09 この世界のこと 後編
「少々お待ちください」
トキネはこの時代では不釣り合いな物を引っ張り出した。タブレット端末である。
「こんなところで出してもいいの? 未来の製品でしょ」
「問題ありません。この時代の人たちには私たちの行動が、ただおしゃべりをしている大食い女子高生と中年女性にしか見えませんから」
「……つまり、この時代に不都合が出てきたり、存在しないものは行動ごとに変わってしまうわけね?」
「ええ。よくできてる世界です」
トキネはタブレット端末を指で操作しながらイヤホンの片方を差し出す。
「念のためです」
トキネ自身もイヤホンを耳に挿していたので、佐渡も迷わず耳に挿した。
「ショッキングかもしれませんが、現実です」
心なしかトキネの目が暗い。そんなことを気にしていると、トキネの指が動画再生ソフトのプレイボタンに触れた。
最初に、車の後部座席に乗った佐渡が映し出された。飲みすぎたせいもあり、死んだように眠っている。場面が切り替わり、佐渡を乗せたタクシーが夜道を走っている。片側二車線の大きな道路だ。大きな交差点の中ほどを通り過ぎたときだった。信号無視の車がもうスピードで、ちょうどタクシーの後部座席に突っ込み、その衝突の衝撃でシートベルトを着用してない佐渡が、車外に投げ出された。糸の切れた操り人形のように、なすすべもなく道路を転がっていく。生きているの死んでいるのかわからない。しかも、ようやく反対車線側で止まった佐渡の体から血が滲み出してきたから、このまま放っておけば間違いなく死ぬだろう。と、そこに、一台の観光バスが接近してきた。バスの運転手が、突如出現した横たわった人間を踏むまいと急ブレーキをかけた。耳をつんざく高い音が、ピクリともしない佐渡に聞こえていたのかはわからない。バスのタイヤが、佐渡の頭を割ってしまう瞬間に動画は終わった。
佐渡の表情が凍りつき、額には汗が滲んでいる。無意識に片手が心臓のあたりをさすっていた。気分が悪くなるほど今も心臓が高鳴り続ける。頭もそうだし、目の前が真っ白になりそうだった。
「これが――現実です」
トキネの顔がわずかにこわばって見える。さすがの彼女も、ショッキングな映像を見せたことに気が引けたのだろう。
「……すみません」
沈黙に耐えかねたのか頭を下げていた。
「なんで頭を下げるのよ。あなたがやったわけじゃないんだし、謝る必要なんかないわよ」
「はい……」
「なるほどね。これじゃ帰れないわ。帰ろうもんならあの世へ直行だもの。まだ私は、死にたいと思うほど歳をとってないし……40過ぎたおばさんだけど」
トキネに笑いかけてみる。トキネの口角がほんのわずかに上がったのみだった。
「私はここでやるしかない。佐渡由加里という名前は一旦忘れる。その坂戸(さかど)悠里(ゆり)という名を受け入れるわ」
「佐渡さん」
「このまま死んで終わるより、坂戸悠里として自分が望む未来を切り拓くわ」
佐渡――坂戸に生来の負けず嫌いさと、元の世界で経験してきた不撓不屈(ふとうふくつ)の魂が蘇ってきたようだ。
「それで、この世界の私は何をすればいいの?」
聞かずともわかっていたが、一応聞いてみることにした。
「チーム――つまり、新後(にいご)アイリスのことですね。これを定められた期間――半年後までですね。それまでに崩壊させない。チームを定められた期間までに拝藤(はいとう)組と戦い、勝利に導く。佐渡――坂戸さんは部長と監督を兼任すること。拝藤組野球部を崩壊させる。この4つのうち、ふたつを半年後までに遵守か達成していただければよろしいです」
言い終わり、トキネはフルーツポンチを立て続けにふたつ平らげた。
「聞きたいことがたくさんあるけど……もしも達成できなかったらどうなるの?」
「別の世界に飛ばされます」
「過去か未来かわからないってこと?」
「わかりません。ただ、少なくとも死ぬことはないです」
「ちなみに、達成できたらどうなるの?」
「願いが叶えられます」
「なんでもいいのね?」
「はい、なんでも。ちなみに、みっつ達成できたらふたつ叶えられますので」
坂戸は生唾を飲み込む。自分の考えが倫理的に正しくないのはわかっていた。だが、聞かずにはいられなかった。のどが急激に渇く。氷が融けきった水を飲み干した。
「死者を復活させることも可能なのね?」
「可能です。辻褄も合わせることができます」
こともなげにあっさりとトキネは断言する。
「やっぱり、倉本さんがいる世界のほうがいいですか」
「そうね。せっかく、タイムリープをしたのだから、恩師が身近にいてれくれたほうが嬉しいわ」
「なるほど。そうなのかもしれませんね」
うわべだけの共感をしつつ、トキネはフルーツポンチとフレンチトーストを腹に収めた。ついでにアイスを5つ注文した。
「ただ、気になるのが拝藤組ね……」
拝藤組――総合建設業の会社である。社員数は単独で2000人を超え、連結では3000人近くにもなる指折りの大手だ。野球部の創部年が1978年。都市対抗12回出場、社会人野球日本選手権大会では10回もの出場を果たす現時点で社会人野球界では最強チームと言われ、畏れられている。発足当時から強さは折り紙付きだったが、80年代のバブル景気と比例するからのように強さを増していき、バブルが崩壊した1991年と1992年の前者と後者の大会では連覇を果たしている。この年――1993年――の大会ではいずれも準優勝に甘んじたがそれでも、前者は5回優勝、後者では6回優勝している。各時代にプロ野球選手も何人も輩出しており、いずれも一定の活躍を見せていた。そして、何より驚くべきが女子チームであることだ。
「気になりますか?」
「もちろんよ。で、秋の大会でうちは勝ったの?」
「ええ、そこは史実通りです」
1993年の秋。社会人野球日本選手権大会で倉本率いる新後アイリスは、拝藤組相手に大金星を挙げて見せたのだ。クラブチームである新後アイリスが、企業チームである拝藤組を倒したことは各業界で大いに話題になっていた。
「この時代の女子も男並に強いの?」
「ひょっとしたら、もともといた2013年よりも強いかもしれませんね」
やるべきことがいくらでもあった。自分の現状の把握から、チームの戦力を自分の目で見て洗い出し、データ化して再編成を行う。それに、チームの支援してくれている各所との連携の強化。拝藤組対策もしなければならない。拝藤組の社長は執念深いことで有名で、社業のほうで葬りさられた会社は数知れず。必ずしやなんらかの行動に打って出てくることは予測された。
坂戸が指で目頭を揉んだ。
「……頭の中がごちゃごちゃしてきたわ。少し頭の整理をさせて。3日以内に必ず返事するから」
「わかりました。情報量が多すぎましたね」
トキネが来たばかりの丸いアイスを、蛇が獲物を丸のみするかのごとく腹に落としていく。
「これ、私のポケベルの番号です。それと、ほかに説明しよう思った事柄は、このファイルに挟めてありますから」
「ありがとう……ってポケベル?」
「坂戸さん、今は1993年です。携帯はおろかPHSも発達してませんよ」
ポケベル――通称はポケットベル――が隆盛を迎えていた時代である。携帯電話もPHSも普及にはまだまだ時間が必要だった。
水色のファイルとその上に乗せた灰色のポケベルを坂戸に渡した。
「今にして思えば不便な時代ね」
「坂戸さんのポケベルの番号は、ファイルに挟まってある資料を確認してください。上のほうにあるので、見つかりやすいはずです」
「ありがとう」
坂戸がポケベルを胸ポケットに突っ込み、資料とバッグを持って立ち上がった。
「選択は悔いのないようにしてください。連絡をお待ちしてます」
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