森の神殿へ 4

 前を走る少年が、ちらりと振り返った。後を追うふたりの男との距離が若干縮んでいる事に気付いたようで、前方に向き直ると同時に急な方向転換をした。

 持久力や体力では圧倒できそうだが、代わりに少年には地の利がある。このまま追い続ける事ができるなら、いずれは体力を失った少年を捉えられるだろうが、地元民しか判らないような複雑な道に逃げ込まれては、撒かれる可能性が高い――持久戦よりも短期決戦が吉と判断したハリスは、一度斜め前を走っていたエアに並ぶと、軽く手を上げ合図してから、少年が曲がった角よりもひとつ手前の角を曲がった。

 離れていく気配に、エアがためらう事なく少年と同じ道を進んだと知ったハリスは、自分が進む道が少年の走る道に繋がる事を祈りながら、次の角を曲がった。

 祈りは神に通じたのかもしれない。上手く挟み込めないまでも、影や足音を捉えて動揺を誘えればと企んでいたハリスの目に映ったのは、こちらに向かって走ってくる少年の姿だった。

 彼も自分に地の利がある事は判っていたのだろう。知り尽くした道を複雑に出入りし、後方からの追っ手の目を眩ませようとしたのだろうが、残念な事に曲がるべき角を間違えた。運が悪かったのだ。

「なんでっ……!」

 ハリスが前方に居る事に戸惑った少年は、悪態を吐きながら一瞬足を止め、後方に振り返る。その瞬間、角を曲がってきたエアが姿を現した。

 少年は意を決した様子で、ハリスに突進してきた。エアかハリスのどちらを相手にするかとの二択を迫られ、咄嗟にハリスを選んだのだ。その判断力、あるいは勘の良さは褒めてやるべきかもしれないが、ハリスとて聖騎士団の厳しい試験を通り、この四年間鍛錬を怠らなった人間である。地方都市のこそ泥程度にやられるような腕ではなかった。

 駆け寄ってきた少年は、ハリスの右を通り過ぎる振りをして、ハリスの前に着いた足を軸にし、急に方向転換する。しかしハリスは騙されなかった。左を通り過ぎようとする少年の腕を掴み、足を引っ掛け、地面の上に引き倒す。

 素早く少年の両手首を取り、背中を押さえつけた。少年は力の限り暴れてハリスの手を逃れようとするが、力の入れにくい体勢にしているし、元より力でもハリスの方が上である。少年にできる事と言えば、土埃を立てるだけだった。その土埃の被害を受けるのは主に少年で、咳き込むのも彼ひとりだ。

「大丈夫か」

「俺ですか? それとも、この子ですか?」

 エアは一瞬だけ考えてから答えた。

「両方だな」

「俺は何の問題もありませんが、この子はちょっと苦しそうですね」

「誰が苦しくしてるんだよ!」

 頭上で交わされる暢気な会話に苛立ったのか、少年が怒鳴った。埃を吸い込んでしまったのか、再び噎せはじめる。

「長旅で疲れていて早く宿に入ってのんびりしたいと思ってる俺たちを無理やり追いかけっこに巻き込んだお前が文句を言うな」

「お前らが勝手に追いかけてきたんだろ!」

「元はと言えばお前が俺たちの仲間から財布をすったのが悪いんじゃないのか」

「しょ、証拠でもあんのかよ」

 あくまでも強気を貫く少年の姿勢は清々しくもあったが、押さえつけられた状態で暴れたせいか、懐からエアの財布が半分覗いている。ハリスはそれをつまみ上げ、少年の目の前にちらつかせた。

「俺たちのものだって証拠が欲しいなら、いくら入っているか当ててやろうか?」

 さすがの少年も言葉を失った。ハリスは勝ち誇った笑みを浮かべ、財布を手の中で弄んだ後、エアに投げ渡した。

 エアは中身が減っていない事を確認すると、頷いて自身の懐にしまいこむ。

「隊長。こいつ、どうします」

「さて、どうするかな。官憲に突き出すが無難なのだろうが」

 言って、エアは少年の前に膝を着く。それまでハリスを睨み続けていた少年は、鋭い眼差しを向ける相手をエアに変えた。

「すった相手にすぐに気付かれる程度の腕という事は、素人同然だな」

 ハリスは、言葉を失ってエアから目を反らす少年の襟首を掴み、引き起こす。地面の上に座らせ、背中を少し強めに叩いた。

「隊長が聞いているだろう。答えろ」

「悪かったな。初めてだよ。明らかによそ者で、とろくさそうな奴狙ったってのに、意外と勘が良くて失敗したよ」

 ハリスは苦笑した。後輩の事を「とろくさそう」となどと言われては否定したいところだが、上司に託された財布を直後に盗られてしまった事を思うと、否定の言葉は紡ぎ難い。

 しかもルスターは普段から、「素直すぎる」「注意力が足りない」等性格面の問題点を指摘される事が良くある少年だった。彼がこの任務に選ばれたのも、剣技や礼儀、学問全般などの能力はけして悪くないのだから、王都の外の世界を見たり、冷静なエアや真面目でもの静かなジオールと共に行動したりで、性格面の改善を期待しての事だろうとハリスは読んでいる。

 その試みは上手くいっていると言えるだろう。根が素直な少年であるから、周囲の影響を受けやすい。旅立つ前の彼ならば、財布をすられた事にも気付けなかったかもしれない。

「ああ見えて、彼は剣の達人だ。こうしてお前を易々と捕らえた俺だって三本中一本は取られる」

「嘘吐け!」

「嘘じゃない。聖騎士団の昨年の新人の中でも、優秀な方なんだ」

「聖……騎士団?」

 訝しげに聞き返す少年に、エアは首から下げていた銀のメダルを服の下から取り出した。天と地を繋ぐ剣の柄に空色の宝石が埋め込まれたそれは、聖騎士団の中でも隊長格の者に与えられる聖印だ。

 施された図案の詳しい意味を知らずとも、空と空色の宝石を同時に使用すればエイドルードを意味する事くらいは、この地に生きるものならば誰でも知っている。少年も誰を敵に回したか理解したらしく、息を飲んでから喉を鳴らした。斜め後ろから見るハリスにも、緊張に口元がゆがんでいる事がはっきりと見て取れた。

「金が、欲しかったんだよ」

「どうしてだ」

「生活費に決まってんだろ! あんたたちみたいな坊ちゃんには判らないだろうけどな、食ってくには働かないとなんねーんだよ!」

 少年の言葉にハリスは反論できなかった。ハリスは少年の言う通り、それなりに裕福な商家に生まれ、それなりの贅沢を知って育った「坊ちゃん」だからだ。十を過ぎた頃、成人して家を継ぐために仕事を手伝うようになった兄の背中を眺めながら、自分の将来を模索した結果、聖騎士団に入る道を選んだ。運か実力か、成人する直前に入団でき、充分な給金を貰っているので、生まれてから今日まで金に困った事など一度もない。

 ハリスはエアを見た。エアは目を伏せ、静かに息を吐いている。その顔に表情は浮かんでいない。

「人の財布を盗る事が仕事か。楽に儲けられそうだな。私は以前生活のために、早朝から夕方まで畑仕事をしていた事があるが、なかなか大変な上、金銭的な余裕はほとんどなかった。お前のように知恵を回せば良かった」

 判りやすい嫌味に、少年が顔を顰める。エアはそれに気付かず――いや、気付かないふりをしているだけかもしれない――財布の紐を開け、中から一枚の金貨を取り出し、少年の前に投げた。

「何だよ、これ」

「生活費に困窮する辛さが判らんわけではない。可哀相だから恵んでやろうと思ったのだが」

「っざけんな!」

 エアに掴みかからん勢いで立ち上がろうとする少年を、ハリスは力尽くで押さえつける。横目で覗くと、エアは表情ひとつ変えず、少年を見下ろしていた。

「どうして怒る。お前が欲しがっていたものだろう」

「恵んでくれなんて頼んでねえだろ!」

「だから、奪うのか。これからも奪い続けるのか。お前の下手な腕に気付かないような、弱者から」

 ハリスの手を逃れた少年の左腕は、エアに向けて振り上げられたまま硬直した。

「『仕方がない』などと言えると思うな。たとえお前自身が弱者であったとしても、本当に他に道が無いかを考え、実行し、それでも駄目だった時以外に使ったところで意味のない安い言葉だ――ハリス、放してやれ」

 頷き、ハリスは少年から手を放す。

 少年は俯き、膝の上で拳を震わせていた。エアに何かをぶつけたくとも、何の言葉も浮かんでこないと言った様子だ。

「『仕方がない』からこれからも犯罪を続けると言うのならば、今度こそ官憲に突き出してやる。覚悟をして臨むのだな」

 それだけを残し、エアは静かに歩きはじめる。ハリスが走ってきた道を辿り、ルスターの元へ戻るために。

 ハリスはエアの背を追いかけながら、一度だけ振り返る。悔しげに瞳を潤ませながら、けして涙はこぼさずに、落とされたままの金貨を睨みつけている少年を。

「たいちょ――」

「一応断っておくが、あの金貨は経費から出すつもりはない。後で補填しておく。自分の財布には細かい金しか入っていなくてな」

「そんな事で隊長を疑ってませんよ。それより、あの子、許してあげるんですか?」

「許しているように見えるのか」

 刺々しい口調と視線で言われても、ハリスは恐ろしいとは思えず、小さく笑ってしまった。

「ははっ、確かに。成人してるかどうかも判らない少年相手に、大人気ない苛め方しているようにも見えますね。でも彼は、救われると思いますよ」

 睨みつけるような視線が、一気に和らいだ。優しくなったわけではない。呆気にとられた様子だ。

 何を驚いているのだろう。この程度の真意に気付けないほど鈍いと思われていたのだろうか。だとしたら少し悲しい。

「初犯って言うのに嘘は無さそうですし、意地もありそうですから本当に行き詰らない限り次も無さそうですし、あれで良いんじゃないかと俺も思います。仕事の世話までしてやるのはどうかと思いますしね。ただ最初の嫌味は本気だと思ったので、つい変な事聞いてしまいました。すみません」

「何の事だ。私は、大人気なく苛めただけだぞ」

「またまた」

 ハリスは笑ってみたが、エアは唇を硬く引き結び、応えてはくれなかった。不愉快そうに見えたが、腹を立てている対象は少年でも、ハリスでもない、別のもののように見え、あるいはエア自身に対してなのかもしれないと、ハリスは感じ取った。

 同時に不可解な人だとも思った。奪われた財布は取り返したし、道を誤りかけた少年にはだいぶ漠然ととは言え正しい道を示した。特に苛立つ理由はないように思える。

「隊長に救われたのは、あの少年だけではないですよ。あの少年を捉えるために真っ先に走り出した隊長の背中に、ルスターだって救われてます。細かい事を言えば、俺だって隊長に稽古を付けてもらうようになってから腕が上がりましてね……」

「判ったから、黙れ」

「何が判ったんです?」

「お前は要注意人物だと言う事がだ」

「こんなに善良な人間に向かって、酷い事言いますね」

 今度こそエアは完全に黙り込み、返事をくれなかった。

 ハリスは肩を竦め、エアには聞こえないよう「難しい人だな」と呟いて、自身も無言を貫いた。馬車と共に残されたルスターの元に辿り着くまで。


 馬の背を撫でながら、ルスターはひとつ、大きなため息を落とした。

 端正な横顔には強い悲壮感がにじみ出ている。もともと大柄ではない少年の背中が、いつも以上に小さく見える。

 彼が失態を晒したのは事実だが、生命の危機に陥った訳でもあるまいに、そこまで落ち込むなんて。話を聞く限り安穏としていた彼の16年の人生の中で、最大の絶望が今なのかもしれない、とハリスは察した。

 弱々しく丸まった背を軽く叩き、振り返ったルスターに微笑みかけてみる。多少なりとも力付けられないかと思っての事だったが、あまり効力はなさそうだった。

「どうでした?」

「隊長と俺が追いかけて、捕まえられないわけがないだろう?」

「では――」

 エアがルスターに見えるように財布を掲げる。ルスターは安堵に胸を撫で下ろしたのち、手綱をハリスに託してエアの前に進み、深く頭を垂れた。

「申し訳ありませんでした。隊長からお預かりした財布を奪われるなどと」

「無事に返ってきたのだから問題はない。他のふたりに頼んだからと言って結果が変わっていたか判らんしな。だが、次からはもう少し注意を払うように」

「はい」

 会話は途切れるが、ルスターは顔を上げようとしない。

 これ以上叱る気も責める気も無いエアは、ルスターの背を見下ろしながら薄く唇を開く。だが、言葉は出てこない。かける言葉を探し出そうとして、焦っているのだろう。

 ハリスはルスターの肩を掴み、無理やり顔を上げさせた。困惑を色濃く浮かべた瞳が、ハリスを責め立てるように見上げてくる。

「じゃあ、今日の夕食はルスターの奢りと言う事で。遠慮なく腹一杯食べて飲みましょう」

「えっ」

「任務中の飲酒は禁止だぞ、ハリス」

「宿に入って休んでいる時も任務中に含めますか。隊長は硬すぎますよ」

 ハリスの長いため息に被さるように、ルスターの笑い声が漏れた。ルスターはすぐに口を押さえて笑い声を飲み込んだが、エアやハリスが笑みを浮かべている事が判ると、再び笑い出した。

 エアが視線をハリスに移し、軽く会釈する。音を出さずに唇が「助かった」と模った。満たされた気になったハリスは、満面の笑みで返した。

「そうでした、隊長。隊長はジオールさんに荷物を預けておられましたが、財布のようなものが見つかりませんでしたので、とりあえずはジオールさんが立て替えておくとの事です」

「ああ、そうだったな。ジオールには悪い事をした」

「そちらも盗まれたと言う事では、無いのですよね……?」

 信頼と疑惑を半々ずつ秘めた瞳が、エアに問いを投げかけた。

「心配するな。万が一財布を失った時の事を考えて、出立前に忍ばせておいたのだ。誰にも言ってなかったのだから、判るわけがなかったな」

 ハリスはエアの荷物に近付いて、興味深く覗き込んだ。

「忍ばせておいたって、この何の変哲もない荷袋のどこにです」

「底にだ。少し仕掛けをしてな」

「……変なところに凝ると言うか、用心深いですね、隊長は」

「褒められていると思っておこう」

「もちろん、褒めてますとも――と」

 眉間に皺を寄せたエアの向こうに、近付いてくるジオールの姿が見える。ハリスが手を振ると、エアとルスターも振り返った。

 どうやら宿は無事に取れたようだ。妙に疲れた一日だったが、これでようやく休める。

 安堵したハリスは馬のたてがみを撫でながら、寝台でゆっくり眠る事を想像した。

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