第百五十九話:生まれながらに悪なる者よ
第百五十九話:生まれながらに悪なる者よ
西
東の獅子
北を廻る
南に沈む
それは、魂のカタチを定める法。
その在り方を、潜在的な魔力のカタチを表す
この世の誰もが、それらの魂のカタチを持って生まれ落ちる。
例えば、此処、ソロモン第四層で今まさに恐怖に凍え、命を繋ぐために懸命に思考を巡らす彼らにも、この世界によって生まれながらにそれぞれ持たされた形がある。
死を
生を
善を
悪を
死でも、生でも、善でも、悪でも。どの形も正道である。何故なら、これら四法の道に冠せられる死も、生も、善も、悪も――そのどれもが、人間の視点によるものではないからだ。
それは、世界にとっての死と生の視点。世界にとっての、善と悪。
故に、この空間で凍り付く彼等の中に、生まれながらの死者も生者も、善人も、悪人も存在しない。
例え悪と言われる蛇のカタチの魂を有していても、いきものとして善性の者は存在する。
例え生と呼ばれる猫のカタチの魂を宿していても、常に死に向き合い、それに惹かれるような破滅的な者もいるだろう。
ああ、だけれども。きっとこの場にいる誰もが、今はそんなことなどどうでも良いと思っているに違いない。
いつもの通りに、この混沌世界で退屈かつ刺激的な日々を過ごし、日々、小さな
ソロモンの特別幹部という立場でありながら暗躍する魔女の姿は、別にこの世界では珍しくもなんともない。たとえ彼女が――ジンリーが、一日に一度はトラブルと死者を増やす、と聞いても驚く馬鹿は此処にはいない。
けれども、問題は彼女が何処に現れるか。その後に何がやって来るのか、だ。
これが、隣の部署なら何でもない。彼らはたとえ壁一枚向こうに魔女が現れたと聞いても動かない。
何故なら、誰もが知っているから。彼女の関心は、常に現人神ハブを殺したソロモン王の末裔と、それと関係の深い者だけに注がれると知っているからだ。
普通の人間が、わざわざ
むしろ、ジンリーはあれで魔女でもあり、女神でもある。善悪の女神、もしくは契約の女神と謳われる
もしも外を散歩していて、泣く子を見つけ、それがハブともソロモンとも何の関わりも無い子供ならば、抱いてあやして、親元に届けてやるくらいの慈悲も、優しさも持ち合わせているのである。
――だからこそ、彼女は世界に淘汰されない。
世界は決して、ソロモン王の末裔を中心に回っているわけではないからだ。彼女は、悪の象徴ではない。世界征服がしたいわけではない。世界を八つ当たりで破壊しようなどとは思っていない。
ただ、ほんの少し、憎しみを忘れられないだけ――。
だが、そんなことは。ジンリーの敵意が無関係の人間に向けられることは無いということは、今この場では何の役にも立たないことだ。
普通の人間が、わざわざアリを踏み潰すためだけに、着替えをして、靴を履き、バッグを持って外出したりしないのと同じように。
普通の人間が、着替えをして、靴を履き、バッグを持って外出した結果――その靴裏で
彼女もまた、目的の余波で誰が何人死のうとも、それくらいの認識でしかない。
――ゆえに、巻き込まれた彼らは息を殺す。目を見開き、生きる道を探そうと躍起になる。
ああ、ここでもう一度、話を最初に戻してみよう。
けれど、きっとこの場にいる誰もが、今はそんなことなどどうでも良いと思っているに違いない。これを想うのは二度目になるが、これもお約束というやつだから、許してほしい。
――西
――東の獅子
――北を廻る
――南に沈む
それは、魂のカタチを定める法。
その在り方を、潜在的な魔力のカタチを表す
この世の誰もが、それらの魂のカタチを持って生まれ落ちる。それは世界の法ゆえに、生まれながらに根っからの、善や悪は存在しえない、
――わけではない。
この世界には、生まれながらの善は無くとも悪はある。それは、意図的に魂のカタチを歪められたもの。四つのどのカタチとも異なるそれは、外道の法によって作られた異形のものだ。
文字通り道を外れたそれは、生来の悪を抱いてこの世に生まれ落ちてくる。根っからの悪。人が定義するままの〝悪〟を抱いて生まれる者。他者への共感なく、情も無く、けれどそれは殺しを楽しむわけではない。
「んん……んぅ、死んでますかー? 大丈夫ですかー?」
彼らは〝悪〟を楽しむのだ。
「リトは不安ですー。魔術師を殺すのは初めてですから、心臓一つでどのくらい死んでいてくれるのかわかりませんー」
弾むような声だった。けれど、それとは裏腹に、その小さな顔に表情は無い。長い黒髪と身に纏う黒地に銀線の
「脈なし、息なし、痙攣はー……反射みたいなものですねー。安心しましたー、魔術師の死体は、動かなくなってからが勝負、って聞きますもんねー。震えている間は
濃い藍色の瞳を細め、女は声も無く震える死体に笑いかける。細い女だ。けれどその細腕は、成人男性を軽々と持ち上げて――いいや、吊り下げている、というのが正しいだろう。
そう、吊り下げている。まるで鋼のかぎ針が、枝肉を無造作に引っかけてぶらさげるように。背中から腕を突き入れ、心臓をぶち壊し、血塗れになった手のひらを何度も握っては開いて命の証を床に散らす。
白い床に赤が飛び散り、それを女の黒い靴が踏みにじった。その動きだけで、ぶらり、と死体の足が宙を泳ぎ、哀れな犠牲者――
どう見ても致命傷――どころか、即死だった。
恐怖と警戒に動けない所員達の前で、大切なイトコに走り寄る弥生の目の前で、藤堂睦月は背後からこの女に貫かれた。
細い指先の爪はそれなりに厚い筋肉をいくつも破り、心臓をズタズタにし、大胸筋をも貫いて役目を果たした。
睦月は即死し、弥生は目の前で飛び散る血液を浴びてぺたりと床に座り込んだままだ。
その状態で、そんな近くで――先程の女の行動が続けられていたことの意味を想像してみて欲しい。
目の前で親族の死体をぶら下げられ、弥生は女の手から
手にしていた得物はからりと床に落ちたまま、弥生の震える指先が無意識に、自身の手を汚す液体を確かめるようにすり合わされる。粘度の高い赤のそれはぬるりと滑り、そうしてようやく、弥生は喉がひきつるような音を立てて吐息した。
「初めて現実で血を浴びた気持ちはどうですかー? 箱入り娘の弥生さん。あ、魔法使いになりたいんですよねー? わかりますよー、リトも昔、憧れましたー。魔法って、綺麗ですもんねー。綺麗で、キラキラしてて、万能感がありそうでー」
酷く間延びした、その喋り方が、息の吐き方が、視線の動かし方があらゆる者の神経を逆撫でる。その手は未だに握っては開かれて、死者を――否、目の前の生者を侮辱するためだけに死者の血を振り撒き続ける。
「今日、お仕事行かれるんでしょう? リトは応援してますよっ、頑張ってくださいねっ、って思ってますよー。いいですよねー、誰に反対されようとも、目指した夢を貫く気高き少女。たとえどんな犠牲があろうとも、あなたは立ち止らない、そうですよね?」
うっとりとした声色でリトが言う。縦長の瞳孔がぎょろりと藍色の中を泳ぎ、視線は床に座り込んだまま動けない弥生をひたりと見下ろす。まるでその視線の中に、悪い魔法でも込められているかのような熱視線。
受け止めるのは、霞んで、今にも消え入りそうな緑の目だ。いつもならば燃え上がる燐のように輝く双眸は、血に曇ってしまったかのようにその光を失っていた。
彼女は魔法を扱うために勉強に勉強を重ねていたし、訓練の中では戦闘技術も学んでいた。
けれど現実で、本物の熱い血潮を浴びたことなど当然ない。不老不死に最も近い生き物である魔術師の睦月や、他の親族が死んだところも、見たことは無い。
だから、弥生はこう思っていた。睦月も、叔母さまも、叔父さまも、父も、母も――おじいさまも、おばあさまも。みんな弥生よりずっと強くて、敵なんて何処にもいないに違いないと。
震える唇に雫となった赤が伝い、血の気を失ったそれに偽りの赤みをさす。その液体が口に入り、鉄錆のようだ、と味覚が脳に伝えた瞬間、弥生は喘鳴のような声を上げた。
――……これは、なに? 睦月の血? 本当に? と。
そんな囁きが聞こえたのだろう。リトは心底嬉しそうに微笑んで、逃避に向かう弥生の心を、容赦なく現実に引きずり込む。
「ほら、どうぞ――あなたの家族ですー」
睦月の身体からずちゅりと腕を引き抜いて、リトはそんな言葉と共にそっと弥生の腕の中に睦月の死体を送り込む。その手つきはどこまでも優しく慈愛に溢れ、行いはどこまでも悪意に満ちる。
リトは優しいから、少しだけ貸してあげますね、と悪魔が言った。まるで、それはすでに自分のものだとでも言うかのように。
弥生はどう返していいのかすらわからない。迷子のような困り切った顔で、弥生は浅い呼吸を繰り返しながらぎゅっと腕の中の、睦月の胸に開いた穴を塞ごうとする。
すでに大半の血は流れ出し、リトという名の悪鬼によって弥生とその周囲へと振りかけられた後の傷には、塞いで防ぐべき出血などほとんどない。
そもそも、魔術師である睦月はこれくらいでは死にはしない。死ぬが、死なない。それが魔術師という生き物なのだから、放っておけば生き返るのだ。
心臓は再生され、血管は復元され、肉を模した因子が血を模した因子で満たされる。ただ少し、時間が必要なだけで。
けれども、必要のないことだからやらない、という選択肢は弥生には無かった。だって、当たり前だろう。家族の身体に穴が開いているのに、塞ごうとしない者などいるのだろうか?
「無駄ですよー? かなり念入りに穴を開けたんですから、後そう、15分はもどらないでしょう。リトも、やる時はやるのです」
けれど、そんな懸命の応急処置は他でもない、リトの手によってやんわりと止められる。返してくださいー、とリトが間延びした声で言えば、不思議なことに弥生はその要望に、反論すらせず従った。
弥生は胸に穴が開いた家族の死体を、その殺害者の腕に素直に手渡す。混沌世界であるソロモンであっても異常すぎる光景に、しかし、その場の誰もが動かなかった。
「皆さん、静かでリトは嬉しいです。邪魔もいないし、最高です」
誰も、誰もがその目を濁らせ、ぼんやりとその場に棒立ちになっていた。異常な光景も正常な思考の者が見ていなければ意味が無い。
彼らのうちの何人かは、リトの言葉に賛同するかのように頷いて見せるものまでいた。勿論、その目には知性も、意思も感じられない。
自分以外の意思ある者がいなくなったのを確認して、満足そうにリトは頷く。藍色の瞳はぎちりと歪み、笑みの形に歪んだ口が、じわりと黒い因子の煙に紛れる。
ぽろり、と。リトの頬から白い鱗が零れ落ちた。ぽろぽろ、ぽろぽろ、鱗は雪のように零れ落ち、代わりに唇の端から黒い因子の煙が漏れる。
煙は蒸気のように拡大し、リトの全身を包んでいく。そうしてその黒い煙がリトの全てを覆い尽し――ずるりと、巨大な頭がそこから這い出る。
そのなだらかな流線を描く頭だけでも、2メートルほどはあっただろうか。漆黒で出来た滑らかな陶器のような頭蓋の左右に、真ん丸な藍色の宝石をはめ込んだような双眸が収まっていた。
煌めく鱗を鳴らしながら、巨大な蛇は黒の煙から這い出して来る。ゆっくり、しかし確実に。巨大な黒蛇は、最後にずるりと音を立てるかのように尾を引きずり出し、そうしてようやくその全貌があらわになった。
全長何十メートルあるのかすらわからないほど巨大な蛇は、狭い室内を見渡して、二股の舌をチロチロと出し入れし――そしてその姿に似合わない、可愛らしい声でこう言った。
「それじゃー、みなさん――いただきます」
さらなる〝悪〟を楽しむために。
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