80.壬生を発つ時





 母上!母上っ!


 呼びかけもむなしく、目の前で母はふらりと脱力し、静かに倒れていった。そして何も言わずに笑みを浮かべ、そのまま目を閉じていく。


「はっ……!」

 さくらはガバッと体を起こした。

「はあ……夢か……」

 母の死に際の夢を見るなんて、久しぶりだ。さくらはふうと息を整えた。それからのそのそと布団から這い出ると、そおっと衝立の向こうに顔を覗かせた。源三郎は、すうすうと規則正しい寝息を立てている。さくらはほっと胸を撫でおろすと、再び布団の中に収まった。

 その昔、剣術の稽古を始めたのは「目の前で大切な人を死なせたくない」というのが動機だった。

 だが、さくらはなすすべもなく”大切な人”を見送った。

 ――母上は、今の私を見てなんと言うのだろう。

 新選組の一員として、日々不逞の輩を捕まえ、時には斬り捨てる。そんな日常に身を投じたことを、後悔はしていない。一緒に武士になろうと共に約束した仲間もいる。今歩んでいる道は、武士になるための考え得る最短距離だとさくらは信じている。

 とは言え、それは山南を失ってまでも進まなければならない道なのか、とふとした瞬間にさくらは考えてしまう。こういう静かな時は尚更だ。だがそれでも、なんとか自分を奮い立たせるしかない。

 ――後ろを向いている場合ではない。どんなに考えたところで、山南さんが戻ってくるわけではない。私は、山南さんに託されたのだから。この新選組を。


 ***


 山南がいなくなってからわずか十日も経たないうちに、新選組はかねてから計画していた西本願寺移転を急速に実行へと移していった。

 その手際のよさは、平隊士の間に様々な憶測を呼んだ。

「やっぱり、土方副長は山南副長を疎ましく思っていたんじゃないか?切腹した途端に移転の準備を始めるなんて」

「実際、反対してたの山南先生だけだったみたいだしな」

「ってーことは何や?土方副長が山南先生を嵌めたいうんか」

「思うのは勝手ですけど、誰が聞いてるかわからないこんな庭先であまりそういうこと言わない方がいいですよ」

 この中にはいない人物の声だ、と気づいた隊士たちは、わっと飛び退いた。

「おっ、沖田先生……!」

 総司の登場に、隊士たちはさっと顔を青くする。

「す、すみません、俺たちそんなつもりじゃ……」

「あははっ。私がどんなつもりだと思ったと思うんですか。ま、とにかく今回は聞かなかったことにしてあげますから気をつけてくださいねー」


 唖然としている隊士たちをその場に残し、皆が慌ただしく荷造りをしているのを横目に、総司は飄々と屯所の中を歩いていった。そして、歳三の部屋の前庭に到着した。

「なんだ総司」

 歳三は、ちょうど縁側に腰掛け爪を切っていた。

「特に用はないです。皆がバタバタしているのでなんとなく静かな方に向かって歩いていたらここに着いてました」

「ずいぶん余裕だな。荷造りは済んだのか」

「土方さん、自分で割り振ったくせに忘れてるんですか。今日は二、三、五、六番隊の引っ越し日。一番隊は明日です」

「だからって荷造りしなくていいことにはならねえだろう」

 大丈夫ですよお、と言いながら、総司は歳三の隣に腰掛けた。

「ねえ土方さん」

「なんだよ」

 自分から話を振ったものの、総司は言おうか迷うようにうーんと声にならない声を出した。歳三がもう一度「なんだよ」と言うので、しかも今度は少し苛立ちが滲んでいたから、総司は思い切って言った。

「知っていたんですか。島崎先生と、その……山南さんのこと」

「だからどうだっていうんだ」

 それが肯定だということは明らかだった。総司はこれで合点がいった。と同時に、あの時感じた気持ちが再び胸に去来する。


 山南を追い大津に向かうと決まった時、

「総司、ちょっといいか」

 と総司は歳三に呼ばれた。

「もし、もしもだ。サンナンさんを見つけたら……折を見て、さくらと二人きりにしてやれ」

「はあ……やってはみますけど、なんでまた」

「副長命令だ」

「そうやって都合が悪くなると”副長”を振りかざすの、どうかと思いますけど」

「つべこべ言うな。わかったな」

 腑に落ちないながらも、総司はこの歳三の言葉を胸にさくらと共に壬生を出発した。そして、不本意ながら山南と行き会ってしまった。さくらと二人で脱走の理由を問い詰めている中で、総司は歳三の言葉を思い出した。風呂に行くのを口実に、二人きりにすることができる。

「私が風呂から帰ってきたら、島崎先生しかいなかった。そう思うことにします」

 二人きりになったら、二人は何を話すのだろう。総司は部屋を出ると、すぐには風呂に行かず隣の部屋で襖から漏れ聞こえる話の内容にしばし耳を傾けていた。

 そして聞こえてきたのは。

「山南さんを、お慕い申していたんですから」

 さくらの、震える声だった。

 そういうことだったのか、と総司は思った。同時に、何かとても悪いことをしたような気になってしまい、なるべく足音を立てぬように、しかし足早に、総司は風呂へと向かったのだった。

 無事に湯に浸かると、はあと大きなため息が出た。

 あれでいて、島崎先生もひとりの女子だったのだなあ。まさか山南さんに惚れていたなんて。その静かな驚きは、山南が切腹になってしまうかもしれないという事態の緊迫さをひと時かき消してしまう程だった。そして、何か言いようのないもやもやとした気持ちが総司を支配した。


 パチンパチンと歳三が爪を切る音を聞きながら、総司は不貞腐れた顔をした。

「なんだか、ああ、島崎先生って、そうだったんだあ、ってそういう風に見ちゃいますよこれから。どうしてくれるんですか」

「どうもこうもないだろ。盗み聞きしたお前が悪い。それに、里江の時といい、女が誰に惚れてるかってのに気づかなさすぎるお前が悪い。剣術以外のそういうとこ、お前はからきし駄目だな」

「お、お里江ちゃんのことは今はいいじゃないですか……!土方さんも意地の悪い!」

 里江の名を出されて、総司は狼狽した。かつて好意を告げられたのを総司が断ったら、未遂に終わったとはいえ自害を図った。そんな里江の気持ちが、今でも完全には理解できていない。

「お前も少しは女に慣れろ。大人になれ。そうすりゃわかるようになる。引っ越したら島原は目と鼻の先だ」

 そう言われましても……と不服そうな目を向けると、歳三は

「いいから早く引っ越しの用意をしろ」

 と総司を睨みつけた。


 ***


「ああもう、引っ越しの!日程が!早い!」

 さくらは文句を言いながらも、押入れから荷物を引っ張り出しては乱雑に行李に詰めていった。

 変装することも多い仕事ゆえ、着物や雑多な小物もおそらく普通の隊士よりは多いはずだ。むろん、比べたわけではないのでわからぬが。

「私はもうできたぞ」源三郎が得意げに言った。

「源兄ぃは今日出立なんだからむしろできてないとまずいだろう」

「なあ、これ。懐かしくないか」

 そう言って、源三郎が出してきたのは袖にだんだら模様が染め抜かれた浅葱色の羽織だった。もともと夏物の羽織だったこともあり、昨年の池田屋出動の時に着たきり誰も着てはいない。昨秋大勢入隊した新入りたちに配られてもいないから、この羽織の存在は徐々に忘れられていくだろう。

「そうだなあ。私も、なんとなく捨てられないし、持っていこうかな」

 さくらは浅葱の羽織はどこにしまったのだっけ、と押入れや箪笥を探したが、どこにも見当たらない。

「なんだ、ないのか?」

「うん……しばらく使ってなかったから、奥の方にしまいすぎてしまったのかもしれない……でなければ、あとは……あっ」

 怪訝そうな顔をする源三郎に、さくらは気まずそうにへらりとした笑顔を向けた。

「山南さんの部屋かも」


 さくらは、誰もいない山南の部屋の襖をそっと開けた。

 がらんとした部屋には、まだ山南が使っていた文机や本の束が残っている。これはいったい誰がどう処分するんだろう、ということを思ってしまったら、この部屋に来たことを少し後悔した。

 まだまだ、残しておきたい。山南の息遣いが聞こえるような、彼の物たちを。しかし、数日のうちにはすべて引き払ってこの前川邸は明け渡すことになっている。こういうことは、あえて山南と親交の薄かった新入りの隊士に任せてしまおう。さくらは勝手に結論付けると、文机の傍に積まれている本のうちの一冊を手にとってみた。『難波軍記』。大坂夏の陣で活躍した真田幸村の軍記だ。

「真田幸村は徳川様から見れば敵ですが、軍記物の主人公としてこれほど面白い人物もなかなかいませんよ。さくらさんも読んでみては」

 ――そんな風に、薦めてくれたこともあったっけ。結局全部は読めなかったが、山南さんと感想を話すのは、楽しかったな。

 さくらは意を決したように立ち上がった。感慨に浸ったら涙が出てしまいそうだ。本来の目的を果たさねば。

 あるとしたら、押入の奥の方だ。さくらは手前の荷物を順に下ろしていき、奥に手をやった。これかもしれない、という風呂敷の感触がしたので、ぐいと引っ張った。同時に、小さな籐の箱がごとっと音を立てて落ちてきた。

 さくらはまず風呂敷を開いた。目論見通り、浅葱色の羽織が入っていた。この羽織を見ると、壬生浪士組として活動していた頃からの出来事が走馬灯のように思い出される。以前は、山南も前線で刀を振るっていた。芹沢の行き過ぎた「巡察」や「検め」を一緒に制しにいったりもした。そして、芹沢を襲撃した時は、共に修羅場をくぐり抜けた。

 ――芹沢さんも、山南さんも、せめてあの世では安らかに過ごして欲しい。

 さくらは、一緒に落ちてきた箱に目をやった。そっと蓋を開けると、何通かの手紙が入っていた。

「これ、明里さんからのだ……」

 明里からの艶文だった。読んではいけないと頭ではわかっていつつも、一通だけ、一通だけ、と自分に言い聞かせてさくらは一番上の手紙を少し開いた。

『身請けしてくださるとのこと、とても嬉しく思います。あなたと暮らせる日のことを心待ちにしています』

 そこまで読んで、さくらはやはり耐えられないと思い、急いで手紙をしまって箱を元の位置に戻した。

 明里は、あれから山南の最期の言葉通り、島原を去り故郷に戻った。落ち着いたらさくら宛てに手紙を出すと言っていたが、それがいつになるかはわからない。

 ――これこそ、誰がどうするんだ。

 さくらには、手紙の束をどうするべきか判断がつかなかった。否、判断してはいけないと思った。自分がそれを担えば、どうあがいても私情が入ってしまう。

 さくらは羽織だけ抱えてそそくさと部屋を出た。

「さくら。どうした」

 部屋を出ると、縁側に勇が座っていた。

「山南さんの部屋に、忘れ物」

 さくらはそう言って、風呂敷を少し解いて羽織とちらと見せた。

「あはは、懐かしいな。……荷造りは済んだのか?」

「ああ。だいたいはな。勇は?」

「おれは最後に出るから。八木さんたちにも挨拶していかなきゃいけないし」

「だからって全然しないのもどうかと思うぞ。ざっと見る限り、しっかり荷造りが終わっている奴の方が少ない」

「まあまあ、みんないざとなったらなんとかするだろう」

 ふうん、とさくらが気のない返事をすると、勇もそれ以上何も言わず、沈黙が流れた。だが沈黙となっても気まずさは一切なく、二人とも束の間ゆったりと流れる時間に身を任せているようだった。どこからか、ひらひらと桜の花びらが舞い込んでくる。そういえば、壬生寺の向こうに植わっている桜が今朝満開になっていた。京に来てから、三度目の桜だった。勇も同じことを思っているのか、落ちた花びらをぼんやりと見ながら言った。

「まさか、こんなに長く京にいることになるとはな」

「こっちへ来てから二年か。なんだか、信じられぬな」

「うん。……なあ、さくら」

 うん?とさくらは勇を見た。

「ありがとうな」

「なんだよ改まって」

「おれ一人じゃここまで来られなかった。だからさ」

「それは私も同じこと。お互い様だ」

「これからも、一緒に新選組をやってくれるか」

「もちろんだ。……山南さんのためにも、新選組は強くならないといけない」

 勇は、「そっか」と言って笑った。思えば、この笑顔から始まったのだ、とさくらはなんだか感慨深くなった。


 一緒に、武士になろう。

 さくらと勇は、改めて思いを胸に刻んだ。








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