四章 取引
取引 1
王都セルナーンを発ってからはやふた月、エアたちの旅の終わりが近付いていた。
最後に宿を取ったのは王都セルナーンから一番近い小さな宿場町で、朝一番に宿を出れば、昼には大神殿へ帰還できるだろうという距離だ。無理をすれば宿泊せずにセルナーンに帰る事もできたが、宿場町に着いた時点で空が茜色に染まりはじめており、王都に到着するのは日付が変わってからだろうと予想された。そんな時間に戻っても迎える方に迷惑がかかるだけであるし、旅立つ前にアシュレイから預った路銀に余裕がある事も手伝って、エアたちは宿を手配する事にした。
セルナーンを発った頃はまだ秋だったが、もうすっかり空気が冷たい。さほど時を待たずして、本格的な積雪が訪れるだろう。その準備のためか、セルナーンには行商人が数多く出入りしているらしく、王都にほど近い宿場町の宿はどこも埋まっていた。ようやくとれた宿は古びた安宿で、「旅の終わりを飾るには寂しいですね」とこぼしたハリスに、エアは素直に同意してしまった。
空いていたのは3人部屋とひとり部屋で、当然隊長であるエアがひとり部屋となったのだが、それでも贅沢とはほど遠い。体重をかけるたびに音がする寝台と、備え付けの小さな机があるだけだと言うのに、部屋はいっぱいになっている。狭苦しい部屋は息が詰まりそうで、あまりくつろげるものではなかった。
だが、このほうが都合がいいかもしれない。エアは机の上に置いてあったランプに火を点けると、荷物から2枚の羊皮紙を取り出し、机の上に広げた。一枚は真新しく、途中までしか書きこまれていないもの、もうひとつは全面に書き込まれているが、ひどく古びて変色しているものだ。
続いてエアはインクとペンを取り出し、古びた羊皮紙を見ながら、新しい羊皮紙に書き写していく。
森の神殿へと至る、迷宮の地図だ。セルナーンに到着するまでにすべてを写さなければならないが、4人旅ではなかなかひとりで作業できる時間が取れなかった。どこかの街の宿で途中まで写したっきり、作業が止まっていたのだ。
その作業は、苦い思い出を蘇らせるものだった。馬を引いて歩ける程度に広い道だったというのに、抑圧されて息苦しかった事を思い出さずにはいられない。
リリアナの元へ行くにはおそらく、同じような道をひとりで辿る事になるのだろう。考えるだけで喉と胸につかえるものがあったが、道の先でリリアナに会えるのならば、それは苦痛ではないと思えた。
道の先で、彼女が笑ってくれるならば。
自身を追い詰めるものから逃げるため、考えないようにしていた事を思い出してしまい、エアは地図を書き写す手を止めた。
彼女がエアを拒絶するならば、この作業自体意味がないものとなる。なぜ来たのだと、罵られるような事になれば――自分はどうするのだろう。
エアは強く首を振った。そうして嫌な考えを脳から消し去り、作業を再開した。
たとえ、彼女がエアを恨んでも、呪っても。それでも、リリアナの元に辿り着く事に価値はある。そう信じたい。
その先は無心だった。黙々と作業を続け、写し終えると、エアはペンを傍らに置いた。羊皮紙を交互に見比べ、誤ったところがないかを確認する。
ルスターが引っかかりかけた罠の事を思い出し、忠告してやろうかとも考えたが、細かい地図にこれ以上書き込みを入れると見辛くなるだろうと判断しやめておく。だいたい、あの程度の罠にひっかかるような人物ならば、忠告があろうとなかろうと結果は同じだろう。
3度見直し、間違いがない事を確かめたエアは、司教から預かった羊皮紙をしまった。そして揺らめく炎の明かりに照らされる羊皮紙を眺めながら、インクが完全に乾くのを待った。
行きと、帰り。たった二度だけ通った道を、地図上で何度も辿る。はじめは視線だけで、インクが乾くと、指でなぞりながら。
エアは何十回とそれを繰り返した。自身が納得できるだけやると、羊皮紙を折りたたみ、荷物の中にしまおうとした。
無造作に突っ込みかけて、手を止める。一度荷物を全部取り出して、底を露にした。
エアの荷物袋は底に仕掛けがしてある。底の上に同じ布を縫い付けてあり、二重底になっている。だがそれはすでに部下たちの知るところであるし、気付く人間は気付くであろうから、隠し場所としては適さない――が、本当は更にもう一重底がある。つまり、三重底なのだ。
しばらく考えた後、エアは一番底に地図を隠してから、再び荷物を詰め込んだ。荷物を探される可能性は低かったが、念には念を入れなければならない。
「隊長、いらっしゃいます?」
まるで計ったかように、エアが全ての作業を終わらせた直後、扉が叩かれた。
「どうした」
逸る鼓動を沈めようと胸元を押さえ、平然を装った声で扉越しに応える。
「夕食に行きました? なんか、俺がうたた寝している間に、ジオールさんとルスターは食堂に行ってしまったみたいで。良ければ一緒にどうです?」
「今行く」
エアは部屋の中を見回し、不審な点を残していないかどうかを確認してから扉を開け、ハリスと合流した。
ハリスはどことなく元気のなさそうな表情でエアを見上げたが、それは一瞬の事った。すぐに明るい――けれどどこか人を食ったような――笑顔を見せる。もしかすると、元気がなさそうに見えたのは、ちらちら揺れる炎が作りだした影のせいだったのかもしれない。
「隊長、その……」
並んで歩きはじめると同時に、ハリスは呟いた。
「どうした」
「いや、とうとう最後ですね。顔つき合わせて食事を取るの。この先、ジオールさんやルスターはともかく、隊長と肩を並べて食事をとる事なんて、なかなかないんでしょうね」
「そうかもしれないな。お前たちが同じところまで出世してくれない限り」
「まあ頑張りますけど、何年後かに自分が隊長になれたとしても、その頃にはエア隊長はもっと上に行ってて、結局追い着けないんじゃないでしょうかね」
「そうか?」
「そうですよ、絶対」
ハリスは肩を竦めて笑った。エアを持ち上げる言葉の中には憧れや嫉妬などの感情が入っている様子はなく、ただの予想を淡々と語っているだけに見えた。
もちろん、ハリスの予想ははずれている。もしエアにハリスが思う通りの力があったとしても、エアは聖騎士団に長居するつもりはない。リリアナの女神としての任期はあと2年もなく、それまでに今の地位を捨てて砂漠の神殿に旅立つつもりだからだ。
「別に2度と会えなくなるわけじゃないんですけどね。大神殿に戻ったって自分たちは第18小隊の一員で、エア隊長の部下です。ほとんど毎日顔を合わせるでしょう。でも、2ヶ月も顔を付き合わせ続けた後だと、妙に遠い人に感じてしまいそうです」
「お前がそんな殊勝な男か?」
「失礼な。これでも隊長相手ですから遠慮してるんですよ」
「やはりそうか。そうかもしれないとは思っていたんだが」
エアは小さく声を漏らして笑った。
まったくもう、と不満げな言葉を漏らしながら、ハリスもまた笑みを浮かべている。そのハリスの笑みの中には、先ほどエアが感じた寂しげな空気が蘇っていた。
意識的に隠そうとして、けれどときおり無意識にこぼれ出る表情は、ハリスの本音を浮き彫りにする。どうやらこの男は、旅の終わりが寂しくてしょうがないらしい。
「隊長。自分は上官がエア隊長で本当に良かったと思っているのですが、同時に、エア隊長が上官でなければ良かったなあ、とも思ってしまってるんですよ」
「……お前、私に何を言っても良いと思っているのか?」
問い詰めるためでなく確認のためにエアが訊ねると、「とんでもない!」と叫びながら、ハリスは左右に首を振った。
「思ってませんよ。思ってないから言っているんです。遠慮なしに何を言っても許される間柄だったらおもしろかっただろうなあと思ってるからこそ、こんな事言ってるんです」
反応に困ったエアは、救いを求めるようにあたりを見回したが、当然、エアを救ってくれる存在など近くにはなかった。
「つまり、なんだ」
おそるおそる、エアは問う。
「お前は私の友達になりたいのか」
ハリスは頬をわずかに赤らめつつ、深いため息を吐き出した。
「隊長、あまり恥ずかしい事言わないでください」
「違ったか」
「いや、おそらくその通りなんですが、率直に言われると照れ臭いです」
「言い出したのはお前のほうだろう。私が恥ずかしい事を口走ったみたいな言い方をするな」
今度はエアが深いため息を吐き出す番だった。
ハリスはそのため息が溶けた空間を眺めながら、言葉を模索している。彼が、相手を気遣うわけでなく言葉に詰まる様子は珍しく、エアの方が戸惑ってしまった。
迷った挙句、エアはハリスの背中を軽く叩く。
「仕方ないな。対等な役職まで出世しろ」
ハリスはもの言いたげな視線をエアに向けた。
「そこで『役職なんて関係ないぞ』と隊長が言ってくだされば、かなりの美談になるんですがね」
エアは肩を竦めて鼻で笑った。
「遠回しに断られているとは考えないのか?」
「え、そうなんですか!?」
ハリスはエアよりも一歩前に飛び出してから振り返り、エアの顔を凝視したが、エアはそ知らぬ顔でハリスの横を通り過ぎた。
「お前は要注意人物だからな」
「どういう意味です」
「言葉通りの意味だ」
下へと続く階段が伸びる。それを降りた先が食堂であるからか、何かを煮込んだり焼いたりと言ったかぐわしい香りや酒の香りが漂ってきて、エアのすきっ腹を刺激した。音が鳴らないように、無意識に腹のあたりを抑え、早足で下りる。
「ちょっと、隊長!」
エアの後を追って、ハリスが階段を駆け下りてくる。
響く足音を背中越しに聞きながら、エアはひとりで微笑んだが、ハリスが再びエアの隣に並ぶ頃には、その笑みを消し去っていた。
やはり、杞憂だったのだろうか。
男は直属の上司が泊まる部屋の前に立ち尽くしながら考えていた。
自分に輸送任務とは違ったもうひとつの任務を与えた人物の言葉を思い出す。彼は疑っていた。アシュレイ・セルダも、エア・リーンも。
家族を次々と奪われたアシュレイ・セルダが国家的大犯罪に手を染める可能性を、男は否定できなかった。自分がアシュレイと同じように家族を奪われれば、同じ事を考えるかもしれない。考えるだけ考えて、実行するだけの力や勇気が無く、結果的に諦める事になったとしても。
アシュレイが本気で女神の奪還を考えているのだとすれば、協力者が必要不可欠なのもまた事実だった。アシュレイは武術大会で優勝し、若干十六歳にして小隊長に任命されながらも、家族が森の女神であるとの理由から、森の神殿への輸送任務に就けなかった。何とかして、誰かの手から、森の神殿への地図を手に入れなければならないのだ。
過去に森の神殿へ派遣された者たちは、すでに調べがついている。協力者が居るとすれば、これから派遣される者の中におり、その中でエア・リーン怪しいと睨んだのは必然だった。
だが、エア・リーンはこの任務中、決定的な行動を起こしていない。いくつか怪しい言動はあったが、疑う理由にはなっても証拠にはならない程度のものだ。
エア・リーンは本当に、記録通りの人物なのだろうか。アシュレイ・セルダは聖騎士団の長としての立場を弁えているのだろうか。弁えていなかったとしても、事を起こすは今年ではないのだろうか。
最後の確認をしよう。
男は扉に手をかけた。あたりを見回し、誰も居ない事を確かめて、すばやく部屋の中に身を滑らせる。今ならばエアは部屋に帰って来られないはず。時間は僅かしかないが、いい機会だ。
狭い部屋は整然としていた。寝台は全く乱れておらず、ならば使われていただろう椅子は、きちんとしまわれている。小さな机の横に置いてある荷物が無ければ、人が入っているとは誰も思わないだろう。
男は荷物に近付いた。開けると、以前覗いて見た時と変わらぬ、最低限の荷物しかなかった。
やはり、杞憂だったのだ。
男は安堵した。上司が糾弾すべき相手ではない事に、心から喜んだ。
袋を元通り閉じ、何事も無かったように部屋を出、明日を迎えよう。セルナーンの大神殿に戻り、何事も無く隊長と部下として日々をすごせばいい。そう心に決めかけた男は、違和感を覚えて手を止めた。
変わっている。僅かな違いだが、確実に。
「よりによって……」男は心の中で呟いた。
消し去ろうとしていた疑惑の炎を、再び燃え上がらせる。男は意を決し、決定的な物証を探ろうと再び荷物に手をかけた。
残された時間はさほど多くない。荷物をひっくり返しては、もとに戻すまでに部屋の主が戻ってきてしまうだろう。
男は思考を僅かに逡巡させた後、腰に穿いた短剣を引き抜いた。 この二ヶ月間で、エア・リーンの人となりを多少は理解しているつもりだ。彼が重要なものを普通に隠している訳がない――ルスターの失態で財布を失いかけた日の事を思い出した男は、自信を持って荷物の底に短剣の刃先をあてた。
一見判り辛いよう、ほつれが出ないよう切れ込みを入れる。失敗は許されず、時間の余裕も無い事から、緊張で手が震えそうになったが、意志の力で押さえ込んだ。
指1本が入る程度に刃を入れると、男は短剣を鞘に戻し、祈りながら切れ込みに指を入れた。
そこから手を入れても、やはり先程目視した荷物には触れられなかった。底に細工をし、隠さなければならないものを入れているのは明らかで、男は目を硬く閉じ、指先に何かが触れるのを待った。
扉の向こうから小さく足音が聞こえたのは、指先が慣れ親しんだ紙の感触を得た時だった。
男は身を強張らせ、荷物から手を離す。深く息を吐き、早まる鼓動を押さえつけ、自身が落ち着くように促す。
足音は徐々に近付いてきた。うるさいと言うほどではないが静かでもない足音の主は、エアではない。エアの足音は、いつも静かだ。他の客か、仲間の誰かだとすればルスターだろう。
思っていたより時間を浪費したかもしれない。男は急に不安になり、足音が扉の前を通り過ぎてから、荷物を元通りにして立ち上がった。部屋の様子が入ってきた時と変わりない事を確認し、扉に耳を当てて通路に誰も居ない事を確かめてから、静かに部屋を出た。
再び人が存在しなくなった部屋の扉を眺める。直属の上司が宿泊する部屋を――いや、すべてが明るみに出れば、彼は上司ではなくなるのだろう。それは寂しい事のように思えた。
視線を自らの手に落とす。指先を眺め、先程得た感触の記憶を忘れないように握り込む。
彼が厳重に隠したものの正体は、他に考えられなかった。違うと言うならば何なのか、教えて欲しいくらいだ。
なぜ。
なぜ、貴方は――
「どうしたんです? 隊長に用でも?」
後輩の声が突然かかり、一瞬身を強張らせてから、男は振り返った。無邪気な緑の瞳が、疑う事もなく男を真っ直ぐに見上げてくる。
この少年はどうするのだろう。長い旅を共にしてきた先輩が、敬愛する隊長の罪を暴くその時に。輝きを失わない大きな瞳は、悲しみに陰るのだろうか。
せめて、今日だけは。
男は微笑んだ。
緑の瞳は、男の笑みに応えるように優しく細まった。
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