第百九十六話:立ち止まったその先で、誰かが君に叫ぶだろう。





 ――遠く、微かに女の悲鳴が聞こえた気がして、ふと雪花が振り返る。狛犬の絶叫に紛れ、声が聞こえた方角は統括ギルドの辺り。

 だが振り返ったその先は、先ほどまでは存在しなかった白煙で埋まっていた。


 トルニトロイの姿も無ければ、セリアも、榊の姿も無い。きっとセリアが何かをしたのだろう――……大っ嫌いだが、あの男があんな三流にやられるはずがない。そんな、心のどこかで苛立ちを伴う確信だったが、そういう意味では雪花はセリアを信じている。


 複雑な信頼を胸に視線を戻し、雪花は険しい表情で狛犬を見る。螺旋の角が光を反射しているが、光を投げかけているのは月ではない。


 ダッカスの空に浮かぶ月は、もはや幻月ではなかった。滲む光を失って灰に染まる月の下、紫に滲んでいた水平線に、性急に淡い藍色が混ざり出している。

 海原の向こうには夜明けの太陽が控え、低い位置にある雲の腹を淡く薄金色に染め上げていた。


 時刻は5時に迫り――夜明けは近い。だが晩秋の夜明けは日の出という限界を迎えるまで、意固地にも仄暗い世界を崩さない。風は冷たく、世界は未だ夜の支配下にある。


 セリアに背を叩かれ、雪花はワワルネックと共に、そんな薄墨はくぼく色の夜空を走っていた。

 水で出来た流体の身で、ワワルネックは滑るように宙を行く。狛犬の周囲を旋回し、その鼻先で時折振るわれる尾を警戒しながらも。雪花の呼びかけが狛犬に聞こえるように、水の精霊王は羚羊カモシカのように巨獣の周辺を跳ねまわる。


 ダッカスの街は、すでにほとんどの建物が倒壊していた。残った家々も水に沈み、水面に突き出た岩は何度も打ち付けられた衝撃で崩れ去り、もはや巨獣が体当たりを繰り返すオブジェクトは存在しない。


 それゆえに、巨大な狼は軋るような声と共に自身の首筋を引っ掻いて止まらないのだ。強靭なはずの皮膚は裂け、黒い獣毛が飛び散り、血が――ばたばたと落ちていく。



「ボス! 俺だよ、雪花だ! ボス――!」



 どんなに雪花が呼びかけても、首を掻き毟る爪は止まらない。悲鳴を上げて、荒れ狂いながら巨獣は何度でも自傷行為を繰り返す。


 きたない――と、獣は言う。


 こわい――と、獣は叫ぶ。


 狛犬の絶叫以外には音も無い世界で、雪花は泣きそうな顔で呼びかけるが狛犬の耳には届かない……いいや、聞こえていても、理解できない。



 キュォ――ォオオオオオオオオンン!!



 狛犬の精神は狂乱ゆえに、今や記憶も感情も、この世の地獄を見たあの日のことが脳裏に焼き付き、フラッシュバックに苛まれるばかり。


 【Under Ground Online】を始めた覚えも無ければ、自身を狛犬と名付けた記憶もない。雪花などという名前の男と出会った記憶も無ければ、ボスと呼ばれても、雪花だと主張されても、魂には何も響かない。


 がらんどう――がらんどうな内側に、残るものは数少ない。


 父と、母と、トルカナ様と、ハイエナ頭のガオーマン。それから……、



 ――ォォオオオオオオオ゛オ゛!!



 柑子こうじ色の目をした、名前も知らない優しいおにいちゃん。



 それだけが、今の狛乃の世界。地獄の門のその前で、立ち尽くす魂が助けてくれと縋りつく、残り少ない希望の象徴だ。


「ッ……ボス!」


 それゆえに、大人になった雪花は今の狛乃にとっては見知らぬ男でしかない。それどころか、しくも榊の瞳も暗く輝くオレンジ色。同系統の色合いの瞳を見て、思い出すのはあの日の少年ではなく、赤毛の女ただ1人。


 冷たい指先で延々と――自身を絞め殺した敵の姿を雪花に重ね、狛犬はぴたりと首を引っ掻く手を止める。ばしゃり、と鈍い水音を立て、巨獣は落雷のように唸りながら四肢を地につけ身構えた。


 水位はもう少しで首まで届く――無論、身体の大部分が水中に在ってはどんな陸上生物も動きが鈍るというものだ。狛犬が変じた巨大なモンスターといえども、水圧の分だけ爪を振るう速度も、尾を振る速度も落ちている。


 だからこそ、雪花はワワルネックに命じて狛犬の近くまでやって来ていた。新緑の蔦を即席の鞍にして、水狼に跨る雪花は自傷をやめた狛犬に、ようやくホッとした息を吐く。


 正気に戻ったのかと……自分の声が届いたのかと期待する雪花が、真正面から狛犬と目を合わせようと回り込む。安堵に緩んだ柑子の瞳が巨大な深紅の瞳を覗き込み、ボス――と声をかけようとして凍り付いた。


「……ッ」


『――マスター、あぶな』


 雪花が息を呑み、ワワルネックが警告を発する。深紅の瞳にあるのは親しみではなく、恐怖と怒り――一匙の狂気。


 静かに身構えていた獣が水中で地を踏み叩いて腕を振るう。水の抵抗を感じさせる速度でも、十分に速い、致死性の一撃。

 ワワルネックならばともかく、直撃すれば一瞬で死に戻るであろう一撃を前にして、雪花の脳裏に走馬灯のようにセリアの声が響く。


 何度でも死んで戻れ――セリアは確かにそう言った、しかし、雪花はそれに素直に頷けない。何故なら、だって、きっとボスは――狛乃は、



 ウ゛ゥ――ゥウ゛ォオオオオオ゛オ゛オ゛!!



 雄叫びと共に巨大な腕が振り抜かれる。牙を打ち鳴らしながら狛犬は吼えた。雪花は柑子の瞳を細め、咄嗟に新緑の蔦で出来た鞍を蹴りつける。


 雪花の瞬発力は狛犬と比べてもかなり遅い。水の精霊王との契約でより下がったステータスでは、完全には避けきれない。だがこれで、致命傷にはならないはず――。


 そんな思いで祈るように跳び退った雪花に向かって、大量の水を巻き上げながら重量のある一撃がアッパーのように夜空を切り裂く。肉を断つ音さえも水音に呑まれたが、ワワルネックの目はそれを見ていた。



『マスター……ッ』



 ――くるくると宙に舞う、雪花の左腕。肩の辺りでズタズタに切り裂かれ、跳ね飛ばされたそれが血を撒き散らしながら夜空にあった。


 痛み機能をオフにしていた雪花に痛みは無い、だからこそ、現実リアルなんかよりよっぽどマシだと雪花は笑う。笑い、笑って――……覚悟が決まった。


「――ワワルネック! 上へ!」


 主人の左腕が吹き飛んだショックに、動きを止めていたワワルネックがはっとする。流水の尾を揺らしながら、彼は雪花の指示通りに上昇。腕を振り上げた姿勢でバランスを崩し、巨獣が深い水の中でたたらを踏んでいる隙に、雪花は上昇させたワワルネックの背で右腕を伸ばす。


 視界の端で、どぼり、と狛犬の頭が水中に沈む。浮力によって安定しない水の中で無茶な動きをしたせいで、たたらだけでは済まず、ずるりと足を滑らせたようだった。

 慌てて水面を突き破り顔を出した狛犬が、どこかびっくりしたような、コミカルな表情で放心している様子に雪花は思わず笑いながら――宙を舞う自身の左腕を引っ掴む。


 腹を括ったのならば、もはや泣き言をいう暇はない。必要なのは、狛犬が前に進めるように、立ち上がるための手を差し伸べてやることだ。


 左肩の断面からは勢いよく血が噴き出すが、雪花は慌てなかった。即座に掴んだ左腕を小脇に抱え、ポーチに手を突っ込んで回復用の純晶石を歯に咥える。

 再びだらりと力無く垂れるばかりの左腕を引っ掴み、雪花は躊躇なく自身の左肩――ズタズタになったその断面に押し付け、純晶石を噛み砕いた。


「噂通りっつ! けどまあ、動くな……! ワワルネック、ボスの死角に回れ!」


 指定ランカー、その他頭のおかしいテストプレイヤー達がよくやる、強引な欠損治癒。


 腕が飛ぼうが、足が飛ぼうが、吹き飛んだ部位が木端微塵になっていないのならば、回収すればくっつくのでは? くっつけたまま純晶石を呑めば完璧では? とか言い出したユースケというテストプレイヤーが元凶である。


 何かそういう星の下の不運からか、ユースケ本人の腕が飛びまくっていたのも原因なのだろう。ジョセフというイノシシ型モンスターと共に、あっちの騒動で腕がげ、こっちの騒動で膝から先が吹き飛びを繰り返していた彼は、テストプレイ3日目……突然に悟りを開いた。


 純晶石が回復薬になることを知り、吹っ飛んだ自分の腕を回収して自分に押し付けるという――地味に字面以上に最悪な行動を率先して行い、そして予測した回復法を実践した。


 本人曰く、使用感は悪くない。ただ熱い。めっちゃ熱い。後、なんか心臓あたりがキュっとなる。とのレビューは正しく、雪花は予想以上の熱感と異様な動悸に、改めて【あんぐら】の――それ以前のVR接続システムに疑いを持った。脳の神経接続で、こんな現象は起こりえない。ならば別の、と考えれば、簡単に結論に達してしまう。


「やっぱり、魂に直接繋いでやがるな――ッ」


 性格が悪い、ネジくれているという表現を軽々と通り越し、もはや人でなしどころではない兄弟子ソコルのピースサインを思い出しながら、雪花は唸る。


 VR接続システム機器〝ホール〟は、仮想世界と利用者の魂を繋ぐことで、あらゆる感覚を再現する。その上、【あんぐら】がメインサーバにしているのは、「エディカルサーバシステム」などとうそぶく、機械ですらない錬金製の亜生物――ホムンクルスだ。


 これだけ魔法学に徹底した接続ならば、処理落ちなど無縁どころか、逆に繋がり過ぎることで問題が起こるだろう。


 通常のVRよりも深い没入感と、ほぼ完全な依り代アバターへのリンクは、プレイヤーの魂から現実世界での体験を元にして様々な現象を引きずり出し、たとえ体験したことが無いことでも、ホムンクルスが抱える膨大な情報から、直接プレイヤーの魂に追体験という形で情報を送り込む。


 例えば雪花の視線の先、海にも川にもプールにも潜ったことがない狛犬が、VR仮想体験とはいえ初めての顔つけに、驚きのあまりぶしぶしと鼻に入ってしまった水を振り払っているように。


 酒を飲んで酩酊したことがある者がこの世界で大量の酒を飲めば、VR仮想世界内で不自然なほど酩酊してしまうように。


 その仕組みは上気の通り、魂を介して仮想世界を実現するラプター・オルニス社製のVR接続機器と、莫大な情報量を誇る情報体であるホムンクルスとの最悪のコラボによるものだ。

 だからこそ、【Under Ground Online】は一部の刺激を求める層にコアなファンが多い。


 しかし、そんなリアルさがマイナスに働いたのが狛乃の狂乱。幼いあの日、地獄のような体験と全く同じ経験をしたゆえに、心を守るために忘却していた記憶が、「似たような記憶があるじゃないか」と無理やりに狛乃の魂から引きずり出され、精神が混乱の極みにあるのだ。


 思い出せば発狂しかねない――だからこそ、〈無効化〉し、魂の奥深くに仕舞い込んでいた地獄の記憶を、【Under Ground Online】のシステムは全くの無予告に、無遠慮に引きずり出した。


 あるいはその現象は、決してマイナスのものばかりではなかったのかもしれない。


 魂はすぐに楽を覚える機関だ。一度辛いことに蓋をして、それで精神の安定が約束されるのならば、本人が意識せずとも魂が記憶の忘却を繰り返すことは珍しいことではない。


 いなくなってしまった母親のことを忘れ、母を思い出してしまうドーナツを忘れ、そしてドーナツという普遍的な菓子を覚えていない理由をこじつけるために盲目を理由に和食以外のものを忘れ、


 後付け、こじつけ、どうにかして理由をつけて、不自然な記憶と経験を覆い隠す。


 目の前で消えてしまった父のことを忘れ、復讐印の理由を忘れてこれは火傷だとこじつけた。その2つがごっちゃになり、理由付けのためのストーリーの要となったのが、起きてもいない火事の記憶だ。


 思い出せば発狂する――それほどまでに辛いことではないが、忘れてしまえたら辛いことから解放される。そんな記憶の断片を、今までも【Under Ground Online】は狛乃の魂から呼び起こしてきた。


 VR仮想世界での体験は人との交流を思い出させ、ルーシィによって希望を見い出し、幻とはいえ力を得て、問題を解決していくことで辛い記憶と共に消えていた幸福な記憶を呼び起こした。


 雪花が思うに――明確な転機は、ニブルヘイムと共にトルニトロイに打ち勝った時。


 竜脈の中、木馬と共に特訓をしながら、狛乃は生き生きと目を輝かせていた。誰にも消すことが出来ない希望になりたい――おそらくその感情は、現実の世界、幼い頃か、いつかどこかで抱いたものだったのだろう。


 その日からだ。雪花と真っ直ぐに視線を合わせ、屈託なく笑うようになったのは。仮想世界での経験を経て、狛乃は少しずつ忘れていた幸せな記憶を取り戻してきた。


 取り戻しすぎて息を吹き返した亜神の魂が暴走することもあったが、それ以上に狛乃は明るくなった。ネガティブな発言はほとんどなくなり、前は知らないと言っていた洋食の名前なども、知らないと言っていた記憶の方が今は無い。


 そう、魂との密接な関係も、悪いことばかりではなかった。だが今日ばかりは悲劇が重なり、裏目に出たのだ。


「ゆっくり思い出せば違っただろうに――ッと、危ねぇ、ワワルネック! 気をつけろ!」


 悪態をつきながら、雪花は狛犬の死角に回りこみ、ぶんぶんとハエを振り払うように頭を振る狛犬の周囲を飛び回っていた。巨大な頭が振られると同時に巻き角も夜気を裂くが、高速で動き続けるワワルネックと、その背に陣取る雪花には当たらない。


 水属性の性質は、冷却と凝縮――その原理によって、水属性に完璧に寄っている雪花のステータスは瞬発力が極端に低く、速度(加速度)とスタミナが高い。


 咄嗟の行動は遅いが、継続移動を続けて最高速度に達した後ならば、ワワルネックも雪花も、榊に負けず劣らずの速さで動けるのだ。ただし、最高速度を維持するためには、一瞬たりとも止まれない。


 その性質のために他の属性由来ステータスよりかはスタミナが多く、長期戦向きなのが水属性の特徴だが、今回の目的は敵を倒すことではなく、やれることは定期的に狛犬に冷や水を浴びせかけるくらいだった。


 その狛犬も、よほど頭から水に浸かったのがショックだったらしい。思い切り鼻に水が入り、染みたのが嫌だったようだ。

 前脚を振るとバランスが取れないらしく、先ほどから、地面から足が離れないように注意深く動いているおかげで攻撃の手が鈍っていた。


 それでも、飛び回る雪花を榊に見立てている狛犬は、どうしても敵を捕まえたいらしい。巨大な牙を剥きだしにし、狛犬はがちり、がちり、と雪花に噛みつこうと顎を動かす。


 だが、雪花にとって朗報なのは、頭から水に浸かったおかげで、少しは首を掴まれた感触が和らいだらしいということ。

 深紅の瞳は未だに怒りに燃えているが、時折、自分から身体を屈め、水中に首まで浸かっては身体を揺する、という行動を繰り返している。


 人間、嫌なことがあった時や触られたくないものに触られた時、手を洗ったりシャワーを浴びたりするとすっきりすることがあるが、狛犬の行動もその感覚に近いのだろう。


 今もまた、捕まらない雪花に苛立ちながらも、雪花が少し距離をとってやれば、狛犬は自分から首を水中に沈め、明らかに掻き毟るのとは違う動きでがしがしと前足で首筋をかいている。


 絶叫を上げることも無く、その喉から絞り出すような悲鳴が響くこともない。だが、狂乱状態から抜け出してもなお、狛犬の態度が変わらない様子を見て、雪花は確信する。


 今の狛乃は、地獄を体験したあの日の精神で固定されてしまっている。正気には戻っても、狛乃には自分が此処にいる理由がわからない。絶望の日以降の出来事を全てなかったことにして、幼い精神のままでいることで自身の心を守ろうと必死なのだ。


 榊に首を絞められた、攻撃された怒りは残っている。雪花を噛み殺しても怒りは消えないだろう。その精神が、元に戻るかどうかも定かではない。


 精神を退行させ、辛いことから逃げ出すために何もかもを放り出したのが、今の狛乃だ。


 けれど、逃げ道の先に道は無いのだ。生きている以上、どこへ行っても地続きで、結局は逃げ出した場所に戻るしかない。立ち止ったその場所から、戻る道などありはしない。


「……っ根性だ、根性」


 そう、後戻りは出来ないのだ。


 甘い言葉で、優しい声で、あの時のおにいちゃんだと、過去の記憶に縋って狛乃を落ち着かせることは勿論できるだろう。過去の記憶をリフレインしている今の狛乃の魂ならば、呼びかければ思い出してくれる自信がある。


 そのまま、ぼんやりと、ゆっくりと。再び微睡むように記憶を消す方が、狛乃にとっては幸せなのかもしれない。


 けれど、あったことは消せないのだ。いつかは向き合わなくてはいけない記憶だ。

 これから先もこの仮想世界と関わるのならば、首を絞められただけで否応いやおうなしにシステムは魂から記憶を引きずり出すだろう。地獄の記憶を、何度でも、鮮明に。


 それ以前に、雪花は幼い日の狛乃に戻ってほしいわけではない。忘れたいことを忘れ、精神を幼くし、現実に蓋をして生きてほしいわけではない。



 ――……父も母も出て行った。雪花の幸せは終わってしまった。あの日の狛乃の言葉も、声も、忘れてしまった、思い出せない。



 何もかも失くしてしまったと、雪花はずっとそう思っていた。


 けれどあの日、狛犬がニブルヘイムに言った台詞を、雪花も隣で聞いていた。



 ――〝幸せを数えるんだ〟



  あの日、ログアウトをして……あまねと一緒に夕飯を食べながら、雪花はぼんやりとその台詞を思い出していた。大切な妹の顔を見て、ようやく雪花は気が付いた。



 ――何もかもを失くしてしまったわけではないんだな、と。



 残った幸せは、確かにあった。失ってから得た幸せも。


 それは、雪花にも。そしてきっと、狛乃にも。だからこそ、再び自分を狙い、牙を剥く狛犬に雪花は叫ぶ。



「一人だった時とは違うはずだ……ッ!」



 それの直後は、確かに受け入れられなかっただろう。失ったものの大きさに、絶望することは間違いでは無い。

 けれど、それから色々あったはずだ。酷いことを言う人もいたけれど、嬉しいことを言ってくれる人もいたはずだ。



「前に言ったろ、俺はいなくなったりしないって!」



 悲痛な声で、雪花は叫んだ。


 夜が明ける――太陽が水平線から顔を出す。螺旋の角を陽光で光らせて、狛犬が水を蹴立てて走り出す。



「なあ、ボス……ッ」



 思い出させるべきは、ただ1つ。




「思い出も全部、なかったことになんかするなよ――ッ!!」




 絶望を殺す、希望を君に。


























第百九十六話:君は、一人なんかじゃないのだと。

























 ――……不意に、誰かの叫びが聞こえた気がした。



(……誰だろう)


 暗い――暗い空間に、ただ一つ浮かぶ朱塗りの大門。


 深紅の門の控柱ひかえばしらに寄りかかり膝を抱えたまま、小さな頃の姿で狛乃は思う。


(……誰の声だろう)


 抱えた膝に伏せていた顔を上げれば、頬を滑る涙があった。でも、泣いている理由がわからない。ただ呆然と座り込み、狛乃はぽろぽろと泣いていた。


「ひっく……」


 首を傾げながら、しゃくり上げる。涙が零れ、膝を濡らした。此処がどこかわからない。此処には何も無い。ただ朱塗りの大きな門が一つあるだけだ。他には何も存在しない。


「……」


 見渡しても、何も無い。ただ暗闇の真ん中に、赤い門があるだけだった。


 誰もいない。


 何もない。



「……っ」



 声を上げて――泣き出しそうになった時。再び声が聞こえた気がして、狛乃はそっと瞬いた。



「誰……?」



 答えは無い。ただ遠く、微かに叫ぶ声が聞こえてくる。


 ボス、とその声は叫んでいた。俺だよ、雪花だ、とも叫んでいるようだった。


 けれど、狛乃には覚えのない名前だ。そんな名前の人間は知らない。知らない人に呼びかけられて、狛乃は少しだけ怖くなる。


(でも……)


 優しそうな声だな、と狛乃は思う。一人きりで大きな門の前に座り込み、声の主を探して辺りを見回した。けれど、見つからない。


「……どこだろう」


 門の中かな――と。狛乃は朱塗りの大門を振り仰ぐ。大きな門の向こう側を意識して見れば、途端に石畳が現れる。


 狛乃の足元にも石畳。門の向こう側には左右に灯篭が立ち並び、ふわふわとした明かりが門を境に向こう側をぼんやりと照らし上げる。


「わあ……」


 不思議と、遠くは見えなかった。灯篭はずっと先まで続いているように見えるのに、門の内側の道をほんの1メートルくらいだけ照らし出している。


 逆に、振り返れば何もない。真っ暗闇が続く世界。温かそうな門の向こう側とは正反対に、冷たく、辛そうな道だった。


 耳を澄ますが、声は聞こえない。ただ狛乃の前に、2つの道があるだけだった。他には何も、存在しない。


「……」


 気が付けばふらふらと立ち上がり、狛乃は朱塗りの門の向こう側に惹かれているようだった。温かそうな道。そこを進めば、もう何も辛い目にあったりはしない道。教えられずともそんな気がして、狛乃は決心して歩き出す――歩き出そうとして、立ち止る。


 ――――――パキン、と。


 小さく弾けるような音がして、門が凍り付いたからだ。


「え……え?」


 困惑する狛乃の前で、朱塗りの大門は音を立てて凍り付いていく。台石が凍り付き、控柱に霜が張り、柱を這い上がる冷気が瞬く間に笠木までをも凍てつかせる。


 まるで――鳥居に氷の扉をこしらえたように。入り口を透明な氷で覆われて、狛乃は中に入れずに立ち尽くす。


「どうしてぇ……っ」


 泣きそうな声で呟けば、氷の壁の向こうに人影があった。少年のようなシルエットのそれは、氷の壁に手のひらを重ね、静かな声で狛乃に答える。


『――ダメだよ。こっちに来ちゃダメだ。これはなんだよ』


「なんでダメなの? 狛乃もそっちに行きたいのに……」


 どうしてよ、と狛乃に問われ、氷の向こうで影が答える。


『戻れなくなるから……ねえ、君は多分……まだ向こうに友達がいるだろう?』


 俺にはもういないけど、君には友達がいるはずだ――。少年の影はそう言って、更に氷を分厚くする。パキパキ、などという可愛らしい音ではなく、ギチギチと歪むような音を立て、氷は分厚くなっていく。


「いないもん……狛乃、友達はいないもん……」


 その様子を見上げながら、やはり狛乃は言い募る。


 狛乃に友達はいない。両親と一緒にあちらこちらを転々としていた狛乃には、友達なんていうものはいなかった。


 狛乃はそう訴えるのに、けれど影は頑なに言う。


「いるよ――今も、呼んでるよ」


「いないもん――!」


 駄々をこねる子供のように、狛乃が叫ぶ。すると分厚い氷の向こうで影は囁くように吐息した。


「……今の君には、いないかもね。でも、大人になった君にはちゃんと友達がいるんだよ」


「そんなことないもん! 狛乃もそっちに行くの!!」


 此処は袋小路だ――この先に道は無い。影にそう言われ、狛乃はついに泣き出した。癇癪を起し、激情のままに狛乃の手から炎が噴き出す。

 バチバチと――氷と炎がぶつかる音。急激な熱にひび割れた氷壁の向こうに、水晶のように青く透き通る瞳が見えて、狛乃はふと炎をぶつけるのを止めて覗き込む。


「……だれ?」


「……俺はラクシャ。君は……少し、荒っぽいな」


 氷壁の向こう側、割れた隙間から困ったように狛乃を見下ろして、ラクシャと名乗った少年は仕方が無さそうに溜息をつく。


「付き添いを作ってあげるから、近くまで自分で歩いていくんだ」


「つきそい?」


「そう、ギリーでいいだろう……ほら」


 少年がそう言った途端、ひび割れから冷気が噴き出した。飛び出した冷気はきらきらと光りながら氷で出来た大きなリカオンの形に変貌し、緩やかな足取りで狛乃の隣に降り立った。氷で出来た鼻先で、優しく狛乃の頬をつつく。


「この子、ギリーっていうの?」


「……そうだよ。君が彼をそう呼んだんだ」


「――――」


 ラクシャが言ったその瞬間、狛乃はぴたりと動きを止める。小さな手のひらが恐る恐る氷で出来たギリーの鼻先を撫で――不意に、その唇が幼さの消えた口調で言う。


「――ギリー」


「……さあ、行くんだ」


「……うん」


 再び狛乃は、舌足らずな様子で返事をし、ぼんやりとしたまま氷のギリーに促されて歩き出す。


 一歩――踏み出せば、ほんの少しだけ背が伸びた。


 数歩――進む度に、狛乃は幼い姿から大人の姿に成長していく。


 歩いていくほど、進むほど――狛乃は様々なことを思い出していく。


 じいちゃんと暮らしたこと……一人になって寂しくて、【Under Ground Online】を始めたこと。ルーシィと出会ったこと、笑い合ったこと――ギリーと出会い、名付けたこと。


「――ここは」


 歩きながら、狛乃は思う。此処は、何処なのだろうと。自分はどうして此処にいるのだろうと。


 進む度に思い出す――ルーさん達と冒険をして、弥生ちゃんと砂竜もどきを倒してドラゴンを手に入れて……ニブルヘイムと共にトルニトロイと戦った。


「トロイに勝って――それから……」


 付き添いの、氷で出来たギリーがほどけるように消えていく。そのことに気が付かないまま、狛乃はゆっくりと、でも確実に歩いていく。


 ノアさん達とギルドを作って、毎日が楽しくて――フローレンスを倒す時には皆に迷惑をかけてしまった。そしてあの日、ブランに出会った。現実世界にファンタジーおとぎ話が訪れたのだ。


「ソロモンに行って、リトと戦って……」


 弥生ちゃんの悲しみを聞き、セリアにファーストキスを奪われた。ショックがさめない内にシェアハウスの話になって、それから――。


「ブラウニーと世界警察ヴァルカンに行って――」



 ――そしてそこで、地獄を見た。



「――――」


 不意に、狛乃は立ち止る。


 目を見開いて、両手をそっと喉に当て、浅くなる呼吸で全てを思い出す。


 逃げよう、と咄嗟に思う。でも何処へ? 何処にも逃げ場はない。行く当てはない。恐ろしさにぎゅっと目をつむる狛乃の耳に、遠くから声が響いた。


「――……声?」


 恐怖から真っ白になった頭の中に、聞き慣れた声が響く。誰の声だっただろう。それだけがどうしても思い出せなくて、もどかしくて……狛乃はそっと目を開けて、声がする方向に走り出す。



 ――〝一人だった時とは違うはずだ〟と叫ぶ声がする。



 ――〝俺はいなくなったりしない〟と叫ぶ声がある。



「誰だよ――ああくそっ、思い出せない……っ」



 悪態をつきながら狛乃は走る。真っ暗闇の一本道。冷たく、暗く、辛い道。けれど、この道の先から声はする。逃げるな、と。自分に向かって力一杯に叫ぶ声があるのに、何処へ逃げられるというのだろう。


 だって、友達が叫んでいる。懐かしい声。傍にいるのが当たり前の、自分の大切な友の声。



「友達……」



 友達なら、ボスがいるでしょ――と。そう言った声を覚えている。月夜に光る橙色の瞳は柔らかく――自分はその色が好きだった。必死に走り続けながら、自分は自分の記憶を手繰り寄せる。


 声が叫ぶ……〝幸せを数えろ〟と。持っていないものを数えていないで、持っているものを数えるのだと。


 そうすれば、前に進めるだろうか? 失った日の、地獄の記憶を抱えたまま、それでも前に進めるのか。


 進めるはずだ、と声は叫ぶ。だって、何故なら、もう一人ぼっちではないのだからと。



「そうだ――もう、一人じゃない……っ」



 幸せは、もうたくさん持っている。もう一人ぼっちではないのだ。暗い部屋も、暗い心も……もう何処にも存在しない。


「名前……」


 そのことを思い出させてくれた声に報いたくて、名を呼びたくて歯を食いしばる。走りながら、ふと思い出すのは小さな記憶。


 ……彼の名前は、雪の花――冬産まれだからと、はにかむ声。いつも、いつでも必ず隣にいて、気が付くと小さな優しさを向けてくれる。今もまた、何処からか自分を呼び続ける、彼の、名前は――……、








-----------










「――…………雪花」




 呆然と自分がそう呟けば。自分の目の前で、雪花は柔らかく微笑んだ。自分が好きな、橙色の瞳を優し気に滲ませて。


 気が付けば冷たい水の中、自分は四つ足で立っていて……目の前には水の精霊王に乗った雪花がいた。


 雪花は血塗れのまま、ただ柔らかく微笑んで、



「おかえり――ボス」



 夜明けの光に、そっと眩しそうに目を細めた。






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