作り話の怪物 人魚

“クジラやシャチ、ゾウアザラシといった巨大な海棲哺乳類を初めとして、陸上生物ではゾウに次ぐ重量を持つカバ、最大の鳥類ワタリアホウドリ、概して小型種の多い齧歯類においても最大種であるカピバラ、それに次ぐアメリカビーバー、これらが全て水辺の生物であることからわかるように、ベルクマンの法則は低緯度地域であっても陸上より体温低下が大きい水中生活を送る恒温動物にも適用される。アレンの法則についても同様の事がいえるが、これは遊泳時の水の抗力を減らすための適応と見るべきであるだろうか”

                      ――南条幸隆『家庭飼育のすゝめ』

                      (帝都大学出版、1957年、178頁)



 くびれた体つきに細長い手、豊かな頭髪と着衣の文化。


 美しい亜人種の名を挙げるとき、エルフと並んで多くその名を耳にする種族といえば、人魚マーメイドをおいて他にない。


 その姿は下肢を除き人族に近い。蜥蜴人等と異なり、不完全ながらも彼ら人魚が人族と同じ恒温動物であることも人族が自らと近しい存在であると認識する大きな一助となっているだろう。


 しかしながら、この異界生物もまた我々の世界と同様の物理法則に従っている以上、水中生活に適応した種族として、彼らの姿は我々の世界の常識からはかけ離れた存在であると言わざるを得ない。抗力の少ない流線形こそ、水棲動物に相応しい形状である。


 一体、どのような要因が彼らにこのような形態をもたらしたのか。



 この疑問には、非常に簡潔かつ明快な答えがある。


 人魚は陸棲動物である。


 その透き通り美しい鱗と大きな尾鰭。魚類に酷似した下半身の形態から勘違いされがちであるが、実際には人魚は蛇人ラミアの亜種である。


 広げると鮮やかな色をした尾鰭が水中での推進用ではないことは、左右に蛇行する駆動に対して同じく左右に広がる付き方からも明らかである。鰭は求愛行動に用いられ、またスピノサウルスやディメトロドンのように体温の吸収発散の役割を担っていると考えられている。この他、卵生である蛇人に対して、人魚は卵胎生であるなどより恒温動物的な特徴を多く持ち、砂漠や荒野を主な生息地とする蛇人と比較して、これらの特質から、寒地を含んだ全世界に分布を可能としている。



 頭髪は鱗の変化したものでなく、また人族の毛髪と異なり角質化した組織ではない。猫の髭のような感覚毛であり、本来急所である逆鱗から変化したものであるため、内部には血液が通っている。最悪の場合、頭髪を失ったことで死に至ることもある。


 この触毛は空気中の振動、人魚自身の可聴域外を含めた音に非常に敏感で、人魚の主要な感覚器となっており、常に清潔に保つために頭髪をすく姿がよく見られる。


 水辺で生活する人魚であるが、たとえ水中に入っても頭髪を濡らすことはない。


 しかし例外的に、特定の天敵の存在を察知した場合のみ、水中へ逃げる習性を持っている。


 この特定の天敵こそ、人族である。


 彼らは人族より遥かに発達した聴覚を持つため、通常は遭遇前に姿を隠すものの、触毛の手入れの最中に不意に遭遇してしまった際の緊急回避的な水中への避難が、期せずして人族からの水棲であるという認識に繋がったというわけだ。



 本来は泳ぎよりもむしろ木登りを得意としており、人族以外の天敵の接近に際しては樹上に逃げる姿が報告されている。


 食性は木の実や昆虫を好む雑食である。もともとは屍食動物であったが、天敵から逃れるため感覚器として発達した頭髪が汚れるのを嫌って屍食を止め、より草食に近い雑食へと移行した。一部の個体に見られる収集癖は、肉食時代の狩猟本能の名残である。


 誤謬というほど現在では信じられてはいないものの、人魚にはもう一つ広く知られる逸話がある。


 行き交う船を惑わし、水底へ引きずり込む、という伝承だ。


 複数の地域にまたがって伝えられるこの伝承はしかし、全くの事実無根であることがわかっている。



 人族を天敵とし水中生活を送っている訳でもない人魚に、なぜこのような風説が生まれたのだろうか。


 疑問を解く糸口は、人魚の持つ収集癖にある。


 人魚は水死した人間の身に着けていたものを拾得しねぐらへ持ち帰る事が珍しくない。


 怪物狩りや討伐隊の類が遺品や骨片が散りばめられたこのねぐらで人魚に遭遇した場合、人魚が水棲であると考えられていたこと、またその危険性が低いことが知られていたため、別種であると認識された。加えて人魚が営巣する洞窟内は光が届かないため、討伐された人魚の詳細な姿が知られないまま身体の一部分と戦利品のみが持ち帰られ、 まさに話に尾鰭が付く形で、人を喰らう危険な有翼の妖蛇として伝えられたのである。


 こうして成立したのが、エキドナと呼ばれる架空の怪物だ。



 時代が下るにつれてエキドナはセイレーンと名を変え、人魚と同一視、つまり正しく認識し直される。


 しかしながら伝承に付け加えられた数々の尾鰭は消えることなく、それどころか、広く分布し人族と生活圏が重なっていたことで名を知られていた人魚に、他の地方の狭い範囲に生息する知名度の低い他の民話における伝承が統合・吸収される形で融合した。


 こうして「血肉を喰らえば不老不死になる」、「歌で人を発狂させる」などといった俗説が語られるようになったのである。



 このような経緯で生じた誤解は、恐ろしげに語られながら実際には討伐の容易い存在としての地位を人魚に与え、魔物駆除人モンスタースレイヤーの手で意図的に解消されないまま後世へと語り継がれていくのである。


 これにより中世末期から近世にかけて乱獲された結果、人魚はかつての人族に身近な亜人種から、滅多に姿を見ることのできない希少種となる。接触の機会が減少したことで事実への正しい認識はますます失われ、多くの世界的な文学作品を通じて今日の人魚のイメージは形作られていった。



 近世までにおいて、人魚は最も密猟の盛んな亜人種のひとつであった。


 現在ではその高い知能と索敵能力、器用さと執念深さ、 広範にわたる破壊活動から、五指に入る敵対種族として認識される彼ら人魚は、非常に非力な種として生まれついた。彼らに転機が訪れるのは、高度で洗練された近代兵器の登場である。


 深い森林や沼沢地で細々と生活していた彼らに、とある亜人種が接触し銃器の提供を含む各種の支援を与えたことで、虚構の中にしか存在しなかった怪物が、産声を上げたのである。


 人魚に接触した亜人種の正体については諸説あるものの、その大本についての見解はほぼすべての学説において一致している。


 人魚と並び、最も人族に敵意を寄せる存在、他でもない人族である。

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