10 桐子の帰館
坂戸がリトルの坂西監督にこれまでの経緯を重要な点だけ抽出して話した。
「私が至らぬ者だったばかりに、このようなことになってしまい、申し訳ございません」
坂戸は頭を下げる。坂西は恐縮して頭を掻いた。
「いえいえ。こちらもそちらにロクに確認を取らず、桐子をコーチにしてしまい、すみませんでした。てっきり、坂戸さんと話がついてるものだと思ってました。だから、自分もあえて突っ込んだことを聞かなかったんです。それがアイツのためでもあり、こちらのためだと思ったので」
「疑いだしたらキリがないものですよね。良い部分を信じて解釈するのが人間です」
「それと、これはこちらの一方的なわがままなんですが……」
坂西は由加里と坂戸を交互に見つめる。何かを察した坂戸が首を横に振った。
「坂西さん。物事には順序があります。とりあえず、桐子を呼んできてください」
「すいません、そうでしたね」
坂西はグラウンドへすっ飛んでいった。
「何か言おうとしてたけど?」
由加里は不思議そうな表情を浮かべていた。
「欲張ろうとしたからあしらっただけよ。私があまり責めないで話を聞いてくれるものだから、勘違いしちゃいそうになったのね」
「欲張る? まだほかにコーチをしてほしい人間がうちにいんの?」
あたりまえじゃない、と口から出かけて坂戸は嘆息する。客観的に見て、若い自分がこんなにも鈍かったことがショックだったらしい。
「アンタ、まだまだ鈍いわね。プラスして自分を過小評価しすぎよ」
「そうかな?」
「そうかな? じゃないわよ、もうっ」
坂戸は由加里の太ももをつねった。由加里が涙目になった瞬間、球場から桐子がひとりの少女を連れて出てきた。
「あの子が桐子の教え子かな。結構小柄な子ね。……でも、なんか見覚えがあるのよね」
「……」
由加里は唇を噛んでいる。こちらに近づいてくるふたりから目を離そうとしない。
「この場に連れてくるということを理解してるわよね?」
あまりにもこっちに一瞥もくれようとしないため、坂戸は由加里を盗み見た。涙の奥の瞳には嫉妬の炎が燃え盛っており、一歩間違えれば噛みつきかねない雰囲気を醸し出している。そんなことを危惧した坂戸は、由加里の太ももをつねった。
「……」
由加里も無言で坂戸の太ももをつねる。やられた分の倍以上の力だ。
「痛っ」
激痛に顔が歪み、坂戸の目にも涙が蓄えられる。文句を言おうとしたが、桐子たちが目前までに迫っていた。
「何しに来やがった。坂戸のババアまで連れて来やがって。オレはあずさにコーチしてっけ忙しーやんだ」
桐子がにべもなく言い放つ。由加里は思いの丈を絶叫した。
「私は……私は、桐子が必要なんだ!」
由加里が桐子に詰め寄り手を握った。
「な、なんだよ急に」
桐子はひるんだ。こんなことを由加里から言われたのは初めてだった。目を白黒させ、泣いている相棒をどうしたらいいかわからなくなっていた。
「私はアンタとしかほぼ組んでない。アンタがいなくなったら私は終わりなんだ。アンタがいて私がいる。そりゃ、リードは稚拙であまり勉強する気もなさそう……けど、それを抜きにしても攻守の要を失いたくない! だから……!」
由加里は勢いよく頭を下げる。
「戻って来てほしいっ……!」
困惑した桐子がチラッと横の坂戸に目をやると意図せず目が合う。坂戸は目と鼻の先まで進み出て深々と頭を下げた。
「桐子……さん、私はあなたの人格を否定し、しかも自分の人間性を疑うようなことを言ってしまった。本当に申し訳ございませんでした。指導者として何より人間として失格だと強く思った。私としてもあなたは野手の中で一番必要な人物なのよ。どうか戻って来てほしい。私が憎ければ罵倒(ばとう)してタコ殴りにしてもいいのよ。それだけのことをしたんだから、報いは当然受けねばならないの。あなたの価値観は否定しない。これからの私は反省を行動で示す。1ヶ月、いや2週間経っても前の傲慢(ごうまん)な私であれば見限って、不信任投票をしてもらってもかまわないから」
すでに桐子の両手を握りしめて泣いている由加里の手の上から、坂戸の手が握られる。
「な、殴りりゃしねーよッ。アンタがそこまで言うんなら……」
しかし、これまで黙っていたあずさが桐子に抱き着く。
「師匠行っちゃうの……? 行っちゃやだよ! もっといろんなことを教えてほしいよ!」
と、わんわんと泣き出す。
豪快の泣き出す女の子とさめざめと泣いてる女子と頭を下げて動かない女史が、桐子からまとわりついて離れない。
混乱の極みに達した桐子は癇癪(かんしゃく)をおこした。
「あーもう! わかった、わかったからナ(おまえ)ら離れやがれ!」
坂西も呼んできて30分近くの話し合いの末、桐子は新後アイリスに戻ることになり、時々リトルのチームにも顔を出すことになった。理由は、あずさの捕手としての育成がまだまだ途中だからである。この世界の桐子が将来、元の世界のようにコーチを経験して監督になるかはわからない。だが、人を育てることは、ほかの仕事でも活かせることができるし、桐子もあずさもかけがえのない経験となる。禍(わざわい)を転じて福と為(な)す――坂戸は一連の出来事やせっかくできた繋がりをムダにしたくなかった。
「うちの桐子がお騒がせしました」
坂戸が申し訳なさげに頭を下げると、坂西は手を横に振り、かえって恐縮気味に答えた。
「いやいや、騒がせただなんてとんでもない。桐子にはお世話になりましたし、これからもよろしくお願いします」
「あ、あのっ……」
何かを言いかけてあずさは口をつぐんだ。坂戸は機敏に察知して優しく声をかけた。
「あなたもいつでもウチに遊びに来てもいいのよ」
あずさは驚いて目を見開いている。
「本当っ? ……ですか?」
「ええ、もちろんよ。優しいお姉ちゃんたちが待ってるわ」
「ありがとうございます!」
坂西が感心した口ぶりで言った。
「いやー、全然違うな!」
「何がですか?」
坂戸が聞き返した。
「いえ、ね。こう言っちゃ失礼になるんですが、桐子が坂戸監督のことを『自分のことしか考えてねぇロクでもねぇクソババア』や『この世で今すぐ地獄に落ちてほしいランキング堂々1位』なんて言うもんで、実際どんな人なんだろうなと思ってたんですよ。それがこんな懐の深いいい人なんで、びっくりもしましたし、嬉しい発見でした!」
「桐子の言うことは合ってますよ。1週間前までの私はダメな監督でした。だから今、自分の悪い部分を必死に削ぎ落とそうとしてるところです」
「そ、そうですか」
澄ました顔で物騒な言葉を言う坂戸に、坂西は乾いた笑いをこぼすしかなかった。
坂西とあずさと別れ、3人はタクシーで恩愛寮へと向かっていた。
助手席に坂戸、後部座席に由加里と桐子が収まっている。
坂戸は疲れからか眠っており、後部座席のふたりは気を遣ってヒソヒソと話していた。
「なあ、監督に変なことを吹き込まれたんか?」
「べつにそんなことないよ。私は自分の中にあった素直な気持ちを言っただけ。細かいサインなしに投げられるキャッチャーはアンタしかいないし。アンタもそうでしょ? 適当なリードで許されるのは私だけだと思う」
「まあな」
一度は肯定したものの、桐子は引っかかりに即座に気づいた。
「って、適当って言うなや! 一応ない知恵絞ってんだっけや!」
由加里はニヤニヤしつつ、指でボリュームを絞る動作をする。
「ま、まあ、オレもナ(おまえ)とは離れたくねーよ。だってや、ガキんころからバッテリーを組んでんだぜ? しかもあと何年かすれば25年経つ。そこらの夫婦より長えんだっけや」
桐子は照れて顔を赤くしている。素直になればなるほど色の度合いは増していった。
「おっ、アンタが素直になるなんて珍しいね。でも、銀婚式かー。監督はそのころになったら、なんかお祝いでもくれるかな?」
突然、坂戸が振り返った。
「いいわよ。ふたりでハワイにでも行って来ればいいじゃない」
「なっ、起きてんじゃねーか! しかもそれじゃ新婚旅行じゃねーか! バッカ野郎!」
桐子は窓枠に頬杖をついてそっぽを向くと、タクシー内が明るい笑いに包まれた。
「そうそう、あずさちゃんは大事に育てないとね。今は140センチもないぐらいだけど、あなたたちぐらいの歳になれば贄ちゃんより大きくなって、新後でも有数のキャッチャーに成長するんだから」
「ちょっと、監督」
余計なことを口走った坂戸を由加里が白い目で見た。坂戸も表情をこわばらせて桐子の反応をうかがっている。
予想に反して桐子は胸を叩いて白い歯を見せた。
「任せとけや。オレもそんな気がすんだわ。足もはえーし、そんじょそこいらのキャッチャーと違うモンを持ってる。アイツも今の新田(にった)や平(たいら)譲(じょう)じゃなくて、戦前の吉永(よしなが)が憧れってんだから、変わってわな(るな)」
「そうだね。でも、今から目標があるっていいことじゃん」
「んだな。ま、吉永にどこまで近づけっか楽しみだて(だな)」
桐子は成長した我が子を見て喜ぶ母親なような笑みを浮かべた。
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