第20話 ミルクとアイスコーヒー

 夏休みに入った。

 店の中にも、夏の日差しが容赦なく降り注いでいる。

 暑い。

 暑い夏がついに来た。

 暑いのは困りものだが、窓の外の明るい夏の景色というものは、気持のいいものである。


 彼女は、普段は河原で練習し、日曜日はこの店でサックスを吹く。

 それから、老犬の散歩に行ってくれる。

 時々は平日店に来て、手伝ってもくれる。


 が、 


 そんな彼女のサックスの上達ぶりはというと、今だに梅雨の中にいるようだ。


 日曜日のレッスン後、浮かぬ顔でカウンターに座り、頬杖ついて溜息ひとつ。

 心配して彼女のそばに来る老犬にも気付かぬ様子。


 “ひこうき雲”が上手く吹けない。


 初心者にとってサイドキーを使って高音を出すのは、かなり難しい。

 さらに、その高音がサビの部分、一番盛り上がるところなのである。

 高いF(ファ)の音が出ない。

 高音のF(ファ)。

 これが今の彼女の最大の難敵なのである。


 見かねた私が、落としたアイスコーヒーは、そんな彼女のためだった。

 ―カランと氷の音。


 彼女は、差し出されたアイスコーヒーにストローをさし氷を鳴らし、ストローで一口、少し渋めのコーヒーを。

 一口飲むと、ちょっと苦そうな顔をして私を睨んだ。

 そして、ミルクを静かに、でも、たっぷりと注ぎ込んだ。


 ミルクは、美しい白い姿のまま、漆黒の世界の中に静かに落ちていく。

 あどけない顔でその様子を眺めている彼女。 

 

 ゆっくりと静かにコーヒーに溶け込んでいくミルク。


「いや、そうじゃないわ」

 彼女が独り言の様に呟く。

「ミルクがコーヒーを自分の世界に包み込もうとしてる」


 あとから来たミルクが苦くて漆黒のコーヒーの世界を白く、そして、甘い世界へと変えていっている。


 ちょぴり苦いコーヒー味のミルク。


 ”私が見つけたい物は、これなのよ”

 彼女はそう言いたげに私を見て、少し得意げな顔をした。


 私には何のことか分からなかったが…ともかく、愛想笑いをして頷いてみせた。


 今の彼女に必要なのは、正に、このミルクなのだろう。

 苦くて渋い彼女の心を、まろやかに甘く優しく包み込んでくれるミルク。


 それがいったい何なのか?

 まだ、それは分かっていないけど…


“どうか、教えて。私にとってのミルクは何なの?”


 彼女は、お願いの文句でも唱えるかのように、ストローでグラスの中をかき回していた。

 

 カラロンカラ…


 グラスの中の氷が涼しげに鳴っていた。


 そんな彼女を見て、老犬が嬉しそうにシッポを振っていた。

 早く散歩に行きたそうに、小気味よくシッポを振っていた。 




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