世界と異世界。

七条ミル

因果と応報。

 「おい、あれ見ろ!飛び降りようとしてるぞ!」

 道行く人々は高く聳え立つマンションのベランダを指差しそう叫ぶ。

 俗に「ガヤ」なんて呼ばれる人たちが沢山居る。その世界で、彼女はいじめを受けた。毎日殴られ、服を着れば見えないところに痣を沢山作られる。トイレに入れば上からバケツで水を掛けられる。教師は強い者に味方し、勘違いだろう、自分でやったのだろう、と責め立てる。

 そんなクソみたいな世界に嫌気がさしたのだ。彼女は今からベランダから飛び降りる。

 通う学校の制服を身にまとい、見た人間が痣に気づくよう、体に水を掛けて。

 ベランダの柵の外側に立ってみる外の世界は、なんとも汚らしい、そう思った。目を凝らせばそこらじゅうにゴミが落ちている。下に居る「ガヤ」は、写真を撮っている。SNSのネタにでもするのだろう。

 ――そろそろ、飛び降りよう。


* * *


 「あ、目覚められましたか?」

 彼女の寝るベッド枕元で、メイド服を着た20代に見える女性が優しく声をかけた。

「今、お水を持ってきますね。」

 メイド服の女性が部屋を出て行った。

 その部屋は、中世ヨーロッパ風で、磨り硝子の嵌められた窓からはやさしい光が差し込んでいる。暖炉の上に燭台が二つ置いてあり、それに置くための蠟燭と火打石が置いてあった。

「お持ちしました。ここにおいておきますね。」

 彼女は起き上がって硝子のコップに入った水をすべて飲み干した。

 少し落ち着きを取り戻した彼女は、自らを観察する。

 飛び降りたときと同様の制服を着ているが、服は濡れていなかった。そもそも、飛び降りる直前と、濡れていないという点以外はまったく同じであった。

「どうして、私はここに…?」

 彼女がメイド服の女性に尋ねると、

「ご主人様が散歩のときに道端で倒れているところを発見して、抱えて帰ってきたのです。」

そういってメイド服の女性はご主人様を呼んできます、と言って駆け足で部屋を出て行った。

 ふと思い、制服の袖をめくり腕を見てみる。

 ――痣がない。

 特に集中的に痛めつけられた利き腕である左の腕も見てみたが、そちらにあった痣も同様に、見る影もなくなっていた。

 「おお、起きたかね。具合はどうだ。」

 そういって、大柄であごひげを生やした中年のおじさんが部屋に入ってきた。おそらく、この家の主人であろう。

 「ええ、概ね大丈夫です。」

彼女はそう答えると、まくっていた左腕の袖を元に戻した。

「そうか。それでは、食事にしようではないか。」

 彼女は二人に連れられ食堂に入った。豪華な装飾が施された室内に、たくさんの料理が並んでいる。

 その豪勢な食事をご馳走になり、彼女は入浴を勧められた。普段ならば、痣を見るのが厭で最低限しか入らないようにしている彼女だが、腕の痣が消えていたところを見ると全身の痣が消えているのかもしれない、と期待し、風呂に入れてもらうことにした。

 案の定、全身の痣が消えていた。そして、かつて付けられた切り傷のあとも綺麗に消えている。

 彼女はいい気になって前身を洗ったあと、湯船に入って自分の体を眺めていた。

 その日、宛がわれた部屋で、彼女はとても久しぶりにぐっすりと寝た。


 * * *


 救急車の音が通りに鳴り響き、面白がって動画を撮影していた「ガヤ」の人間たちも、何も言わずスマートフォンを鞄やポケットにしまう。そして、私は何も知りませんと言わんばかりに早々と立ち去っていく。

 病院に搬送された彼女は、妙に綺麗な体を保ち、そしてすぐに息を引き取ったという。


* * *


 彼女がお世話になりました、と言って屋敷を出ようとすると、主人は彼女を止めた。

「だめだ、丸腰だと魔物に狙われるやもしれぬ。宿屋までは少しあるから、これをもっていきなさい。」

 主人は懐から短剣を取り出した。そして鞘になる皮の入れ物を用意させ、それに入れて彼女に渡した。

 彼女は魔物という言葉が引っかかっており、どうせからかっているのだろうと、高を括っていたのだが、数分後、その「魔物」と遭遇することとなる。

 沢山の人間に踏みならされた道をとぼとぼ彼女は歩いている。草むらからは動物のものと思しき足音が聞こえてくる。

 ――ごがごごごげごぎぎぎげぎぎごががげゥ

 近くの茂みから、なんだかよくわからない鳴き声なのかなんなのかが聞こえてきた。

――ガサガサ

――グガアアアアアアアアアアアアッ!!!!!

 小さな魔物、それこそ手のひらサイズの魔物が茂みから現れた。彼女は驚きしりもちをついたが、魔物は上に乗り彼女の制服の腕部分を切り裂いただけだった。

 彼女は腰に適当に止めてあった短剣を取り出すと、それを小さな魔物に向けて付きたてた。

 魔物から血が流れ、制服に付く直前でなんとか魔物をどけた彼女は、ゆっくりと警戒しながら無事宿屋に着いたのだった。


* * *


「おい!脱げ!」

 制服を着た如何にも不良然とした女子生徒が、女子トイレで彼女にそう命令した。彼女は黙って制服を脱ぎ始めた。

 女生徒は服を脱ぎ終わった彼女にバケツで水を被せ、背中を思いきり蹴った。そして倒れこんだ彼女の腹にこぶしを一発決めた。


* * *


 宿屋に到着すると、宿の人間が出迎えてくれた。魔物を討伐する仕事をすればタダで泊まらせてくれるという。おまけに給料も出るそうなので、彼女は喜んでその仕事につくことにした。

 翌朝、彼女は短剣を持って、制服を着て外へ出た。

 少し草むらに出れば沢山の魔物がひしめき合っている。その中の弱そうな奴を狙い、刃を突き立てていく。

 運がよければそこで片付く。しかし、世の中そう簡単にはいかないものである。

 粘液をまとったカエルのような外見の魔物にのしかかられたのである。服を溶かされ、その大きさに見合わぬ怪力で彼女に攻撃を加える。

――ゲフッ

 彼女は血を吐き、咽ているが、魔物は一切気にせず攻撃を加える。

 体中痣だらけになりつつも、漸く魔物を仕留め、なんとか宿屋に到達したものの、部屋に戻り布団に一瞬横になったときには既に意識は無かった。


* * *


 朝彼女が学校へ到着すると、机が荒らされていた。中の物はぶちまけられ、彼女の所有物である本は切り裂かれていた。教室の人間たちは皆失笑している。


* * *


 彼女が起きると、部屋が荒らされていた。金目のものはすべて取られている。溶かされてボロボロになってはいたものの、まだかろうじて隠すところは隠せていた制服も、見事にすべて剥ぎ取られていた。仕方なく、彼女は近くにあった布で下着を繕い、宿の人に洋服を恵んでもらった。


 ――帰りたい。


 正直、彼女はそう心から思っていた。


 ――死ぬんじゃなかった。


 命を軽く見た彼女に、罰が当たったのだろう。


 ――いっそ、もう一度死のう。


 彼女はそう思ってしまった。


* * *


 あたりは薄暗く、一面真っ白の床が存在しているのみの空間であった。天上も、壁も、柱も家具も、何も無い。ただただ白い床がある、そんな部屋に彼女は一人佇んでいた。

 その空間で彼女は泣いていた。ひたすら、泣いていた。ただただ、自分の考えの浅はかさを悔やんでいた。彼女の嗚咽が何も無いその空間に、彼女の涙がその空間に、彼女だけが、あった。

 彼女はもはや何者でもなかった。

「ごめんなさい。ごめんなさい。」

 謝ったところで、それを聞き入れてくれる者など誰も居なかった。その命に対する考えの甘さが招いた結果であった。

 何も無い空間に、ただひたすら彼女の嗚咽が聞こえてくる。


* * *


 マスコミは少女の自殺にいじめが関係しているという警察の発表に猿のように飛びつき、そして好きなように報じていた。

 月日が流れれば、みんなはそんな一人の人間の死なんてみんな忘れてしまうのに。

 しかし、皮肉なことに月日が流れても忘れない人間が、数名。

 そのいじめの当事者である。少女に手を下したものは、一生少女を忘れることができない。

 少女が浅はかな考えに苦しんだように、またそのいじめの当事者も、自らの考えの浅はかさに苦しみ続けるのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

世界と異世界。 七条ミル @Shichijo_Miru

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る