25.断たれた道
それからさらに数日後のこと。
ついに、待っていた知らせが到着した。
「勇!今度こそ来たぞ!」さくらは家中をドタバタと走りながら勇の部屋まで行き、勢いよく障子を開けた。途端に中にいたたまが泣き出し、さくらは「スイマセン…」と小さく謝った。
勇は本当か?と言いながら部屋を出て、縁側に座るとさくらが書状を広げるのを見守った。
「えっ」
二人は目を疑った。
書状には、二人とも、講武所の剣術師範には不採用となったという旨が記されていた。
目の前が真っ暗になる、という慣用表現はまさにこんな時のためにある。さくらも勇も、一言も発することなく、縁側の床にパタンと上半身を横たえた。
新八と左之助に、何かの間違いかも知れないからとりあえず講武所に行って聞いてきた方がいい、と促され、さくらと勇は早速向かった。
その道のりは、とてもとても遠くに感じられた。しかし、地に足のつかないような心地で歩いているうちに、二人はいつの間にか講武所にたどり着いていた。
「お主ら、何者であるか」
門番は訝しげな顔をしてそう言った。ついこの前は意気揚々と「剣術師範の考査に伺いました」と言って中に入れてもらえたのに、今ではまるで不審者扱いだ。
「近藤勇と申します。山岡鉄太郎様にお取り次ぎを」
門番は、存外あっさりと二人を中へ入れてくれた。小部屋に通された二人は、この世の終わりのような心持ちで山岡が来るのを待った。
「近藤ご両名様」
山岡が、神妙な面持ちで部屋に入ってきた。
「やはりいらっしゃいましたか」
山岡は上座に座り、さくらと勇は山岡をじっと見つめた。彼が何も言わないので、さくらが切り出した。
「山岡様。今朝、書状を受け取りました。我々二人とも、こちらの剣術師範の任には採らずという旨が書いてありましたが、これは真ですか」
少しの沈黙のあと、山岡が「ええ」と短く答えた。
「本日はその理由を聞きにいらしたのでしょう。最初に言っておきますが…大変失礼なことかとは思いますが、酷な話になります」
山岡は本当に言いにくそうに、言葉を選んでいるのか眉間に皺を寄せて黙り込んでしまった。しかし、このようにもったいぶられてはさくらも勇も心臓が保たない。さくらは発言を促そうとしたが、同時に山岡は意を決したように口を開いた。
「近藤勇様。あなたは、出身が多摩の百姓であられると伺いました」
さくらは嫌な予感がした。全くよぎらなかったわけではなかったが、なるべく考えないように追いやっていた予感だった。
「私は、お二人の剣術の腕前、指導力は本物だと思っています。我が講武所の師範に相応しいと思い、推挙しました。ですが、協議のうえ、やはり由緒ある武家の家柄の者を、ということになりましてね」
さくらは勇を見た。膝の上で握られた拳がわなわなと震えていた。
「そして近藤さくら様。これも、非常に申し上げにくいのですが、単刀直入に言えば、やはり、女子から剣術の手ほどきを受けるわけにはいかぬ、と」
さくらは取り乱さないように全身に力を入れた。
「その決定は、もう動かぬものということでよろしいですね」 さくらはやっとの思いでその言葉を絞り出した。
「申し訳ない」山岡は短くそう言った。
さくらと勇は一言も発せずに講武所を出て、神田川に掛かる橋のところまで走り、同時に立ち止まった。
「うわあーーーーっっっ!!!」
二人は川に向かって同時に叫んだ。
大声を出せば幾分すっきりするかと思い、取った行動であったが、通行人に白い目で見られるばかりで何の気休めにもならなかった。
それからは足が鉛になったかのような足取りでなんとか試衛館までたどり着いた。
「父上の家に寄るの忘れたな」さくらがポツリと言った。
「いや、ちょっと、言えない…」勇が答えた。
さくらは同感、と言い試衛館の門をくぐった。
***
「新八さん?何してるんですか?」
道場の前でこそこそと覗きのようなことをしている新八を見つけ、平助が話しかけた。
「あれだ。触らぬ神に祟りなし。だが、少し心配でな」
道場の中では、さくらと勇が奇声という表現が相応しい声を出して木刀で試合をしていた。
「もしかして、本当にダメだったんですか?」平助の問いに、新八は頷いた。
「なんだよ。それならそうと早く言って欲しいもんですよね。ぬか喜びの後のそれはキツイや…」
「それでな、さっきからあの調子だ」
木刀と木刀がぶつかり合う激しい音を聞きながら、新八と平助は道場の中を覗き込んだ。
やがて、一瞬静かになった。それから、ドンッと木刀が床に落ちる鈍い音がした。
「はあ、はあ…久々にさくらに負けた…」勇はその場に座り込むと、そのまま寝ころんだ。
「ふん、情けない。そんなんだから不採用になるのだ」さくらは勇の隣にあぐらをかいて座り、ため息をついた。
二人は魂が抜けたようにその場でぼーっとしている。新八と平助がその様子を見守っていることに気づく気配もない。
「どうします?」平助がその様子を見ながら、新八に声をかけた。
「うーん……あの様子じゃあ、どうしようもないな。気が済むまで試合をするつもりなんだろう」
「それもそうですね」
新八の言う通り、再び試合が始まりそうだったので、二人はその場を後にした。
それから数日というもの、近藤家は過去に例を見ない程重い空気に包まれた。
もともと里江の一件で塞ぎ込んでいた総司に加わり、さくらと勇も抜け殻のようになってしまったものだから、三人が集まると葬式でも始まるかのような様相だった。
さくらと勇は、雑念を振り払うかのように連日滅茶苦茶に試合を行っては、無気力にぼーっとしてしまうということを繰り返していた。
いつもなら他愛のない話で盛り上がる食事の時間でさえも、誰も喋らなかった。
「サンナンさん、これどうすんだ」左之助が山南に耳打ちした。
「我々が何を言っても近藤先生やさくらさんの耳には入らないだろう」山南は心配そうに二人を見つめた。
「じゃあ、誰が何を言えばいいんだよ」
「それは、今は無理だ」
黙々と食事を続けながら言う山南に対し、左之助は「ええ~?」と困ったような顔を見せた。
一方、里江を送り届けた歳三と源三郎はそのまま佐藤彦五郎道場で出稽古に励んでいた。
そんな折、二人の元に文が届いた。差出人は山南であった。
「トシさん、これ…!」
歳三は源三郎から手紙を受け取り、目を疑った。
「おい、本当かよ…」歳三は手紙を穴の空く程見つめた。
手紙には、さくらも勇も不採用になって、ひどく落ち込んでいる、ということが書かれていた。
「これは、出稽古は切り上げて明日にでも戻った方がいいだろうな」源三郎が言った。
「ああ」歳三は手紙をくしゃりと握りしめた。
その夜、歳三は源三郎に手合わせを頼んだ。
「珍しいな、トシさんがわざわざ私に手合わせを願い出るなんて」
そう言いながら、誰もいない道場で源三郎は防具を着け、歳三と対峙した。
格子状の窓から差し込む月明かりと、道場の四隅に置かれた行灯の明かりしかないため、互いの姿は薄ぼんやりとしていた。
「ヤーッ!」
二人は声を上げた。
歳三は正眼に構えたかと思うと、木刀を上下に振りながら前へ前へと力の限り押しまくった。源三郎はその勢いに押され、道場の壁際まで来そうになったが、なんとか歳三の木刀を受け止めた。しかし、歳三の力を押し返すことはできず、そのまましゃがんで避けたが、その一瞬の隙をつかれ歳三に面を取られた。
「さすが、トシさんは強いなぁ」
床に座って防具を外しながら、源三郎は歳三を見た。歳三は、自分から仕掛けた勝負に勝ったとは思えない程、元気がなかった。
「源さん、俺さ、ここに残ろうかと思うんだ」
おもむろに言い出した歳三に、源三郎は驚いた。
「なんでまた」そんな言葉しか源三郎からは出てこない。
「あの手紙見てどう思った」歳三がつぶやくように言った。それでも、誰もいない道場でその声は響いた。
「あの手紙、か。まあ、近藤先生とさくらの気持ちを思うと、やりきれんなぁ。さくらは本当に、昔から自分が女だっていうのを気にして、どんな男よりも強くなるんだって頑張ってたから。それが、ここへ来て女であることが足枷になったんだ」源三郎はため息をついた。
「俺はさ、一瞬、ほっとしたんだ」
歳三の言葉を、源三郎は否定も肯定もせずに聞いた。
「勝っちゃんと、さくらと、武士になろうって、話したけどさ、俺とあいつらの間には、越えられない壁っつーか、そういうのがあるんだって、あいつらが講武所の師範になるって聞いた時に思ったんだよ。あいつら二人だけ、先に、遠くに行っちまうみたいでよ」
歳三は少し間を開けると、ふっと息を継いで再び話し始めた。
「だから、知らせを聞いてほっとしたわけだ。最低だよな、俺。こんな俺が、あいつらと一緒に武士になるなんて、土台無理な話だ。合わせる顔がねえよ」
源三郎はふわりとほほ笑んで歳三を見た。
「なんだ、そんなことか」
「そんなことって…!」
「トシさんがそう思うのも無理はないし、誰も責めたりしないさ。でも、落ち込んでる二人を立ち上がらせることができるのは、トシさんしかいないんだ。それがわかっていて、山南さんはあの手紙を送ってきたんだと思うよ」
歳三は押し黙った。
思えば、山南に”頼られた”ことは初めてだった。
知識・知恵の分野、さらに剣術の強さで完全に負けだと思っていた相手からの、自分を頼る手紙。
「そう…なのか…?」歳三は源三郎を見た。源三郎は、力強く頷いた。
そうか、と歳三は再びつぶやくように言った。
その顔つきが先ほどと変わっているのを見て、源三郎は満足そうに笑みを浮かべた。
翌日、試衛館道場には、相変わらず木刀が激しくぶつかり合う音が響いていた。
通算すれば何戦目になるかわからない”やけくそ試合”を終え、さくらと勇は道場の床に仰向けに寝転んだ。
「今日は、引き分けだな」勇が息を整えながら言った。
「ああ。三勝三敗だ」
「さくら、強くなったなぁ」
「当たり前だ」
二人はふーっと息を吐いた。
「おれ達、これからどうしたらいいのかな」
「そうだな。さすがに、もう三十路だしな。人生も残り半分といったところか」さくらはふふっと鼻で笑った。
二人はしばらく黙り込んだ。
どうすれば、武士になれるのか。
あのような理由で講武所の試験に落ちたとなれば、もう道は閉ざされてしまったのではないかという絶望感に襲われた。
「さくらはさ、武家の嫁になればとりあえず武家には入れるんじゃないか」勇が言った。
「何を言う。それではただの武家の嫁。武士ではない。だいたい、こんな
さくらは勇の方に顔を向けた。
「あれだ、金で御家人株を買おう」
「そんな金どこにあるんだよ。それにほら、そういう問題じゃないんだよなぁ」今度は勇がため息をついた。
「一生、このままかもなぁ」勇が言った。
「それでもお前は天然理心流四代目だろう。五代目は私で、たまが六代目だ」
「うん、まあ、そうだな」
そんな人生設計も、講武所の試験に受かった、と思っていた日々のあのわくわくする気持ちに比べれば、色褪せて見えるようだった。
その時。
「てめーら、いつまでうじうじしてやがんだ!」
声をかけられ、さくらと勇はがばっと起き上がった。歳三が、仁王立ちして二人を見ていた。
「トシ……」
「歳三……」
「落ちちまったもんはしょうがねえだろ。俺たちはそう簡単には武士にはなれねえんだからよ。こんなことの一度や二度で諦めきれるかっつーの!」
さくらと勇は、立ち上がって何も言わずに歳三に駆け寄ると、左右からひしっと抱きついた。
「な、なんだよ二人揃って……」
「トシぃー……!」
「歳三ー……!」
二人とも、顔をくしゃくしゃにして歳三の名前を呼ぶばかりであった。
歳三はやれやれ、といったように、でも満更でもなさそうに微笑むと、右手で勇の背中を、左手でさくらの背中をぎこちなく撫でた。
その様子を、道場の外から山南、左之助、新八、平助、それに源三郎、総司が見守っていた。
「総司、お前もいつまでもくよくよしてはいられないぞ」源三郎が言った。
「……そのようですね」総司はさくら、勇、歳三に暖かい視線を送りながら、微かに微笑んだ。久々に見せる笑顔だった。
「源さん、帰ってくんの早くねえか?」左之助が言った。
「山南さんから手紙をもらって、早く帰ってきたんだよ」源三郎はにっこりと笑って山南を見た。
「え、山南さんが?」平助が驚いたように言った。
「ああ。近藤先生とさくらさんを元気づけることができるのは土方くんしかいないからね」
不思議そうな顔をしている平助を見て、山南は答えた。
「我々はもともと武家の出。井上さんも、千人同心といえば有事の際には武士として働ける家柄。そんな我々がいくら慰めたり、発破をかけたりしたところで、あの二人には響かない」
「それで、土方さん…」平助はほう、と息をついた。
「あの二人には、土方くんが必要不可欠なんだよ」
そう、試衛館で剣術の腕を磨く者たちの間で、「侍の血」が一滴も流れていないのは、さくらと勇と歳三の三人だけであった。
だからこそ、三人は誰よりも”武士になること”に焦がれた。
どうすれば、武士になれるのか。
その答えとなる一筋の光が、この後いよいよ差し込もうとしていた。
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