第百九十四話:濡れぬ先こそ露をも厭え



第百九十四話:濡れぬ先こそつゆをもいと




 真夜中のダッカス――幻月輝く夜空の中で、怒りに満ちた咆哮が轟く。


「ざっけんな――! セリア! てめぇの所属忘れたのか!」


 伸ばした指先を砕かれ空中で体勢を崩したまま、驚きを憤怒に変えた榊の声だ。


 榊の腰には揺れる林檎のキーホルダー。セリアの腰にも全く同じものがぶら下がっている。銀のチェーンに深紅の林檎。それはギルドならぬ自警団――世界警察ヴァルカンに所属しているという意思表示に他ならない。


 渋い顔で榊を見下ろす優男の顔を仰ぎ見て、榊は吼える。


「あいつは狛犬だ――賞金首だぞ! アタシは間違っちゃいないだろう!?」


「間違いだよ――何がって? 教えてやるよ、いいか……ッ」


 両者、互いに単体での飛行手段を持たない身の上で、落下の浮遊感にほぼ同時に舌打ちをする中。セリアは真っ直ぐに榊を見下ろし、苛立ち紛れの声で言い放つ。


「俺がこんなとこに来なきゃいけなくなった……それが一番の間違いだクソが!」


 トルニトロイと違い、セリアの動機は八つ当たり。じくじくと痛む――ような気がする身体をトルニトロイに無理に掴まれ、来たくも無い場所に連れてこられた現状への鬱憤の全てを込めて、セリアも吼える。


「死ねボケ――【ラファーガ】!」


 詠唱無し――すなわち魔術ならぬ風魔法。風属性の魔法としては最もシンプルゆえに、一撃の威力が高い攻撃スキル。敵を切りつけるどころかこの距離ならば両断することもある三日月形の刃を前に、しかし榊は怯まない。


 避ける素振りさえも無く、仰向けの体勢で落ちていきながら風の刃を榊が受ける。三日月形の凶風は無抵抗な榊の胴体に潜り込み、その性質を存分に発揮して身体を2つに寸断する――はずだった。


「はッ……ばーか、効かねぇよ!」


 だが不可思議にも――風の刃は榊に触れた瞬間に硬質な音を立てて消失。代わりにセリアの耳に届いたのは、蓄積カウンターが魔力を吸収しました、という無機質なアナウンスだ。


 魔法を撃った反動でわずかに浮き上がりながら驚きの表情で黒灰色の瞳を見開くセリアに、榊は蔑むような顔で砕けていない方の中指を立てて見せる。


「ざまぁ! 【アーグワ】!」


 続けて榊は鋭く足を振り下ろし、重心を変えることで空中での姿勢制御――からの移動補助魔法で空中に出現させた氷塊を足場にし、驚異的な瞬発力で瞬く間にその場を離脱する。


 セリアもすぐさま険しい表情で追いかけようとするが、軽い足取りで岩を蹴りつけ、遠ざかりながら榊はセリアを嘲笑する。


「後ろ――気をつけろよ、セリアぁ!」


「は……? げぇっ!?」


 榊に言われ、頭上から影が差し、そこでようやくセリアが危険を察知して嫌そうな声と共に振り返る。

 セリアの目の前には振り上げられた巨獣の腕。今の状況も、敵も味方も理解できない狂乱状態の狛犬が、とりあえず榊を狙って腕を振り上げたのだ。


 一瞬で離脱した榊の姿を、狛犬は追えていない。振り上げた右前脚は振り下ろされる以外の選択肢を持たないが、狙った場所にいるのはセリアだけだ。


「ちょっ……落ち着け、狛い……ッ【クローディング】!」


 止まれ、というよりスキルを使って離脱するべき――と判断を下したセリアが、やはり移動補助魔法でその場を離脱する。属性の違う、しかし【アーグワ】と効果は同じ魔法。浮かぶ足場が氷塊から小さな岩になっただけのスキルを唱え、それを蹴りつけてセリアは跳ねた。


 しかし、セリアのステータスは万能型。特定のパラメーターに特化していない分、適応称号スキルによって速度も瞬発力も底上げされた榊のようには上手くいかない。足場を一蹴りするだけでは巨大質量から完全に逃れきることは出来ず、足りない分を補うために、セリアは短くトルニトロイに呼び掛ける。


「……トロイ!」


 セリアの呼び声を聞くまでもなく――軟弱者がぁ! と叫びながら旋回し、投下したセリア装備品を回収に来るトルニトロイ。彼は巨大な翼を器用に畳み、急加速でセリア装備品を掴み取る。そのまま怒れる狛犬の一撃を、紙一重でかわしきった。


 轟音と共に黒い毛皮に包まれた前足が振り下ろされ、巨大な水柱が派手に舞い上がる。獲物を叩き潰せなかった狛犬は苛立ちに牙を剥き、地団駄を踏みながら家々の影に見え隠れする榊を捕らえようと、がむしゃらに腕を振り回している。


 無事だった家々も次々と叩き潰され、榊が隠れられる場所も足場も限られてきているが、榊はダッカス唯一の安全地帯――統括ギルドと教会の影に隠れ、気にした様子もない。


 緩やかに風に乗り、高度を狛犬の目線に保つトルニトロイは立腹の様子。軽い体捌きで後脚から跳び上がり、セリアはようやくトルニトロイの背に降り立った。そのまま難しい表情で、榊が隠れた統括ギルドの影を見やり無言で舌打ちをするセリアに向かって、トルニトロイはぎゃんぎゃんと吼えかかる。


『セリア! 何故魔法などに頼る!? あのような者、何故に蹴り飛ばして頭をかち割らない!?』


「うっせ……あの適応称号スキル、厄介だわ。やっぱ帰るべき。第一、何が狛犬を助けるだよ……ただの怪獣戦争だろ、どっちが勝とうが負けようが、手出しすることじゃねぇっしょ」


『何……ッ貴様! 腐っても正義の組織にいる奴がよくもそんなことを――……待てよ。セリアまさかお前、また【魔獣語】をオフにしてるな!?』


「だから何だよ、うるせぇんだよあの変換スキル……俺は楽しくゲームしてんだよ。夜が来るたんびに何度も〝許さないぞ人間!〟なんて野生モンスターの声なんか聞いてられっかよ……」


 それに樹海の件はともかく、これだけ性懲りもなく暴れるようじゃ叩かれて当然だと……セリアは冷めきった目で狛犬を見る。

 元々、セリアにとって狛犬など情のある相手ではない。昔見た悲劇を思い出し、同情から助けただけ、仕事として任されたから守護役として共に暮らすだけ。


 ――……昔、ソロモンで見たあの青年が、こと切れた瞬間を覚えている。その指先が大切なものを取り落とす瞬間も。


 できることならもう見たくない……そんな気持ちの延長で、狛乃に情けをかけただけだ。

 元々、【あんぐら】で遊んでいるのはただの趣味。現実世界の関係を持ち込む気などさらさら無く、セリアは重度の廃ゲーマー。


 多人数で遊ぶのが大前提のMMOで、暗黙のルールも守れず、周りに迷惑をかけ続ける存在など、唾棄すべき存在でしかない。


 ゆえに、セリアは軽蔑の目で狛犬を見る。黒灰色の視線の先には巨大な狼と化した狛犬が榊を見失ったことに苛立つように足踏みを繰り返し――ぴたりと動きを止めて動かなくなる。

 その様子を溜息混じりに見やってから、セリアは吐き捨てるように言う。


「こんだけやりゃあ〝人災〟扱いでも仕方ないっしょ……それに……」


「――セリア!」


 ――不意に、知った声に名を呼ばれてセリアは狛犬から視線を外す。


 冷たい軽蔑の目で狛犬を見ていたセリアは更に溜息。背後から自分の名を呼んだ男に嫌味の一つでも言ってやろうと振り返り――……雪花の狼狽した表情を見て、いぶかしそうに眉をひそめた。


「セリアっ……助かった、礼を言う……ああ、本当に……っ」


 まるで、迷子の子供のような顔。目の前で宝物が叩き壊されたような、恐怖と不安に溺れそうな顔で雪花はセリアに感謝の言葉を口にする。


 おかしい――と、すぐに思った。何故なら昨夜、散々に喧嘩をした相手だ。


 ふてぶてしく、頑固で、融通の利かない生真面目野郎が、狛犬が負けそうだったとはいえ、この件に水を差したセリアにあれくらいのことで感謝の言葉など……言うはずがない。


 静かな驚きと共に、そのとき初めてセリアは違和感を抱く。


 その違和感を肯定するかのように――不穏な予感に険しい表情になっていくセリアの目の前で、ホッとした様子だった雪花の表情が凍りついた。


 薄い唇が焦りに動くが、声は無い。柑子こうじの瞳が何かを怖れるように見開かれ、次の瞬間、



 ォォオオオオオオオオンン――ッッ!!



 絶叫。


 天を裂くような叫び声を聞き、セリアが狛犬を振り返る。黒灰色の瞳の先で、胸の辺りまで深々と水に浸かり、激しい水柱を立てながら巨狼の爪が自身の首を抉り掻いていた。


 巨大な前脚が毛皮に食い込み、鋭い爪によって肉が抉れるのも構わずに首筋を掻き毟る。ぶつかる物は最早もう無く、追い詰められた狛犬はついに自傷行為に走っていた。

 何度も何度も、悲鳴を上げながら自分で自分の首を掻き毟る。その異様さは、もはや語るまでもない。


「ッ、ワワルネック――!」


『急いでる! でも、範囲が広すぎるんだよ……!』


 雪花と水の精霊王の声を遠くに聞きながら、セリアは無表情でステータスを開く。パッシブスキル一覧を開き、検索をかけて【魔獣語】のスイッチをオンに。


 そうして、瞳を閉じて狛犬の絶叫に耳を傾ける。声を聞く、悲鳴を聞く。狛犬が何を叫んでいるのかをただ静かに聞き取って、



「雪花……お前は狛犬の対処に集中しろ。榊は――……俺がやる」



 セリアは静かに目を開き、凍えた声で沙汰を下した。




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