3-15 新橋アンダーグラウンド — SHINBASHI underground

 周囲から怨嗟の声が刃のように降り掛かる。


 迫り来る声はソラを圧し潰すわずか手前で止まる。足を前に出そうとするが声が邪魔をして踏み出す事が出来ない。四方を囲まれ、がくがくと震える足で必死に立つ。足を踏み出せない。前に進む事が出来ない。下層界の入り口、新橋アンダーグラウンド。旧地下鉄新橋駅の地下は薄暗く、蹲る人と影の境界が曖昧だ。


「しばらく目を閉じて立っていろ。それだけでいい」


 アンダーグラウンドの暗闇の中、終始無言だったユーリはそれだけ言うと静かにソラの背後に立つ。ユーリはそのまま消えてしまったかのように気配を断つ。

 言われなくても暗闇から胡散臭げに投げかけられる、ぼろを纏った人々の視線の中でソラはただ立ち尽くすしかない。

 じっと立ち続ける。ぽつん、ぽつんという水の滴る音と共に暗闇から言葉が聞こえてくる。ほとんどは卑猥な言葉や怨嗟の声で、恐怖がソラの心の中にじわりと入り込む。恐怖は心を敏感にする。ソラの心の感度があがっていく。

 砂利を踏む音。闇に響く高く空虚な笑い声。無。いや、そこには何かがある。いや、何もないのかもしれない。聞こえた、と感じたのは闇に響くソラ自身の心の声かもしれない。


 突如、感度が限界を超え、アンダーグラウンドの人々の心の声が明確なイメージとなってソラの視界に流れ込む。嫉妬、恐怖、怨嗟、憎悪。下層界の住人が抱く感情は負の感情ばかり。そうした負の感情は大きな圧迫感—壁のイメージとしてソラに流れ込み、ソラの足を止める。本当はそこに壁などない事はわかっている。でも目に映るものをどうして否定できるだろう。


 ソラはたまらずしゃがみ込む。灰色の壁は天をも覆い、ソラを小さな空間に閉じ込める。トワの温かな手を思い出す。あの手にもう触れる事は出来ない。何人も殺したトワの手は血に染まり、殺された者たちの残留思念がソラの視界で蘇る。ソラは自分の胸をかき抱く。この能力はなんなのか。マカロワは、この能力こそ人が人を超える上で最も重要な能力と言った。しかしどう考えてもそうとは思えない。必要以上に他人の感情や思いを理解したって苦しいだけだ。


「ソラ」


 暴風雨のような感情の嵐に叫び声を上げそうになったとき、手を掴まれた。

 その冷たい手はソラの中の熱い感情の塊を急激に冷やし、ソラをいつものソラへと引き戻していく。


「ユーリ」

「やはり止めておくか?こんなに人の多いところでは厳しいだろ」


 黒いパンツスーツに身を包み、レイヴンがしまわれたチェロケースを担いだユーリは、富裕層の娘にしか見えない。憎悪の視線を受けこそすれ、誰も手出しはしない。富裕層の人間に危害を加えれば下層界の人間は合法的にも私的にも裁かれ、この世界から—そうアンダーグラウンドからも—居場所を失う。


「ええ—」


 ユーリの胸元で紫色の石のついた首飾りが光る。祈りの塔と同等の紫外線を放射する特殊な機械。その石の力でユーリは身体の暴走を押さえながら活動する事が出来ている。


「大丈夫よ」


 ソラはユーリの手を取って立ち上がる。ユーリもリスクを抱えながらここに立っている。自分だけ逃げ出すわけにはいかない。


「手を、握っていて」


 ユーリは無言でソラの手を強く握り返す。不思議な事に、トワよりも遥かに多くの命を奪ってきたユーリの手からは、怨念や憎悪を感じない。そうした感情を抱く間もなく命を奪ってきたからだろうか。

 ソラは息を整える。周囲の壁が心なしか薄くなった気がする。壁を通じて感情の根元を、感情を発している人々を捜し出す。ソラは見た事もない、一人一人の顔をイメージしながら、心の中で話し始める。


 『みんな、私を—』

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