30.恩人
浪士組一行は現在の埼玉県に入り、一日目の夜を迎えた。
道中は宿場町に泊まり、居酒屋や宿の食事処で夕食・朝食を取り、宿で用意した握り飯や兵糧丸のようなものを昼食としながら進んでいくものだった。最初に言われた支度金の十両の他に約二百四十人分のこれら経費を賄うのだから、金というのはあるところにはあるものだ、とさくらは思った。
「まずは一日目、お疲れ様でした」
さくら達六番組の面々は、親睦を深める意味もこめて、同じ居酒屋で酒を酌み交わしていた。
しばらくはお互いの出自や、京の情勢に関する噂話についての話題だった。しかし、詳細な時勢の話となると、ついていけるのは山南や平山など一部の人間だけとなり、置いてけぼりを食らってあぶれた者らは新たな固まりを形成しながら酒を酌み交わした。
そうしているうちに、勇と芹沢が顔を出した。二人は役職付同士の懇親会に出ていたが、きりのいいところでこちらに来たのだという。
さくら達は再び杯を掲げ、勇や芹沢を入れた六番組の浪士たちはこれからの任務の話に花を咲かせた。
「島崎といったな。お前、人を斬ったことはあるか」
たまたま隣に座っていた芹沢に酌をしたさくらはそう聞かれてハタと手を止めた。
「いいえ」
「なんだ、ないのか」
芹沢は拍子抜けしたように言った。その声に見下すような色が見て取れたので、さくらはムッとして反論した。
「おかげさまで、人を斬らねばならぬ局面に合ったことがございませぬもので」
「そうか。そんなことで京でやっていけるのか」
「いざとならば、やっていけるでしょう。そも、私は人を斬るために京に行くわけではございませぬ。飽くまでもご公儀のお役に立つためでございます」
芹沢はほう、と興味深そうにさくらの顔を見た。一瞬だけ、その表情が変わったような気がしたが、さくらは深く考えず芹沢に質問した。
「芹沢さんは、人を斬ったことがあるのですか」
「ああ、何人もな」
さくらは芹沢の目を見た。言われてみれば、その目は今まで出会った道場剣術の仲間たちとは違っていた。
「随分とやんちゃをされていらしたのですね」追及するべきか迷い、さくらは当たり障りのないことを言った。
「ははっ、やんちゃ、か。そんなカワイイもんじゃねえさ。だが」
芹沢はそこで少し口ごもった。
「初めて人を斬った相手は辻斬りだった。
「えっ?」
さくらは芹沢の顔をまじまじと見た。
その瞬間、あの時の光景が蘇ってきた。
「もしかして、昔、頬に傷がありませんでしたか?」
さくらは思わずそう尋ねていた。母を目の前で斬られた混乱の中でも、唯一覚えていた恩人の特徴であった。
「いかにもそうだが」
さくらは目を大きく見開き、芹沢の左頬を見た。非常に薄くなってはいるが、顔の皺にしては不自然な筋がある。
「ええっと、十八年前!雪の降る日ではありませんでしたか?場所は、江戸市ヶ谷!」
「そうだ。確か、そのくらい前だった。雪も降っていたな。まさか……」
「まさか、あなたが……?あの、そ、その時助けていただいたの、私……の妹ですっ!」
間一髪のところで「妹」という言葉で切り抜けたものの、さくらは興奮が抑えられず芹沢にずいっと近づいた。
「あの時は、ありがとうございました。母の仇を取っていただき、私……の妹の命を救ってくださいました。いつか絶対にお礼がしたいと思っていたのですが、お名前を聞く間もなく立ち去ってしまわれましたから」
さくらは正座に座り直し、丁寧に手をついて芹沢に頭を下げた。
「あなたは命の恩人です。誠にありがとうございました。母を守れなかった悔しさから、私は剣を取ったのです。そう考えると、今の私があるのも、あなたのおかげですね」
さくらはふわりと微笑んだ。
「そうか、お前があの時の」芹沢は事を理解したようで、目を丸くしたものの懐かしむような眼差しでさくらを見た。
「娘か」
えっ、とさくらは芹沢を見た。そして咄嗟に周囲を見回した。さくらと芹沢の会話が聞こえそうな範囲には、幸い歳三と左之助しかいない。
「ところで平間殿、京へ行ったことはおありですかな。中山道の町にはどのような美味い飯屋があるのでしょうね」歳三が不自然に声の音量を大きくした。
一方でさくらは蚊の鳴くような声で「ですから、娘というのは私の妹で、名をお初と言います」と取り繕った。
「へえ、まだシラを切るか」
「そのようなこと……」
「母君を守れなかったのはお前の妹・お初だろう。だのになぜお前が剣を取った」
やばい、という表情がさくらの顔に浮かんでしまった。
「妹まで死なせたくない。これ以上大切な人を失わずに済む強さを手に入れたいと思いました」さくらは「妹の初」の話で押し通そうとしたが、芹沢がお見通しなのはもうわかっていた。
「そうか。その意気や良し。今は、黙っていてやる。だがこれで一つお前の弱みを握ったな」
酒が回ったのか、急に芹沢は「はっはっは!」と大声で笑い始めた。
その声に周囲にいた人間はビクリとして芹沢を見た。
さくらの中で、芹沢への感謝の念と、なんだかとても嫌な予感が渦巻いた。
それから一行は旅程の半分ほどとなる下諏訪宿に差し掛かった。勇は先回りをして下諏訪の宿場町に入り、浪士やその取締役の宿を抑えるべく奔走していた。
「ごめんください、本日夜こちらに二百四十名の浪士隊が到着致します。相部屋で構いませぬので、空いている部屋をあるだけ抑えていただけませんか」
そんな台詞を言いながら勇は宿を渡り歩いた。部屋割りはだいたい同じ隊の者で同室にする流れになっていたことに、勇は安堵していた。さくらと同室になる面々を自然と試衛館の気心知れた仲間にすることができたからだ。
それとは別に、勇はもう一つ部屋割りを決める上で留意していたことがあった。
――三畳と狭いが、相部屋よりくつろいでもらえるだろう。
勇はもらった宿の見取り図に書いてある「菊の間 三畳」と書いてある箇所に丸印をつけた。多くの浪士が相部屋で雑魚寝をする中、勇は芹沢の部屋としてその個室をあてがった。
芹沢がさくらの恩人であることと、十中八九女であることがバレている、ということをさくらに聞いてから、勇は芹沢の扱いに気を使うようにしていた。粗相をすればさくらの正体をばらされるかもしれないわけで、丁重に扱うことに越したことはない。
かくして、日が沈む頃に後発の浪士たちが下諏訪宿に到着した。
「一番組の皆様は
勇は到着した浪士たちを次々と案内していった。やがて、見慣れた顔が現れ勇の顔は自然とほころんだ。
「六番組の皆様は中富屋へお願いします」
勇はそう言いながら中富屋の見取り図をさくらに手渡した。各部屋の上に泊まるべき人の名前が書いてある。島崎、山南、土方、沖田、永倉……
さくらはそれを見て顔を赤らめた。さくらの正体がばれないように勇がよかれと思ってこういう割り振りにしてくれているのは重々承知している。しかし、山南と同室で雑魚寝をするという状況で熟睡できない日も多く、すでに目の下にはクマができていた。
――今日は絶対に、山南さんからは離れたところで寝る!
さくらはそんな決意を胸に宿に入った。
一行は今日も宿の外にある食事処で各々夕食を済ませ、それぞれの宿に戻った。
しかし、事件はその時起きた。
「おい、近藤っ!近藤はいねえのか!」
芹沢の声が宿中に響いた。
さくら達の宿泊していたのは建物の一階で、二階に例の菊の間があった。
今日は勇も同室であったから、「芹沢さん、どうかなされましたか」と階段の方へ向かった。
「どうもこうも、後から来たやつが自分が部屋を取っていたのだから出てけとぬかしやがる」
えっ、と勇の顔が青ざめた。
すぐに宿の主に確認すると、手違いで予約が重複していたようであった。しかも、先に予約を取っていたのは後からやってきた侍だということと、そちらの方が脱藩浪士ではなくれっきとしたどこぞの藩士であったからという理由で、優先順位はその侍の方になってしまった。
「芹沢さん、我々の部屋に一緒に入りましょう」勇は慌てて言ったが、すでに酒に酔っていたと思われる芹沢は「いらねえよ」と吐き捨てるように言うと、宿を出ていった。
「芹沢さん!」さくらは後を追って宿を出た。
さくらが芹沢を見つけた時には、すでに手遅れだった。
宿場町の十字路が交差する、少し広い場所で、芹沢は焚火を始めていた。
「お前ら、もっと薪を持ってこい」
芹沢はくいっと顎で後方を指すと、一緒にいた平山、平間、野口が「へいっ」と言って薪を取りに消えた。
ちょうどその時、さくらの知らない男と、源三郎、総司の義兄・林太郎が現れた。
「芹沢さん、こんなところで何を」知らない男が尋ねた。
「
「なんでまた」
「部屋がねえんだよ。しょうがねえだろ」
不自然に外が明るいのを訝って新見と共に駆け付けた源三郎たちは、さくらを見つけると「どうなってるんだ?」と尋ねた。
「手違いがあってな、芹沢さんが入るはずだった部屋が空いてなかったんだよ。それで怒ってしまったようだ」
「そんな……」源三郎は絶句した。
程なくして、平山たちが持ってきた薪が投入された。焚火はどんどん大きくなっていき、あっという間にその炎の先端はさくらの背よりも高いところまで到達してしまった。
あたりには火の粉がパチパチと舞い、二月だというのに汗ばむような熱気に包まれる。
さくらを追ってやってきた勇たちや、山岡や佐々木忠三郎といった浪士の取締役も現れて一大騒ぎとなった。
勇は芹沢の前で正座し、頭を下げた。
「芹沢さん、此度のことは部屋のことをよく確かめなかった私の落ち度です。誠に申し訳ありませんでした。どうか、火を消していただけませんでしょうか。代わりの部屋を必ず用意いたします」
芹沢は何も言わずに、手にしていた酒瓶からぐいっと酒を飲んだ。その顔は炎のせいか、酒のせいか、赤らんでいた。
「構わねえよ。俺は今日はここで夜を明かさせてもらう」
「芹沢さん!お願いします、火を消してください」
勇の懇願も聞かず、芹沢はむしろ薪の量を増やす一方であった。
「芹沢さん!」
さくらは堪らず勇の隣に飛び出していった。
「このままでは宿場町に飛び火してしまいます!公方様の警護に向かう我らが、こんなところで市井の人々に迷惑をかけて良いとお思いですか!」
芹沢はゆっくりとさくらを見た。その目を見て、さくらは改めて、この人は紛れもなくあの時母の仇を取った侍であると確信した。
「お前、俺にそんな口を利いていいのか?お前は俺に借りがあるはずだ」
「私は、あなたに感謝しています。あなたのような強い武士になりたいと思っています。ですから、私の期待を裏切らないでいただきたい」
「はっ。とんだ屁理屈だな」
「本心でございます」
芹沢は、さくらの頭から地面に正座している膝頭まで、舐めるように、品定めするように、目をやった。
なんとも長く感じられる居心地の悪い沈黙が流れる。
その場にいた全員の視線が、さくらと芹沢に集中した。炎のはじけるパチ、パチという音だけがやたら大きく響く。
やがて、芹沢はふっと不敵な笑みを浮かべた。
「平間!野口!水持ってこい」
呼ばれた二人は「いいんですかい?」と虚を突かれたような顔で言い、芹沢の「いいから早くしろ!」という言葉に慌てて水を取りに行った。
「ありがとうございます!」さくらと勇は頭を下げた。
芹沢はふんっと鼻を鳴らすと、再び酒を煽った。
やがて、平間たちが持ってきた水桶で居合わせた者たちは焚火の消火を始めた。
火が消えると、火の粉の弾ける音も消え、あたりは暗闇と一層の静寂に包まれた。
「芹沢さん、部屋の空いている宿がありました。こちらへ」山南が現れ、芹沢の右手の路地を指し示した。さくらと勇が頭を下げている間に、山南、歳三、新八らが芹沢用の部屋探しに奔走していたのだった。
芹沢は重そうに腰を上げると、さくらを見下ろした。
「女だてらに、肝が据わっていやがる」
静寂を取り戻した広場に、その声はいやに響いた。
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