第26話 ミス・モーニング コーヒー


 そう言えば、あの日は春の雨だった。

 霧雨の朝だった。


 珍しく朝早く目を覚ました私は、一階の店に下りてきて、コーヒーを落としていた。

 自分用に一杯だけ。

 ふと、表を見ると新聞受けからはみ出した新聞が濡れているように見えたので、ドアを開けて新聞を取りに。

 中へ入ろうとした時、私より先にドアノブを引く手。

 “エッ”と、私は立ち止まる。

 そんな私の存在すら気付かぬ様子で、一人の女性が、サッと傘をたたむと店の中へ入っていった。


 私が店の中に入った時には、その女性は既にカウンターに座って何やら、書類等を出して、目を通している。

 もう見るからにOLさんといった風情のその女性は、私がカウンターに入ると、すぐに、

「ホット、ひとつお願いします」

 と、言うと、私の返事など気にせず、再び、書類に目を通し始めた。

 

 呆気に取られている私。

 カウンターの奥の老犬は、このスチェーションがよほど面白いのか、シッポを左右にペタペタ振っている。


 私の自分用のコーヒーは少し濃い目のなので、その女性のために作り直した。


 バーナーの熱したお湯の中で舞うコーヒー。

 頃合いを見て、バーナーを消す。

 スーッと、下りてくるコーヒー。

 コーヒーの柔らかな香りが店の中に静かに漂う。

 私は、その香りと共に静かにカップにコーヒーを注ぐ。

 そして、その女性の前にそっと置く。


 私は、きっと、書類を見ながら、片手間にコーヒーを飲むんだろうな。

 と、思っていたら、その女性は、書類を全てカバンにしまうと、私に聞こえるか聞こえない様な小さな声で、

「いただきます」

 と、言うと、

 静かに目を閉じ、朝のコーヒーをゆっくり味わうように飲み始めた。


 なんだか私は、少し恥ずかしい様な気持ちになった。


 その女性は、2・3口コーヒーを味わうと、ようやく、店の中を見回して、それから、また、コーヒーを味わった。


 当時はまだレコード・プレイヤーが生きていたので、静か目のフュージョンを薄く流してあげた。


 女性は、”充分に朝のひと時を楽しみました”と、いう風に、ひとつ大きな息をして、カウンターを降りた。


 レジで精算しながら、

「コーヒー、美味しかったですよ」

 と、何故か少し心配そうに私に言ってきた。

 私が、

「エッ?」

 って、顔をしていると、

「あんまり、お客さんいませんね」

 と、お客など全くいない店内を見る。

 私はおかしくなり、ちょっとからかうように、

「朝はやってないですから」

 と、笑顔で言ってみた。

 その女性は、

「エッ?」  

 と、私の顔を見る。

 その女性は、一瞬、私が何を言っているのか分からない様子だったが、改めて店内を見回して、一変、顔が真っ赤になり、

「すみませんでした!!」

 と、頭を下げた。

 ようやく、開店前の喫茶店に勝手に入り込んで、コーヒーを満喫したことに気づいたようだ。

「本当に、ごめんなさい…気付かなくて…すみません…」

 彼女があまりにも恐縮して頭を下げるので、今度は私の方が恐縮してしまい、

「いえ、いえ…すみません…こっちこそ…ちゃんと、言わなくて…」

 と、頭を下げて、

 2人で何度もペコペコ頭を下げあっていた。

 

 その女性は、ドアを閉める時も、ひとつ恐縮気に頭を下げて出ていった。


 春の朝の珍客。

 思い出したらおかしくなる。

 でも…

 もう、来ないだろうなあ、と、思っていた。


 が…

 その晩、また、その女性は現れた。

 手に小さなお菓子の入った紙袋を持って。

「これ、会社の近くの人気のお店のクッキーなんですけど…今朝のコーヒーのお礼に…」

 と、差し出してくれた。


 私は嬉しかった。

 お菓子ではない。

 それは、今日一日、この女性の心の端っこにでも、たとえ、ちっぽけでも私の存在があったのかなと思うと、私はなんだか少し嬉しかった。


 私は、

「コーヒー、よかったら」

 と、その女性をカウンターに招く。

 店内には、ほとんど客はいないから、どこでも座れるのだが…

 しかし、その女性は、

「いえ、今日はもう…」

 と、断る。

 その時、老犬が、珍しく”ワン”と、カウンターの奥でひと鳴き。

 「アラッ」

 と、その女性は老犬を見つけると、すぐに、ちょっといたずらっぽい顔で

「キミ、今朝もそこに居たの?」

 と、声を掛ける。

 老犬は、上機嫌でシッポをペタペタ振っている。

 女性は、

「そうか、見られたか…これだよ」

 と、唇の前に人差し指を立ててみせる。

 老犬は、これまた上機嫌に、分かっているのか分かっていないのか、兎に角、上機嫌にシッポを振っている。

「ありがとう」

 と、老犬に言うと、その女性は、

「今日は、これで…」

 と、私にひとつ会釈をして帰っていった。

 

 その女性のための入れようとしていたサイホンのお湯が、サッーと、上がってフラスコのコーヒーを立て始めた。

 コーヒーのブレンドされた豆が、お湯の中で軽やかに舞い、コーヒーの少しほろ苦い香りが漂い始めた。

 甘いクッキーの香りと共に。


 私は、それを老犬と分け合い、柔らかな気持ちで香り高いコーヒーを味わった。

 

 これがミス・モーニングとの初めての出会いであった。




 



 

 






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