第95話 夏の名残の中で
もう殆どの蝉の声は聞かなくなったが、ツクツクボウシだけはまだまだ元気一杯に鳴いている。
そんな晩夏の昼下がり。
店内では、この夏何度目かの不定期の気まぐれ“練習?ライブ?”。
彼女にとっては夏休みだが、一般の人々には平日なので、“練習?ライブ?”はランチタイムが終わってからにしてもらっている。
“練習?ライブ?”が終わると、彼女が老犬を散歩に連れて行ってくることになっているので、老犬もその気配を感じているのか上機嫌にシッポを振っている。
彼女にとっては、おそらく、これがこの夏最後の“練習?ライブ?”。
彼女は、氷の溶けたアイスコーヒーの残りをストローで吸い上げると、再び、脇に置いてあったサックスを持ち、静かに奏で始める。
店の中は、私と、いつの間にか入って来ている常連さんが数人。
常連さん達の中には、夏場はランチタイム時を避け、今位の時間帯からやって来てくれる人達もいる。
“常連客のプロ”と、私は呼んでいる。
そして、そんな常連さん達は不思議と彼女にリクエストなどしない。
ただ彼女の気ままに任せて、あたかもその曲を望んでましたかの様に静かに聞き入っている…
夕方になり、ひとしきりライブを行った後で、彼女は約束通り老犬を散歩へ。
大喜びで彼女と出かける老犬。
実に微笑ましい光景なのだが…
近頃なぜか、私はこの光景を素直に喜べなくなっている…
それは、”老犬が彼女には凄く従順に従っている”という事。
もちろん、私の指示にも従順に従ってくれるのだが、彼女が指示した時は、より素早く、より積極的に従おうとしているように見えるのである。
それは、私にとって、少し複雑な思い…
ジェラシーのようなもの感じてしまう…
犬というものは、頭の中で自分に関わる人のランク付けをしているらしい。
ひょっとしたら、老犬の頭の中では彼女の方が私より上位にランク付けされているのではないか…
なんてことを考えてみたりする。
私は老犬の中での”NO1”で居たい。
そうでなきゃ、一緒に育んできたこの歳月は何だったのか。
ちょぴっと女々しくて…
ちょぴっとジェラシー…
散歩から帰って来た彼女は、
「今日はねえ、神社の辺りまで行ってきたよ」
「へえ~。あんな遠くまで、ありがとう」
満足げな彼女の笑顔。
大満足げな老犬の表情。
私は、
「今日は一杯お散歩出来て良かったな」
と、老犬の頭を撫でてあげるが…
心は裏腹。
またまた、ちょぴっとジェラシー
「何か飲んでく?」
と言う私の問いに、
「ううん。今日はもう遅くなったんで」
と、彼女はすぐに帰って行った。
彼女を見送り、カウンターの奥に戻ると、老犬が私を見つめている。
「あっ、ハイハイ。分かってますよ」
と、ドックフードの袋を取り出し、老犬の食事の支度。
ドッグフードの入った器を老犬の前に置き、
「待てだよ」
私を見つめている老犬。
そこへ、商店街の花屋の奥さんが回覧板を持って入って来る。
「ねえ、これちょっと見てよ。来月からゴミ袋の値段、値下げするんですって」
「へえ~、珍しいですね」
「ねえ~。アッ、それからね、今度の定例会さぁ、再来週に伸びたんですって」
「そうですか…」
など…
ひとしきり会話が終わって、花屋の奥様が帰った後、カウンターの奥に戻ってみると、老犬がドッグフードの器の前で切なそうに私を見ていた。
「あっ、ごめん、ごめんッ」
急いで老犬の前に立ち、
「ヨシッ!」
と、声を掛ける。
凄まじい勢いで食事を始める老犬。
よほど我慢していたのだろう。
普段以上にガツガツいってる。
その老犬の健気さに、嬉しいような、申し訳ないような…
“こういう所が、いけないんだろうなぁ”
と、思いつつも、それでいて、なんとなく素直になれない私がいる…
寂しいのかなあ…
無二の親友を誰かに取られそうな…
そんな事誰もしないと分かってるのに…
私は老犬の頭を撫でてやりながら、
「誰にも負けない位、君のこと想ってんだけどなあ…」
老犬はそんな私の気も知らず、一心不乱に全集中で餌と格闘している。
”今度は、もうちょっと長めに散歩してあげなきゃなあ”
もう一度、老犬の頭を撫でてあげて、ゴミを出すために裏口から外へ。
今日は夕立こそ無かったものの、どんよりとした曇り空で…
夏の終わりの曇り空は何か物悲しくて…
ひとつの季節の終わりの物悲しさがそうさせるのか…
何かやり残したことがあるような…
何かを何処かに、置いて来てしまったような…
そんな思いにさせられる…
少し涼しげな風と共に、何処からかもう秋の虫の音がしていた…
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