27.ほれたはれた
それでも人間、一睡くらいは眠れるもので。
寝たのか寝ていないのかよくわからない心地で、さくらは目覚めた。体を起こしてふと横を向いた瞬間、さくらは「ぎゃっ!!」と奇声を発して固まった。
見た先には、上半身裸の山南が立っていた。
さくらはどぎまぎして、口をぽかんと開けて山南を凝視してしまったが、すぐにハッとして後ろを向いた。
「あ、さくらさん、目覚めましたか。おはようございます」
山南は何事もなかったかのように言った。
「お、おは、おはようございます…」さくらは山南に背を向けたまま答えた。
後ろを向いているのに、脳裏によぎるのは今し方、時間にして十秒もないくらいの間、凝視してしまった山南の体だった。
優しげな顔に似合わず、剣術で鍛えたしっかりとした胸や上腕の筋肉。さくらは思い出しては顔を真っ赤に染めていた。
――私、どうしたというのだ…。初めて見るわけでもあるまいに。
山南だけでなく、勇や歳三たち試衛館で稽古する者たちは、井戸端で
――あの体に抱かれるであろう山南さんの奥さんって…
「はわっ!!」
急に大声を出したさくらに山南は不思議そうに「さくらさん?」と声をかけた。
振り返ると、山南はもういつも通りの着物を着ていた。足元には、昨晩着ていた寝間着が畳まれて置いてある。
さくらは着の身着のままで来ていたので、外側の帯だけ外した状態で寝ていたのだが、急に自分の格好が恥ずかしくなってきた。
「や、山南さんっ、着物を整えるのでっ、あちらを向いててくださいっ!」
さくらはうわずった声でそう言った。山南は「ああ、そうでした。失礼」と言って背を向けた。
「さくらさん、どうかされましたか?顔が赤いようですが」背を向けたまま、山南は不思議そうに尋ねた。
「どっ、どうもしておりませぬ!気のせいではないですかっ!」
さくらはそう言いながら帯を結ぼうとするが、手がぷるぷると震えるようで思うように結べない。焦れば焦るほど、いつもどうやって帯を結んでいたのか忘れていくようだった。
「それならいいですが。しかしさくらさん、男のふりをして京へ行くなら、男の前で着替えることも当然あるでしょうから」
「そ、それはそれ!これはこれです!」
――って、何を言っているのだ、私は…!
「どういう…?」山南が訝しんだように言葉を発したので、さくらは慌ててそれを遮った。
「ですからっ!いずれ慣れますゆえ、今は!」
――そうだ。たぶん、山南さんではなければ、まったくもって平気だ。
さくらはなんとか帯を結び終えると、「すみません、お待たせしました」と声をかけた。
振り返った山南の目に、さくらは吸い込まれるのではないかと思った。いつも見ていたはずなのに、自分に送られる視線が、きらきらと輝いて見える。
「さくらさん」
「は、はい」
「どうされますか?私は試衛館に行きますが。いつも食事の世話になっていたので、生憎ここには食べるものがあまりないのです」
――あ、なんだ、朝ご飯の話か…
「それならば、試衛館に行って朝ご飯を食べましょう」さくらは平静を装って答えた。山南の一挙手一投足が気になって仕方がない。
「もう、よいのですか?」
「何がですか?」
「近藤先生と言い争って、それでここへ来たのでしょう?」
さくらは、あっと思い出した。
この一晩でそんなことも忘れてしまう程の心境の変化があったのだ。勇と言い争ったことが、今はどうでもよく思えてきた。
「ひ、一晩寝たら頭が冷えたようです!もう大丈夫です」
「そうですか。それならよかった」
山南はふわりと微笑んだ。
さくらは、また胸のあたりがざわつく感覚に襲われた。
試衛館までの道すがら、山南の半歩後ろを歩きながら、さくらの頭の中は考え事で忙しなく、頭から湯気が出るようであった。
――お里江の言うとおりだとすると、ま、まさか、皆はもう知っているのか?お里江が総司に惚れていたのを気づいていなかったのは私だけだという話だった…。まさか、もうばれているのか?少なくとも、お里江は気づいていたのだよな…。あとはこの手の勘が良さそうなのは、歳三とか新八あたりか…いや、平助もあれでいてなかなか鋭い…言わないだけで源兄ぃも…勇も…?総司だけは気づいていないだろう。左之助も気づいていないとは思うが、お里江の一件は知っていたわけで…それより何より、山南さん本人は!?
落ち着け。年頃の娘のお里江ならともかく、三十路にもなって何をやっているのだ私は…こんなの惚れた腫れたとは別の話だ。そうだ、昨晩のことは一時の気の迷いで…
「さくらさん?」
そう名を呼び、自分の方に振り返る山南を見て、さくらはまた胸がきゅっとするような感覚に襲われた。
今まで何度も呼ばれた自分の名前。でも、今はそれが尊く、耳に甘く響くような気がした。
――負けたよ、お里江。何にかは知らぬが。お前が抱えていたものは、こういうことだったのか。でも、やはり自害はやりすぎだ。
さくらは山南に気づかれないように小さくため息をつくと、そういえば名を呼ばれたのだと思い出し、「なんでしょう」と尋ねた。
「体は大丈夫ですか?なんだか、やはり顔が赤いようですが…」
「大丈夫です!すこぶる元気でございます!」さくらはやや勢い余って答えた。
程なくして、二人は試衛館に到着した。
「おっ、山南さん、さくらさん、おかえりなさい」
最初に二人を見つけ、声をかけたのは新八であった。
さくらは、新八にばれているのではないか、とどぎまぎしたが、墓穴を掘っても仕方ないので、小さく深呼吸して息を整えると、平静を装った。
「ちょうど今朝ご飯ができるところなので、皆で食べましょう。そうだ、近藤さんに知らせなければ」
新八はそう言うと、部屋の中に向かって大きな声で「近藤さん!さくらさん帰ってきましたよー!」と呼びかけた。
バタバタと足音がし、勇がさくらの前に現れた。
瞬間、さくらは昨日のことを思い出した。
よくよく思い出せば、昨日は勇が自分の浪士組参加に賛成とも反対とも言わないうちから、思い込みで勝手に怒ってしまったのだ。さすがに大人げなかったと思い、さくらは勇に謝ろうと口を開いた。
「勇…昨日は…」
「さくらぁ、よかった、帰ってきてくれて!おれがさくらを怒らせてもうこれきりかと思ったよ」
心底ほっとしたような表情を見せる勇に、さくらはふっと微笑んだ。
――本当に、大したやつだ。だからみんなが、お前と一緒に京に行こうって思うのだな。
そして、それでもやはり謝った方がいいだろうと思い、勇に頭を下げた。
「私の方こそ悪かった。皆で、京に行こう。男の名前を考えなければな」さくらは勇の顔を見て微笑んだが、勇の方は一転して困ったような顔をしていたから、さくらは不思議に思った。
「いや、その…。昨日言いそびれたんだが…。父上の言うことは的を射ていると思うんだ。やはり、上様をお守りするという大事な仕事に、身分を偽るというのはどうかなと…」
「は?」
さくらは面食らった。昨日、周斎に言われたことと同じことを、まさか本当に勇から言われるとは思わなかった。
「とりあえずさ、朝ご飯を食べよう。な!」
勇は強制的に話を終わらせると、家の中へと消えていった。
唖然とするさくらに、一緒に残された山南は気まずそうな視線を交互に家の中とさくらに向けた。
浪士組に参加を希望する者は、半月後に小石川の伝通院に集まることになっていた。
さくらが浪士組に参加するためには、それまでに名前を変え、男物の着物を揃え、髪を切らなければいけない。
さくらの心に引っかかっているのは、髪を切ることと、父・周斎の理解が得られていないこと、そして勇までもが周斎に同調していることだった。
ここ数日間、さくらと勇は派手な喧嘩こそしなかったものの、ギクシャクした雰囲気で過ごしており、周囲の者も心配そうな、落ち着かない様子でいた。
「勝っちゃんはくそ真面目だからな」
歳三は他人事のように言うと、自分の句集「
「別にいいじゃねえか。大先生や勝っちゃんが何言おうが、行きゃあいい」
「それはそうなのだが」
「武士になるんだろ。この機を逃す手はねえ」
「それもそうなのだが」
さくらはフウ、と息をついた。
「いいよなぁ、歳三は男で。女ってのはなぁ、お前が思っているより大変なんだ」
言いながら、さくらは昨晩のことを思い出してしまった。
――女でさえなければ、山南さんにほ、ほ、惚れたり腫れたりでこの大事な時に心を乱されることはなかったのに…
「サンナンさんとなんかあったか」
歳三の台詞に、さくらは飛び上がらんばかりに驚いた。
「な、なんかって…なんだ…!」
「サンナンさんの長屋泊まったんだろ。大丈夫だったのか」
「大丈夫とは、どういう意味だ…!ただ、寝ただけだ…!いや、寝たとはそういう意味ではなく…!ああっ、そういう意味というのはそういう意味ではなく…」
さくらはバッと歳三に背を向け、文字通り頭を抱えた。
歳三は小さくため息をつき、さくらの背中を黙って見つめた。
「わかったよ」
「な、何がわかったというのだ」
「他の奴らには黙っててやるから。まだ誰も気づいてねえみたいだし」
「そ、そうなのか?」
そう言って、さくらはハッとして口を堅く閉じた。今のは、墓穴を掘ったのではないだろうかと心配になった。
「まあ、時間の問題だとは思うけどな」
歳三はぶっきらぼうにそう言うと、句集に視線を戻した。
「どんな句を詠んでるんだ?」
さくらは話題を変えようと、歳三から句集を引ったくった。
「おいっ」今度は歳三が慌てる番だった。
以前、のぶが土方家の人間は俳句を詠む習慣があって、歳三にも「豊玉」という雅号がついているのだと教えてくれたのをさくらは思い出した。
「ふーん。これが今ブツブツ言っていたやつか?『差し向かう 心は清き 水鏡』どういう意味だ?」
「説明しちまったら乙じゃねえだろ。自分で考えろ」
さくらはこういうことにはとんと疎かったので、歳三の俳句が上手いのか下手なのか判断がつかず、句集の頁をめくった。
「『しれば迷い しなければ迷わぬ 恋の道』」
「馬っ鹿、それは…!」
歳三はさくらから句集を奪い返そうとしたが、普段の稽古が役に立ったのか、さくらは素早く歳三の手を避けると背中を向けて句集を眺めた。
さくらにとって、その句は今の自分の気持ちにぴったりであった。
――まるで私の思いを代弁しているような。もしかしたら、そうなのか?しかし、この句はかなり前に読まれたものだな…
もしや、そんなに前から歳三は知っていたというのか?いや、考えにくい…もしや…
「もしや、お前も恋をしているのか?」
さくらは歳三の方に振り返り、驚きの表情を見せた。
「お前”も”?」歳三は眉をつり上げた。
「あ、いや…だからその、この句の意味は…」
「だから意味はいちいち説明しねえ!説明しねえが、その句は消したんだ。その隣見ろ」
言われて、さくらは隣に書いてある句を見た。「知れば迷い 知らねば迷わぬ 法の道」と書いてある。
「どういう意味だ?」
「何度言わせりゃ気が済むんだ」
「だが…」
「ものの例えだ。恋に例えるより法に例える方がしっくり来ると思ったんだよ」
説明になっているようでなっていないことを言い、歳三は「もういいだろ」と手を差し出した。さくらは不完全燃焼な気持ちではあったが、句集を返した。
ちょうどその時、勇がやってきた。
「さくら、ここにいたのか」
開け放していた部屋の入り口に現れた勇を、さくらは睨むように見つめた。
「なんだ勇。お前がなんと言おうと私は浪士組に参加するからな」
言いながらも、さくらは少しだけ心にもやもやするものがこみ上げるのがわかった。
話題が逸れに逸れてしまっていたが、結局歳三に相談しようとしていたのは「女の自分が男と偽って浪士組に入るのは、真の侍としてどうなんだ」という思いだった。周斎にも勇にも言われてしまうと、口では突っぱねても気になってしまうものであったのだ。
「そのことだけどよ」
歳三が、さくらの思いを汲み取ったかのように口を開いた。
「こうすればいいんじゃねえか」
さくらと勇は、歳三の話を聞き、「なるほど」と膝を打った。
「まったく、歳三の屁理屈は天下一品だな」さくらはケラケラと笑った。
「確かに、それなら嘘はついていないことになるが…。そんなにうまく行くかなぁ」勇はまだ心配そうな顔をしていた。
「そうだ。大事なのは、ある程度のところまで絶対に女だとばれないようにしなきゃなんねえ」
「やっぱり、月代を入れた方がいいのかなぁ」さくらは肩を落とした。
京で将軍の警護が無事に終われば、夏頃には江戸に帰ってくることとなる。その後浪士組がどうなるのかは知らされていないが、新八の話によれば、おそらくそのまま幕府お抱えの浪士組として、治安の維持にあたることになるのではないかということであった。
京での滞在は期間限定であっても、その後も”男装”が続くのであれば、さくらが女の服や髪型に戻ることはもうないかもしれない。
「まあ、それは総髪で結ってみてから考えればいいんじゃないか」勇が言った。
「それよりさくら、おれはお前を呼びに来たんだよ。父上が来てるんだ」
「父上が?」
さくらは周斎が待つ部屋に向かった。
先日「自分の道は自分で決める」と啖呵を切って周斉の家を出てきてしまったから、どんな顔をして会えばいいのかさくらにはわからなかった。
――いったい、何用なのだ。
「失礼します」
さくらは部屋の襖を開けた。
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