女神ライラ 6

 会話だけはなんとか着いていったものの、料理の味は途中からまったく判らなくなっていた。何を食べたかももちろん覚えておらず、すべてが終わってライラが席を立った時は、心の底から安堵したほどだ。

 帰りも部屋まで案内しようとする女官がいたが、道は覚えているから大丈夫だと断る。そうしてひとり部屋への帰路につくと、エアはほっと息を吐いた――否、吐くより一瞬早く、背後から小走りで近付いてくる足音に気がついた。

 足を止めずに軽く背後を覗き見る。

 思った通り、追いかけてきたのはハリスだった。

「なにか用か」

「いえ……」

 隣に並んでからハリスは、一度口ごもってから続けた。

「ちょっと、隊長の様子がおかしいな、って思ったので」

 動揺をおし隠し、普通を装っていたつもりだが、気付かれていたようだ。

 もともとハリスは周りへの気遣いができる男であるし、隣に座っていたために誰よりも席が近かった。エアの変調を察しやすかったのだろう。

「体調を崩したとか、ですか?」

「大丈夫だ」

 エアがそっけなく返すと、ハリスは静かな笑みを浮かべた。

「放っておいてほしそうな顔してますね」

 そしてハリスは、あからさまに歩む速度を緩める。

 気付いていながらエアは、速度を変えずに歩き続けた。わざとハリスを置き去りにした形になるが、今のエアに彼を気遣う余裕などない。それどころか、放っておいてくれた事への感謝の言葉すら紡げそうにない。

「なぜ、今更」

 ハリスの気配が感じられなくなった頃、エアは自身を嘲るように言葉を吐き出した。

 そうだ、今更だ。

 リリアナの気持ちはどうなのかなどと、奪い返したいと望んだその時から、考えるべき問題だった。だと言うのにどうして、今の今まで一度たりとも考えなかったのか。

 誰に問わずとも、答えは判りきっていた。エアは理由が欲しかったのだ。生きるための、立ち上がるための理由。それがエアには、リリアナしか存在しなかった。

 だからこそ、リリアナと自分の願いが食い違っているかもしれないなどという仮定は、あってはならなかった。彼女が求めてくれなければ、エアは生きる理由を失ってしまう。理由を失えば、内に抱く憎悪さえも意味を無くし、生きる事ができなくなる。アシュレイの剣を奪い、自らの命を絶とうとしたあの時のように。

 通路に響き渡る自身の足音が、暗い闇の足音に聞こえた。追いつかれてはならない闇。捕まれば、エアは内側からすべてを闇に染め上げられてしまう。あとは終末を迎えるだけだ。自分で、自分の終わりを呼び込むしか――

 声にならない悲鳴を上げたエアの視界に、与えられた客間の扉が映る。背後から迫る暗い影から逃れようと部屋の中に逃げ込み、急いで扉を閉めると、そのまま扉に寄りかかった。食堂から歩いてきただけだというのに、呼吸は激しく乱れ、全身から冷たい汗が吹き出ていた。

 体から力が抜けていく。扉に背中を預け、エアは力なく座り込んだ。

 食事中は森の女神ライラや部下の手前、無意識に虚勢を張っていたのだろう。だがもう限界だ。存在そのものが否定される可能性は、思考も感情も空虚にし、立ち上がる力すら奪い去っていく。

「リリアナ……」

 愛しい少女の名は、今のエアの力にはならなかった。名を紡ぐ事によって脳裏に蘇る少女の姿だけが、かろうじてエアを支えてくれる。

 エアは静かに目を伏せた。

 窓から差し込んでくる月明かりが、瞼の向こうから届いた。その眩しさが、完全な闇に包まれていない安堵感をエアに与えてくれる。

 黒と言うには明るく、灰色と言うには暗い闇の中で、涙するリリアナが蘇り、エアは息が詰まる思いをした。

 まだ十六歳だったエアは、アシュレイに取り押さえられながら、リリアナ、と叫んだ。

 聖騎士団の者に導かれて馬車に乗り込もうとしたリリアナは、錆びついた蝶番のように緩慢な動きで、エアに振り返った。涙に潤んだ瞳が真っ直ぐにエアだけを見つめ、悲しみに震える唇が、音を出さずに「エア」と呼ぶ。そして唇が引き締められると、一筋の涙がリリアナの頬を伝った。

 何かに耐えるように顔を反らし、それきりエアが何度名前を呼んでも、リリアナは振り返らなかった。馬車に揺られて徐々に遠ざかり、二度とエアの視界の中には戻ってこなかった。

 あの時ならば、けして迷いはしなかったのに。

「なあ、リリアナ」

 ここには居るはずのない愛しい少女に、エアは語りかける。

「帰りたい、と言ってくれ」

 それが駄目ならば、せめて「死にたくない」と。

 エアの中のリリアナは、エアの言葉に答える事をしなかった。否定する事も肯定する事もなく、ただエアを見つめ続けている。

 エアが自分の中で答えを出せるようになるまで、いつまで待っても答えは返ってこないのだろう。判っていて、エアは待ち続けた。リリアナが自分を見つめてくるのと同じように見つめ返し、ただ、待った。

 どれほどの時間そうしていただろう。気付けば窓の向こうの月の位置が動き、月光が差し込んでくる角度が変わっている。真っ直ぐにエアの顔を貫こうとする光の優しさに涙しそうになり、エアは立ち上がって窓際に寄った。

 高価な硝子がはめ込んである窓の向こうに、大きな池が見えた。歪みない円を描いた月を写した水面が、風に揺られて微かに波立つ。円が乱れるにつられて、エアの心も乱れる。

 目を反らそうとしたエアは、その時視界の隅に映った影を見逃さなかった。

 細く小柄なその人物は、月と星の明かりのみの薄暗い世界でも、圧倒的な存在感を持っていた。広がる草原、咲き誇る花、萌える木々、広い池とそよぐ風の中にあっては、明らかに彼女の方が異物であると言うのに、彼女のみが自然で、あとの存在に違和があるかのようだ。

 導かれるようにして、エアは部屋を出た。最初に部屋に案内された時の記憶を頼りに神殿を出、さきほど見た光景を探す。

 豊かな緑と、月を写す大きな池と、その傍らに立つ寂しげな美女――森の女神、ライラ。

 月の輝く方向を頼りにすれば、ライラを探し出す事はそう難しくなかった。しばらくしてエアは、ライラの姿を見つけた。

 ときおり長い金糸の髪が風に揺れて、ライラの美しい面を隠そうとする。

 エアはしばらく立ち尽くし、幻想的に美しいその光景を眺めていた。美の中心的存在であるライラが、エアの存在に気付き振り返るその時まで。

「エア殿」

 ライラは微笑み、エアの名を呼んだ。その笑みは儚く、今にも消えてしまいそうだった。

「どうなされました? こんな夜分に」

「いえ、私の部屋からライラ様のお姿が見えたもので……ライラ様こそ、いかがなされました?」

 ライラは口を開かず、ただ視線だけをエアに向ける。その視線が何かを伝えようとしているように思えたが、エアが意図を理解するよりも早くライラは目を伏せ、エアから顔を反らしてしまった。

「どうしてしまったのでしょう。一年ぶりに王都から来られた方々にお会いできたので、懐かしさが溢れてきたのかもしれません」

 誘われるように、エアはライラに歩み寄った。

 するとふたりの距離をこじ開けるように、冷たい風が通り抜けていく。エアはライラから2、3歩離れたところで足を止めた。

 女神の眼差しに映る郷愁の念。

 本当に、それだけだろうか。故郷を懐かしむだけなのだろうか。もっと強い感情が、彼女の中に隠れているのではないだろうか。

 隠れていてくれないだろうか。

「無礼を承知でお訊きいたします」

 いてもたってもいられず、エアは口を開いていた。

「ライラ様は、帰りたいと……この神殿から、森の女神の役目から、逃れたいと望まれる事は、ございますか」

 ライラはゆっくりとその場に膝を着く。静まりかけていた水面に、白く細い指を伸ばし、波紋を広げる。

 くっきりと映っていた月が、再びその円を揺らがせ、エアの心を急かした。

「貴方はとても残酷な方なのですね」

 エアの立ち位置からは、ライラの背中しか見えない。

 しかし、波紋が治まった水面に、今にも涙しそうでありながら、何の感情も浮かべまいとする、作られた無表情が映った。それは号泣されるよりもよほど胸を打つ泣き顔だった。

「わたくしには、貴方の問いに肯定で答える事など許されておりませんのに」

 それは、紛れもない肯定であった。

 天上の神エイドルードの妻として、誰よりも相応しい物腰と容姿を持つ女性は、女神として相応しくない答えを口にした――それは、エアがもっとも望んでいた答えだったかもしれなかった。

「お食事の時に、わたくしがセルナーンに居た頃の、想い人の話をいたしましたね」

「はい」

「想い人、とわたくしは言いました。誤りはありません。わたくしは心からあの方を慕い、あの方を愛しました。けれど本当は、それだけではないのです」

 ライラは目を伏せ、その瞳の輝きは、水鏡ごしにも消え失せた。

「あの方もわたくしを愛してくださいました。わたくしがまだ19の春、今から5年前に、わたくしたちは結ばれたのです」

 ライラの告白は、エアに予想以上の驚愕を与えるもので、すぐに受け入れられるものではなかった。

 脳にゆっくりと浸透していく事実を、ようやく理解するに至るまで、いくつの呼吸を繰り返しただろうか。風に揺られてざわつく草は、エアの代わりに騒いでくれているかのようだ。

 エアは見開いた目でライラを見下ろすが、動揺した思考ではかけるべき言葉を見つけられず、唇を薄く開いたきり硬直してしまった。

 神の妻たるライラが、以前は人間の男の妻だった。

 エアは神に婚約者を奪われ、人に恵みを与えるはずの神にこれ以上ない裏切りをされたと思っていたものだが、それ以上に手酷く裏切られた者たいたのだ。

 誰にも逆らえない絶対の権力に、妻を奪われた男。それが、エアのまだ見ぬ協力者。

 エアという不確定な存在に協力を求めてでも妻を奪い返したいと望む彼の願いが、彼の呪いが、手に取るように伝わってきた。

「もし」

 呆然としたまま、エアは言葉を紡いでいた。

「貴女の前の夫が、貴女を迎えに来たとすれば――」

「まだ残酷な問いを重ねるのですね。本当に酷い方」

 麗しい響きを持つ声に、暗い感情が混ざり込む。素直に音にされた言葉以上に強く、エアを責め立てようとして。

「あの方はとても真面目で、責任感の強い方です。わたくしの事をとても大切にしてくださいましたが、だからと言って他の方々への優しさを忘れるような方ではなかった。人々が生きるために必要不可欠な存在であるわたくしを迎えに来る事など、あるわけがないのです」

「ライラ様」

「仮に、あの方がすべてを投げ打ち、国中の人々を見捨てる事を決意したとしても、わたくしのもとには来られないのでしょう。あの方はここまでの道を知らないのですから」

「ライラ様、私は」

「そして万が一にもあの方がこの場所に辿り着き、わたくしを連れ帰ろうとしてくださっても……わたくしがあの方の手を取る事は、けして許されないのです」

 悲しみにくれるライラの細い肩が、震える。

 ライラは自身の肩を抱きながら、中点に輝く黄金の月を見上げた。昼の太陽に代わって夜空に輝く存在を。

「わたくしはエイドルードの妻となった今でも、あの方を想っております。けれど、この想いを貫くために、国中を敵に回す勇気などありません。神に与えられた聖地において、あの方の名を呼ぶ勇気すらない、弱い女なのです」

 すべてを犠牲にする勇気があるならば、はじめからこんなところには来なかった、か。

 月明かりを照り返す水面の眩しさに、エアは目を細めた。

 ライラは怯えている。神の妻となりながらも、いまだ人間の男を想い続けている自分が恐ろしいあまりに。それは世界の理に逆らう事と同じであるから。

 アシュレイから聞いた話を彼女にしてやれば、彼女の恐怖は消えるのだろうか。いざ迎えが来た時、夫の手を取る勇気が湧いてくるのだろうか。

 しばし考えて、エアは彼女に何も伝えない事を決めた。

 本当にライラの救いになるのは、彼女の想い人だけだろうと、漠然と感じたのだ。たとえ真実でも、エアの口から語られる言葉は、彼女の救いにはならないだろうと。

「私はときどき考えます。貴女のような女性たちを犠牲にして成り立つこの国こそが、誤りなのではないかと」

 今のエアが彼女に告げられるのは、エアの中から生まれる言葉のみだった。

「それは地上の守人たるエイドルードに対する侮辱です。神にお仕えする聖騎士様が口になさるお言葉ではありません」

「そうかもしれません、ですが」

「もう……なにもおっしゃらないで」

 エアは口を噤んだ。ライラの心は硬く閉ざされ、エアの言葉は何ひとつ届かないだろう事を悟ると、何も言えなくなった。

「数々のご無礼、申し訳ありませんでした」

 深く頭を下げて謝罪の言葉を述べるが、ライラから返事はなかった。

「壁の内側がいかに楽園と言えども、やはり夜はいささか冷えます。すぐに神殿内に戻り、ご自愛ください」

 やはりライラは応えず、その場から動く様子はない。ならば自分が去るしかなかろうと、エアは踵を返してその場を立ち去った。

 強い風が吹き、長く伸びた草をなぶる。ざわついた音が響き渡り、女神の気配は音の向こうに遠ざかった。

 乱れた心は落ち着きそうにない。今宵は眠れそうにないとの予感を胸に、エアは部屋に戻った。

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