胸を熱くした。

 すべてを清算したとしても、時は戻らない。

 この少女が普通の娘として生きる事は、もうない。

 世界を知らず、人を知らず、感情を排除した少女に対して溢れる謝罪の言葉を、男は必死に飲み込んだ。それは今の少女が望む言葉ではなく、むしろ少女を侮辱する言葉であるからだ。

 それでも、男は少女に笑ってほしかった。時には感情を剥き出しにして怒り、泣いてほしかった。人並みに恋をして、その成就に喜び、あるいは喪失に嘆いてほしかった。自身の幸せが何であるか、自分で考える事ができる人間であってほしかったのだ。

 澄み渡る青空を、そこに輝く太陽を望んでから、男は目を伏せた。

 声に出す事なく、神に真摯な祈りを捧げ、願う。

 これから会いに行く人物が、ほんの少しでもいい。少女に欠けているものを与えてくれれば良い、と。

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