第百六十七話:魔術師のネクローシス、亜神のアポトーシスⅠ









 上級管理官エルペスは、剃刀のような声でこう言いました。


「この世界で、最も便利な兵器の名前を教えてやろう」


 上級管理官エルペスは、それを兵器だと言いました。


「亜神――亜神だ。わかるかね? 出来そこないの、満足に生き物としても振る舞えない、哀れで、愚かな、末席の者。普通、神々は六花の1つが、初めから枯れているものだ。だが、亜神は6つ全てが枯れ果てている……これが、どういうことかわかるかね?」


 彼は、本当に嬉しそうに微笑みました。


「兵器に最高、ということだ! あれほど良い武器は無い。劣化もせず、死にもしない! 〝悲しみ〟も無く、見知らぬ者への〝情〟など持たない。〝焦燥〟も無く、〝悪意〟、〝後悔〟、〝恐怖〟さえ理解しない!」


 上級管理官エルペスは、狂っているように見えました。


「戦争で扱うには魔術師共は脆すぎる! 何が? もちろん、精神がだ! 肉体が死ななかろうが、奇跡が起こせようが、奴らはダメだ! 〝カワイソウ〟だの、〝コワイ〟だの、〝コンナコトシタクナイ〟だの言い募り、すぐに六花がぐずぐずになって死んでいく。精神がダメになったくらいじゃ死なない普通の人間の方がよほど役に立つ! ああ……君も魔術師だったか、失敬……失敬……」


 いいえ、上級管理官エスペルは、たぶん狂っていたのでしょう。


「ラクシャ――? ああ、武器の名前か。品名は亜神だ。名前などいらないだろう。それとも君は自分の扱う大砲の弾、ひとつひとつに名前を付けるのかね? はっはっはっ――! 面白い冗談だ!」


 ええ、そうです。彼の名前は――そう、名前です。彼の名前は……亜神でも、徒花あだばなでも、怪物でもありません。彼は、〈ラクシャ〉と名付けられていたんです――……そう、たぶん、両親に。


「君には期待している! 亜神の友人として、大いに指揮をとってくれたまえ! ヴァラヴォルフなんか目じゃないぞ! 何が化物の王だ――亜神の方が格上なんだってことを、奴らにわからせてやる!」


 彼は……亜神でした。はい、そうです。亜神です。記録には残していませんでした。表向きには、魔術師として記録していました。「氷結・破壊」の魔術特性として、登録されていたはずです……たぶん。すみません、僕の権限では、確認できなかったんです。


「いいか、亜神の感情なぞ、愉快、不愉快くらいしか存在しないのだ! 上手く使えよ? お前が奴らを嫌い、怖い、というだけで、亜神は奴らを凍らせるからな! 氷漬けだ! 丸ごとな!」


 いいえ――いいえ。彼は、他の感情も持っていました。六迷は失っていたとしても……少なくとも、仲間と認めた者への愛情と、怒りと、純粋に娯楽を楽しむ心くらいは。それだけの心はあったんです。本当です、本当なんです。


「しかし、徒花か――空軍の奴らの言い回しも中々洒落ているじゃないか。実を結ばない、中身の無い、生まれた、という結果が咲いただけの欠落種! ああ……そういえば、ヴァラヴォルフの改造品の〈dog〉とかいう奴は、亜神をモデルにしたらしいぞ? 奴らは生きた武器を作った気でいるようだが、粗悪品も粗悪品! 六迷、全てが欠けてこその最強武器だというのに!」


 六迷……ですか。確かに、無かったと思います。でも、彼は、ラクシャは、無知でも、能無しでもありません。ラクシャは、理解出来なくても、理解する努力はしてくれました。


 僕が、魔術師の空襲が怖い、と言った時、ラクシャは確かに言ったんです。「怖いね。怖いね。でも大丈夫だよ、ちゃんと俺が全部消してあげるから」って。僕の背中をさすりながら。たぶん、ラクシャ自身は、その時は〝恐怖〟とか、何もわかってなかったと思います。


 ただ、僕が怯えるから、何か、僕にとっては重大な問題なんだろう、とラクシャは考えてくれていたんです。たぶん……すごく嫌いなもの、みたいに捉えていたんじゃないかと思います。怪物なんかじゃなかったんです。徒花なんかじゃ、なかったんです。


 でも、そうです。はい……どうか、どうかソロモン王よ。僕の願いを聞いて下さい。


 亜神は、決して怪物でも、徒花でもありません。でも、僕は怖かった。僕は、ラクシャが怖かったんです。


 僕は、最後まで彼が何を考えているのかわからなかった。意思疎通が出来るのに、同じ言葉を話しているのに、理解し合えないことが、あんなに怖いことだとは思わなかった。


 ラクシャは、僕を友達だと言いました。でも、僕にはラクシャを友達だと思えなかった。応えられなかったんです。だから、僕はラクシャに言ってしまった。


 「僕はラクシャが怖い」って。そうしたら――そうしたら、どうなるか、考えてなかったんです。悪意があったわけではないんです。でも、いっぱいいっぱいだった。日に日に積もる恐怖が、淵から溢れたのがあの時だったんです。



 ――……ラクシャは、あの時、ほんの少し黙り込んでから、僕にこう言いました。



「――……俺も怖いよ」って。ただそれだけ。



 その時は、意味がわかりませんでした。ラクシャは――僕が彼に引き合わされた時には、完全に生き物らしくなかったから。六花を持たない、亜神だったんです、間違いなく。


 演技でもない、洗脳でもない、本当に心の底から、ああ、違う生き物なんだ、って痛いほどに肌で感じるくらい、ラクシャに六迷は存在しなかった。


 そんな彼が、あの時、はっきりそう言ったんです。「俺も怖いよ」、って。怖いって、はっきり僕に言ったんです。


 あの時は、意味がわからなかった。また、気を使ってくれたのかな、と思ったんです。僕はすぐにその後、謝りました。ごめん、って。小さく、独りよがりに。


 傷つけてしまったかな、と思ったけど、大したことではないだろう、とも思っていたんです。


 でも――でも、翌日、塹壕ざんごうの中で、粗末な板きれの上で、ラクシャの身体は、かたく、冷たくなっていたんです。心臓も動いていませんでした。



 軍に在籍していた悪魔混じりに――魂が凍りついている、と言われました。



 ラクシャの心臓、その中心に座す魂は、芯まで凍てついている、と。


 上級管理官エルペスは怒り狂いました。原因を探せ、兵器を直せ、と僕に命じました。僕は前線から戻され、ラクシャが軍に徴集される前に両親と住んでいた家に、動かないラクシャと一緒に放り込まれました。


 一刻も早く、原因を究明し、ラクシャを直せと。僕がラクシャの行動の要だったのと、僕の魔術特性が「発見」だったのと、理由はいくつかあると思います。


 ラクシャの父親は戦争が始まる前に死亡届が出ていて、家にいるはずの母親は行方不明になっていました。いえ、いいえ。違います。軍も、上級管理官エルペスも、それには関わっていません。断言できます。


 えっと、いいえ、記録は、僕ぐらいの階位ライドじゃ確認できませんから、違います。確信したのは、僕がその家で「見た」からです。「発見」してしまったからです。


 ――……たぶん、男です。魔術師でも、魔法使いでもなかったと思います。たまたま、家庭用の魔法観測機テルドライブの映像記録が残っていたんです。日付は、ラクシャが軍に連れて行かれた一週間後のものでした。


 ラクシャが魂を凍らせた原因を探ろうと、〝何か重要なこと〟を魔術で洗い出していたら、見つけたんです。最初は、過去のラクシャが映っているかもしれない、と思い再生しました。


 再生して、すぐには、映像の意味がよく理解出来ませんでした。


 ラクシャの母親が、何かよくわからない男のような影と対峙していたんです。「重要なもの」で洗い出して、まず真っ先にその記録が再生されたんです。


 男は……そう、たぶん、男だと感じました。でも、そいつは全身にボロを纏っていて、姿形はよくわかりませんでした。でも、姿形は確かに人型なんですが、どことなく、こう……黒猫、と思いました。それか、黒い、大型の猫科動物。


 理由までは……ただ、パッと見た時にそう感じました。そう思ったんです。


 それで……そいつは、ラクシャの母親にこう言ってました。「息子が亜神になるって、どういう気持ちだい?」って。ラクシャの母親は、最初、困惑していたみたいでした。


 何だったか……そう、「ジンリーの手先か?」と叫んでいました。夫を殺して、軍に亜神だと教えて、まだ何を望むんだ、と。そうしたら、男がこう返したんです。


「ああ、彼女は便利だ。隠れ蓑に最適だね。君の息子が亜神だと軍に教えたのは、私じゃない。彼女だ。でも、間違えないでおくれ。君の夫を殺したのは私だよ」


 だって、彼女は〝嫌がらせ〟はしても、〝殺し〟はしないから、と男は言っていました。蜜が滴るような声で、でも木肌に爪を立てるような恐ろしい響きでした。


 ラクシャの母親は動揺していました。困惑しきっていて、見ている僕も、映像の中の彼女も、状況が飲み込めていませんでした。


 でも、ラクシャの母親は途中で理解できたみたいです。驚いた顔をして、それから、まさか、と震える声で何度も繰り返していました。


 男は……わざと、待っているように見えました。ラクシャの母親が、真実を呑み込むまで、待っていたんです。


 それから、男は……ボロ切れの影で、わかりませんでしたが……確かに、わらっていたと思います。


 そのすぐ後に、画面は暗転しました。ラクシャの母親がどうなったのかは、知りません。少なくとも、死体は、見つかりませんでした。隣家の者が通報して、失踪扱いになったそうです。


 僕、僕は怖くなって、こんなところには長くいられない、と思って、急いで家探しを続けました。上級管理官エスペルには、しばらくそこで寝泊まりするように言われましたが、安ホテルでもいい、とにかく此処を出なくちゃ、と。


 その……映像に関しては、深く考えてはいけない気がして、軍には報告しませんでした。怖かったんです。触れた指から、呪われてしまったような気さえして……。


 え? あ……そうです。そのままです。全部、昨日のことです。魔法観測機テルドライブも、元の位置に戻しましたから、まだあると思います。


 それで、えっと、それで……急いで家探しをして、ラクシャの日記を見つけたんです。それだけです。他には、何もラクシャのことがわかるようなものはありませんでした。


 僕、怖くって、急いでラクシャの身体を背負って、日記を持って、家を出たんです。それで、短い庭先の石畳を渡って、小さな鉄門に手をかけた時、視線を感じて振り返ったんです。



 そしたら、猫がいました。



 いえ、四つ足の猫じゃないです。もっと別の、恐ろしい、何かです。人間みたいなカタチをした、猫みたいな顔の、黒い影でした。

 それが脱力したみたいに棒立ちになって、ラクシャを背負う僕を見ていたんです。目は丸くて、サメみたいな目でした。


 見た瞬間は、怖さよりも驚きがあって、逃げなきゃって思いだけで走りました。映像で見た男だと、何故か僕はそう信じていました。


 走って、走って、大通りの、たくさん人が歩いている場所まで来て、適当なホテルに飛び込んで、そこでようやく落ち着きました。その時には、もうあの化け物も追ってきていなかったと思います。


 水を飲んで、しばらく震えてから、気持ちを落ち着けるためにラクシャの日記を開きました。何かやることが欲しかったんです。没頭したかった。何もしないでいたら、怖くて仕方がなかったから。


 ああ――……ああ、ソロモン王よ。僕は、日記を読んだんです。彼の、ラクシャの日記を。


 そこには、他の誰とも変わらない心が書かれていました。当たり前の恐怖と、焦燥と、悲しみと、ささやかな悪意と、愛情と、少年らしい後悔がありました。


 ラクシャは、間違いなく亜神でした。でも、その前に、普通の少年でもあったんです。本当です、信じてください、ソロモン王。


 彼らは、亜神は――全てそうかはわかりませんが、少なくとも彼は、ラクシャは! 六花を失う前があったんです!


 僕と同じ、人らしい感情を持っていたんです。それに、きっと最後の夜にも!


 ラクシャは禁忌ではありません! お願いします、ソロモン王! どうか、どうか僕の願いを聞いて下さい!


 禁忌の者の救済を願うのは大罪だとわかっています。それでも、どうかお願いします。


 だって、ラクシャを殺したのはきっと僕だ! ラクシャの魂は何処にも行けない――ッ。冥界にも行けず、砕け散ることも出来ず、肋骨の下で凍りついている!


 僕が言ったから――ッ、「ラクシャが怖い」なんて言ったから――ラクシャは僕の怖いものを消したんだ! 死ねないってわかっているから、自分で自分を凍らせた!


 ……お願いします。どうか、どうか、お願いします、ソロモン王。


 その力で、「神権」で、どうかラクシャを助けてください。僕は、僕はもうダメだから。わかるんです。耐え切れないって。もう、脚が氷みたいに動かないんです。


 きっと、ダメだ。六花に傷がついて、僕の魂は崩れかかっているんです。怖くて、悲しくて、もうたない……っ。


 辛いことばかりだった。悲しいことばかりだった。どうして、僕が、もういやだ、いやなんです、いきていたくないんです――だから、




 だから――しんでしまいたい……。





















第百六十七話:魔術師のネクローシス壊死、亜神のアポトーシス自壊






















 ――か細く、尾をくような訴えと共に、その青年がこと切れた瞬間を覚えている。


 その指先が縋るように握っていた、の腕が落ちていったのを、セリアは確かに見つめていた。


 今から数代前のソロモン王に立ち会え、と言われ、興味も無い話を聞かされた。うんざりだ。今でもそう思っている。もう、ずいぶん前のことだけれど。


 興味は無かった。ただ、その話は覚えていた。亜神と魔術師の話。得体のしれない異物の話。


 ソロモン王は、喋るな、とは言わなかった。でも、セリアは誰にも喋らなかったし、言われるまでも無く、青年が見た、という魔法観測機テルドライブも回収した。時のソロモン王も、次の代には伝えたようだが、他の誰にも語らなかった。


 中身は見た。今は当代ソロモン王が持っている。彼女はセリアに聞かなかった。ただ、映像を見るだけ見て、「――こいつがさらったんだ」と誰に言うでもなく呟いた。


 そして、ソロモン王はセリアに言った。「お前が信頼する者達数人で、白井狛乃を守れ。シフトは任せる」と。

 ソロモン王は、狛乃が亜神だと確信しているようだった。正直、セリアもそう思っていた。


 面倒な仕事。厄介な命令。出来れば働きたくないセリアが渋面になるのは早かった。それでも、セリアが文句のひとつも言わずに従ったのは、あの日のことを覚えていたからだ。


 ――その青年が、こと切れた瞬間を覚えていた。その指先が、大切なものを取り落とす瞬間も。


 できれば、もう見たくない。


 悲恋、悲劇のたぐいは嫌いだ。だから、【あんぐら】は気に入っている。NPCも死なねぇし、くだらないお涙頂戴のクエストも、ストーリーも無い。お祭り騒ぎは好きだった。


 ゲームはいい。逃げ道になる。どん詰まりの、掃きだめみてぇな現実世界より、よほど気楽に生きられる。だけど、逃げっぱなしは不可能だ。


 だって、生きているのだから。VRと現実は地続きだ。肉体が消滅でもしない限り、人間だろうが、神様だろうが、命のくびきからは逃れられない。


 セリアもまた、逃れられない。このくそったれな現実から、目を背けることは許されていても、そのせいで背負う後悔までは、誰も消し去ってはくれないのだから。そう、あの青年のように。


「……ミル、お前、すぐに帰れ」


 薄手の黒パーカーの裾を払いながら、セリアは静かにそう言った。視線の先には、熱弁を振るう狛乃の姿。少し先には、ガルメナに乗った1人の少女が、不安そうに、恐ろしそうにそれを見下ろしている。


 炎を誘導し、リトの下へ向かわせたのはセリアだ。当然、犯罪者であるリトの確保もセリアの仕事。当然の流れで、セリアは部下のミルを連れて、一部始終をじっと見ていた。


 途中までは問題ない。まあ、多少はっちゃけてはいたが、おおむねセリアの読み通り。亜神だろう、とは思っていたが、半信半疑だったそれが確信に変わったのは、弥生の魂がリトの腹から時だった。


 そんな芸当、悪魔にだってできやしない。きっと、ソロモン王にだって。強い、弱いの話ではなく、単にカテゴリーの問題だった。そして、カテゴライズするなら、狛乃は亜神だ。


「えー……ミルちゃん、ここからが見物みものだと思うんですけどぉ。セリア局長、厳しすぎませ――あ、わっかりましたぁ! すぐに帰りまっす!」


 落ち着きのない声でミルは不平をこぼすが、すぐさま上司の本気を察して引き下がった。露出の多い豊満な肉体を揺らしながら、彼女はその場から走り去る。


「それじゃっ、お疲れ様でしたー!」


 荷物も持たずに、ミルは帰宅のについた。跳ねるように走り、壁に呑まれ、エレベーターを使って一息に外へ。セリアはそれを横目に見送り、今はもう、ガルメナの魔法で弥生と狛乃以外は眠り込んでいる世界に、土足で遠慮なしに踏み込んでいく。


 無遠慮なスニーカーの音。黒いそれが瓦礫を砕き、物音にふと狛乃が振り返る。警戒と敵意に滲んでいた赤と濃褐色ブラウンのオッドアイに、パッと親しみの色が広がった。


 それでも、いつ暴発するかはわからない。おそらく、狛乃はまだセリアを友とは思っていないから。爆発物の処理は単純にして慎重さが命だ。要はバランスゲー、とセリアは出来る限りどうどうと狛乃に近付いていく。


「――セリア! どうしたの? ああ、みんな魂は戻してあげたからね、そのうち目が覚める思うけど、何かあった?」


「何も。それより、おいおい、やることやったら俺を呼んでくれなきゃ困るっつの、おじょーさん。弥生、だっけな。だよな? 狛乃」


「ん? うん、そうだよ。弥生ちゃん。友達なんだ」


 嬉しそうに狛乃は返すが、馴れ馴れしくも狛乃の肩に腕を回し、呼び捨てにし、寄りかかりながらセリアが言う。


 余りにも軽い語調と態度に、弥生が鼻白んだ瞬間。黒灰色の鋭い瞳が、流し目で弥生を射抜く。合わせろ、という短い無言の警告に、弥生はすぐさま気が付いた。


「――ッ、すみません。反抗所員、リト。制圧しました。確認をお願いします」


「そーそー、これでもほら、局長なんでね。うし、確認した。あとはまだら――斑鳩いかるがに処理させる。ついでに――寄こしな」


 それ、と優男に指さされ、弥生は一瞬混乱する。何のことを言っているのか、と聞きかけて、それをじっと見ていた狛乃が嬉しそうに弥生に声をかけた。


「弥生ちゃん、ほら、最終試験の依頼書だよ」


「そうそれ。察し良いじゃねぇか、狛乃。ほら、寄こしな。このクラスの反抗所員確保なら、試験達成相当になる。俺の権限で推薦すりゃ、問題なくおじょーさんは今日から魔法使いだ」


 ガルメナがべて、八つ裂きにされないなら十分に資格はある、とセリアが言い、弥生はぼんやりとしたまま懐から依頼書を取り出した。


 銀の封蝋で留められた、黄金革の便箋筒。溜息と共にガルメナが静かに床に降り立ち、ふらふらしながらも弥生がその大きな背から滑り降りる。


 便箋筒をセリアが受け取り、中身を確認。すっと、黒灰色の瞳を細め、小さなナイフで指先を切り、溢れた血液を書類に垂らした。そのまま元に戻し、後日、また此処に来るように、と言い渡す。


 夢を見ているような表情で、弥生はほう、と吐息した。友人と喜びを分かち合いたくてうずうずしていた狛乃は機嫌よく弥生に近付こうとし、それを見ていたセリアは、弥生から狛乃を引き離すようにその腕を掴んで引っ張った。


「狛乃はこっち。プレゼントがある」


「プレゼント?」


 友人に話しかけようとしていたところに水を差され、ムッとした表情で狛乃が振り返る。しかし、プレゼント、と聞いて考えが変わったらしい。何かくれるのかな? とのんびり小首を傾げる狛乃は、のこのこと引っ張られるままにセリアに近付いていく。


「そうそう、プレゼント」


 セリアの調べでは、亜神の思考は単純だ。愉快、不愉快、親愛、怒り。ついでに言うなら、寂しさ、そして、驚き。これくらいのものしかない。


 六花を知らず、感情が少ない分、その振れ幅はつねより大きい。親愛を示す相手にはべったり懐くし、怒れば相手を塵にするまで収まらない。

 機嫌は極度に良いか、極度に悪いか。寂しさを感じれば、どこまでも落ち込むことだろう。


 そして、大抵の事では驚かない亜神が驚けば、とてつもなくショックを受ける。気にしていること。あるいは、思いもよらない告白などで、強いショックを受けた亜神は、その一瞬で正気に戻る、というのがセリアの推測。


 だからこそ、彼は一瞬たりとも迷わなかった。


 何をくれるの? と、のこのこと近付いてくる狛乃の腕を左手で引く。右手を伸ばし、長い腕はするりと黒髪を撫でながら後頭部をそっと包み込んだ。


 ベージュの長ズボンに包まれた足を大きく踏み出し、黒灰色の髪をさらりと揺らしながら、整った顔を狛乃に寄せる。


 両腕にぐっと力が入り、察することも出来ずに油断していた狛乃の身体が引き寄せられた。

 黄金革の便箋筒を握りしめ、夢の魔法使いデビューに夢見心地だった弥生が、ハッと新緑の瞳を見開く、そのすぐそばで。


 返り血に赤く染まった狛乃の唇に、セリアが柔らかく口づける――だけならまだ、狛乃も急にどうしたの、程度の驚きで済んだかもしれない。いや、やはりファーストキスだから済まないかもしれない。


 しかし、セリアはそこで止まらなかった。中途半端は良くない、という信条の下、セリアの赤い舌はぬるりと狛乃の唇を割り開く。驚きに口を閉じることを忘れた狛乃に舌を入れることなど、セリアには楽勝だった。


「ふっ――む、ぅ……ッ!」


 そのまま、数十秒。恥じらう乙女のふりをして、両手で目を覆う――その指の隙間から、ディープキスをガン見している弥生の前で、ようやくセリアが狛乃の唇を解放する。


 荒い呼吸を繰り返し、耳まで真っ赤に染まる狛乃を前にして、優男は自分の唇を舐め上げてこう言った。



「アンタに正気をプレゼント、ってね。改めて――俺はセリア。セリア・ドァ・ライオネット」



 現実でも、VRバーチャルでも。何処にいても、それが俺の名前だと。そう言って、セリアはニヤリと笑ってみせた。



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