1.5
ミセス・ホールトンの『負ける方に賭ける』という宣言に、おれは思わず唾を飲み込んだ。
クラップスでは普通は自分の勝ちに賭けるし、客もシューターが勝利に賭ける。しかし、自分が負ける方に賭けられないわけじゃない。むしろ計算上は、自分の負けに賭けた方が勝率が高いのだ。
なにしろ第一投で勝ち負けが決まるのはサイコロの出目で八通りしかない。なにかしらポイントナンバーが出るのは二八通りだ。そしてポイントナンバーが決まれば、自分の負けに賭けたミセス・ホールトンは、最も出やすい七を待つだけでいい。
賽子を片手に微笑むミセス・ホールトンは、血の色のドレスを着た魔女だった。
「カム・アウトロール」
宣言と共に、賽が投げられた。
飛んでくる賽子を見るのは初めてだった。緩やかな放物線を描いて飛んだ賽子は、おれの手元より少し下のバンクにぶつかり、ふわりと舞って――。
柔らかい音。天面を弾んで、転がっていく。
そのときおれは、空気に呑まれてしくじったと気付いた。
ミセス・ホールトンの『ドント・カム』という宣言を受け、おれはポイント・ロールで勝てばいいと判断してしまっていたのだ。
おれの頭はどこまでも客のままで、ミセス・ホールトンがカム・アウトロールで負けてくる可能性を失念していた。彼女はおれにベルヌーイがついていると知っている。勝ちたければ、おれに振らせなければいい。
祈るしかなかった。
ベルヌーイじゃなく、天にまします神さまにだ。
サイコロが止まる――三と、六を示した。九だ。次はポイントロール。
ざまぁみろ!
おれは吼えたくなるのを手を握りしめてこらえた。躰の熱に汗が吹き出す。
これでおれは、勝利に近づいた。
ミセス・ホールトンは七が出るのを待たなきゃいけない。約一七パーセントだ。こっちは九を出さなきゃいけない。約十一パーセント。単純な出目の確率って意味なら向こうに分がある。しかし、おれにはベルヌーイ様がついていらっしゃる。
つまり、約三三パーセントで勝てる。
「それじゃあ、ミセス・ホールトン。今夜はおれと一緒に過ごしてもらおうか」
自信満々で賽子を――、
「あなた勘違いしてるわ」
振ろうとした瞬間、その一言が耳に届いた。
おれの手元は狂った。
一個はバンクに当たり、もうひとつはバンクを越えてミセス・ホールトンの胸にぶつかり、テーブルの下へと消えた。
カツン、と小さな音が鳴り、続いて転がる音がした。
ミセス・ホールトンはため息を吐きつつ、小首を傾げた。
「意外と子供っぽいのね。私は好きよ? そういう可愛いところ」
言って、足元に目を滑らせる。
「あら。いい目がでてるわ? こっちは四。そっちはどう?」
おれはミセス・ホールトンの麗しい背中が起き上がってくる間に、テーブル上の賽を確認した。出目は五。床に落ちた四と合わせて九だ。勝っていた。
ミセス・ホールトンはテーブルに残る賽子とまとめて、妖艶に微笑んだ。
「すごいわね。本当にベルヌーイがあなたに味方しているのかしら」
おれは賽子を手に取った。冷や汗が止まらない。
「ああ、そうさ。言ったろう? おれにはベルヌーイがついてんだ」
「せっかくだから、あなたの神様に聞いてもらいたいことがあるのよ」
「……なんだよ? ベルヌーイは誰にでも平等だ。言ってみな?」
「賽子ふたつを投げて、二回連続で九が出る確率は?」
心臓が凍りついた。なにが『確率の話を女にする?』だ。よく分かってやがる。
おれが二回賽子を振る――つまり六回分振って九が二回出る確率は、およそ十三パーセントだ。普通に投げるより二パーセント高い。けれど、
二回連続なら?
手の中で、カチカチと音がしていた。手の震えが止まらない。
「落ち着いて振ってちょうだい? また拾うのは面倒だわ」
「おれがここで出せなくても、次はあんたのロールだ。そン次は勝つさ」
握りしめた手を振り上げると同時に、ミセス・ホールトンが言った。
「一番出やすい目は何か知ってる?」
――七だ。
おれの手からサイコロが飛んでっちまった。出そうとしている目はあやふやなまま。もしかしたらベルヌーイは、最後に意識した七を出そうとするかもしれない。
賽子は壁にぶつかり跳ね回り、テーブルの上を転がった。
その時ばかりは、移り変わる目がはっきり見えた。三・六、五・五、四・一、片方が止まって、もう一方は転がった。
四と、三で、七だ。
おれは足から力が抜けていくのを感じた。
ブラッドリーから借りだした金でやったギャンブルと同じ顛末だ。
最後の最後で大勝負に負けた。
けれど、あの日と今日じゃ、全く違う。
あの日は単なる運否天賦で負けた。
今日は、ミセス・ホールトンの揺さぶりに負けたと言ってもいい。
おれは冷え切った息を吐きだした。これで負け分は約三〇〇〇ダラー。
「まぁ、おれは後に引きずらない
そう嘯いた。正直な気持ちは、またか、ってところであっても、決して口に出しては言わない。それが勝負師の勝負師たる所以で――。
「また勘違いしてる」
「なんだって?」
ミセス・ホールトンは長手袋を外しつつ、取り巻き状態の黒服たちに手の甲を向けた。すかさず黒服の一人が指先にシガレットホルダーを挟ませる。ただでさえ長いシガレットホルダーに、これまた長細い真っ白なタバコがついていた。
ミセス・ホールトンが吸い口を咥えると、すぐに黒服が火を点けた。吐き出された薄い煙が、テーブル上で渦を巻く。彼女の妖しく光る瞳が、煙に隠れた。
「あなたはディーラー側って、私、言ったわよね?」
「……言った。が、まさか、配当も?」
だとしたら倍率は一対一で、倍付になる。つまり六〇〇〇ダラー。誰の人生でも変えられる額になっちまう。
おれは空のグラスを手に取り、底に残っていたバーボンの一滴を舐め取った。口も喉も乾ききっていた。そのくせ吹き出す汗はひどくなる一方だ。
まるで詐欺のような条件設定には、まだ続きがあるかもしれない。
もしもミセス・ホールトンが口にした言葉すべてが字句通りの意味なら、さらにはそれらすべてがペテンのような文言だったとしたら。
――おれに課せられる借金は四桁程度じゃすまなくなる。
彼女は勝負の直前に『あなたが挙げた勝利の全額をベットしろ』と言っていた。
その言葉の意味は、とんでもなくデカい勝負にも置き換えられる。もしもミセス・ホールトンの言った『あなたが挙げた勝利』に、今夜おれが出した賽の目で得られた勝利も乗るなら。つまり、今日おれがディーラーに与えた損失すべてだとしたら――。
おれは尋ねるべきだと思ったが、唇が震えて声を出せそうになかった。
ミセス・ホールトンはもう一口煙草を吸った。
「ようやくわかったくれてみたいね? ハイ・ローラーさん?」
言って、一際エラそうにしていた黒服から小さな紙を受け取る。
「あなたが今日あげた勝利の総額は――すごいわね。一五万、とんで、一一四ダラー」
「……本気で言ってんのか?」
「まさか。私はそんなに甘くないもの」
ミセス・ホールトンは、シャンパングラスに酒を注がせた。
「私はドント・カムに賭けて勝ったのよ? その倍はもらわないと、割にあわないわ?」
悠々と、一息でグラスを呷る。
冗談じゃない! 冗談じゃない! 三〇万とんで二二八ダラー!?
「そんな額! おれに払えるわけがねぇだろ!?」
おれはハンドレストに両手を叩きつけた。振動でショットグラスが揺れる。
ミセス・ホールトンは薄く笑って付け加えた。
「気を付けて? 割ったらグラス代も請求させていただくわよ?」
「だから!」
「安心して? いくら私だって、あなたにそれだけの額を払う能力がないことくらいは、分かっているから。あなたにはその強運? それを差しだしてもらうつもりよ」
おれの強運? つまり、ベルヌーイ様が俺に与えてくれた力のことか?
だとしたら、それこそおれは強運だ。ここのディーラーとして働けるなら、街の外に広がる荒野を緑に染めあげられそうな額でも、稼ぎ出せるかもしれない。
「……メシ代くらいは出るのか?」
「食事代? 食事って、当たり前じゃない。バカな人ね!」
ミセス・ホールトンは口元を隠して笑った。つられて黒服たちも肩をゆすった。
「食事代どころか、今日のあなたの稼ぎはまるまる清算してあげるわよ。逃げるにはそれくらい必要でしょう?」
「逃げる? 逃げるって、なんの話だよ? おれを雇ってくれるとかって話じゃ――」
「ミスター……グッドマン、だったかしら? もう冗談は結構よ? 一晩で三十万ダラーも負けるディーラーなんて、たとえ死んだって雇いやしないわ」
再び黒服たちが大声で嗤った。
長い髪を困ったように掻きあげながら、ミセス・ホールトンは言った。
「あなたが作った借金は、全部、今日来ていたお客様方に肩代わりしてもらうから、安心してちょうだいね? もちろん、名札つきよ?」
「……なんだって?」
意味が分からなかった。
そもそも店で発生した損失すべてがおれ持ちになるのが理解できなかった。すぐそこにある海に入って戻った奴はいないって話並みに、納得できなかった。
「んなことして、あんたに何の得があるんだ? 殺したいなら今すぐやれよ!」
「ギャンブラーらしくないわね。そんな台詞を口にしないで? 私、あなたのことが好きになってきたところだったのに」
「惚れた男を死地に送り込むのかよ。あんた、ブラック・ウィドウって奴か?」
「まさか。私は黒いドレスは着ないわ? たとえ誰が死んでもね」
ミセス・ホールトンは煙草を黒服に預け、長手袋をはめた。
「賞金はすぐに掛けるから、とにかく早く遠くへ逃げることね。逃走資金はあなた自身の今日の勝ち分。言っておくけど、あなた、いままでで一番お金を持ってるわ」
「……ひとつ聞かせてくれよ。なんだって、そんな回りくどい殺し方をするんだ?」
「どうかしら? 私は、別にあなたを殺したいわけじゃないのよ」
言って、ミセス・ホールトンが指を振った。すると黒服が、俺の前に麻袋を置いた。中には紙幣の束と銀貨が詰まっていた。ついでに飲んでいたワイルドグラス・ダックウィードのボトルが一本。ボトルは封が切られて、一杯分だけ減っていた。
おれはボトルを手に取り、ショットグラスに注いだ。
なにがなにやらよくわからないが、少なくとも約四〇○〇ダラーは手に入れた。たとえ賞金首になっても、ほとぼりが冷めるまで逃げ回ればいい。おれならきっと楽勝だ。なにせ俺の幸運は普通の人生三回分だ。
逃げ回ってやる。そして――、
「おれは、必ずここに帰ってくる。んで、あんたに勝つ」
飲み干したグラスをテーブルに滑らせて、宣言した。
「カムベットだ。おれは、絶対に、生きてここに帰ってくる」
ミセス・ホールトンは目を微かに見開き、呆れたように首を左右に振った。
「私の勝負に付き合ってくれるのは、あなたが初めてかも。ミスター・グッドマン」
空のシャンパングラスがテーブルに置かれた。ドント・カム・ベットだ。グラスの表面から水滴が流れ、足を伝い、ラシャを濡らした。
「さぁダイスロールの時間が来たわ。賽子は、ミスター・グッドマン、あなた自身よ」
やってやろうじゃねぇか。
おれは煙草に火を点し、札束を胸につめこみ、麻袋とボトルを両手に掴んだ。
*
あの夜の出来事を語り終えたおれは、ナルシストな賞金稼ぎの反応を待った。
「……酒場で聞くなら面白い話だとは思うがな――それは、酔っていたらの話だ」
いつの間にか隣の席に腰かけていた賞金稼ぎは、葉巻煙草を咥えた。
「そしてご生憎だな、カトー。俺は酒を呑まないんだ」
「じゃあ、なにを飲むんだ? ママのおっぱいって冗談以外で頼むよ」
これまた渾身のジョークのつもりだった。とにかく銃を下げてもらいたかったのだ。
信じられないだろうが、おれが長々語っている間、賞金稼ぎは一度として銃口を下げなかった。
おかげでチビりそうなまんまだったし、飲んでる酒も不味かったんだ。まぁ不味いのは最初からだが、より不味く感じていたんだよ。
で、話の肝心要、賞金稼ぎのおっさんは――、
「俺はお前を信用するつもりはない。ただまぁ、殺す必要はなさそうだ」
おっさんはため息交じりに撃鉄を親指で押さえて、引き金を引いた。弾倉に手を添え少し回す。そして、ゆっくりと撃鉄を戻してくれた。
どうだ、ミセス・ホールトン。
おれは今日も勝ったぜ、バカヤロー。
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