第百三十六話:白井狛乃が気にしていること

 


第百三十六話:白井狛乃が気にしていること




 六迷竜胆ろくめいりんどうという言葉がある。その方面に学が根差していなければ、耳慣れぬ言葉かもしれない。

 意味は至極簡単なようで、一言二言では語れないような面倒な感覚を表した言葉でもある。


 ず、そのの根幹は、竜胆なる花の、花言葉なるものに由来する。最も有名なのは「悲しんでいるあなたが好き」だろう。この言葉も、その意をんで作られた造語と言える。花言葉の語源ではなく、この熟語の語源としてだ。


 そうと聞くと、まず初めてそれを聞いた者などは、よくこう言ったものだった。「なんだ、それはなんとも嫌な奴ですね」と。悲しむあなたが好き、というのは、ふむ、確かに字面だけを見るに、実に身勝手でサディスティックというやつだろう。


 けれど、まあ古い言葉にはよくあることだが、当然、それがこの言葉の本意ではない。この四字からなる熟語が意味するのは、結論だけを言ってしまえば、「悲しみを知るあなたが好き」という、当時の男神、女神のたぐいと自分の恋人とを比べ、揶揄やゆするための言葉であった。


 揶揄だ、揶揄。わかるだろうか。のことだ。彼等は神等を敬いこそすれ、その共感性の無さを嫌がってもいたのだ。まあ、気持ちはわかるだろう。

 それだけ、人と神の距離が近かった時代だともいえる。嫌だと思うことを冗談として混ぜ返すくらいには、身近な存在だったということだ。


 さて問題はそこではなく、「六迷」なる、その言葉の字面を決めた裏側のエピソードでもない。なに、知りたいならいくらでも書物をひっくり返せばいい。分厚くも無いが、そう薄くも無い物語が語源の言葉だ。まあ、昼に始めて月を見るまでの間くらいの暇は潰せる。


 発するは古く、遥か諸暦の頃に定着したもの。誰がそれを言い出したのかは誰も知らず、けれど辞書に刻まれた歴史は古い。


 そんな骨董の話を何故持ち出したかと言えば、それはひとえに君の無尽蔵に見える知識欲に答えようという、ちゃちな似非教師心と、後は人外なら知るかもしれない、それの解決手段を――「悲しみを知る」ことを求めてのものともいえる。



 さて、そこでだ。君――ブランといったかな? ブランは、その方法に当てはあるだろうか?



 するりと、大きな手がコップを撫でて、そこに浮かぶ結露を指先で払いながら狛乃は言った。


 透明な雫は払われるままに宙を跳び、ブランの目には、そのまま無様に安っぽいテーブルに落ちるかと思われたが、雫は着地、というものを体験することなくジュッと音を立てて蒸発する。


 細い瞳孔、赤い瞳。ブランの目は大きく開かれ、たった今目にした現象に答えを求めて狛乃を見る。狛乃はその視線を少しだけ面白がるように目を細め、ああ、とはっきりと音を発しながら、立ててみせた指先にボッと小さな火をともした。


「無精だけど、拭くのは面倒だから」


 何てことないかのように狛乃は言い、ブランはその様子にますます小さな眉を潜めた。話に聞いていた人物像とは、いやに違う。違う、というより、話をまた聞きしただけのブランにとっても、聞いた狛乃と目の前の狛乃では、雲泥の違いがあるように思われた。


 ブランは、はい、と言ってから、二の句を探して視線を彷徨さまよわせる。部屋の中は殺風景で、客間だと言って通された空間は、他の部屋よりもなおさら生活感の無さで冷え切っていた。


 埃こそ被っていないが、それは目の前の、この神とも人とも呼べない人物が、これはいけない、と独りちながらゴミのたぐいをパッと瞬く間に燃やしてしまったからだ。


 狛乃がVRからログアウトした、と察知し、ブランに家を訪ねるように促したのは琥珀だった。


 けれど、本当に見ず知らずの少年を、しかも変装も何もしていない状態の自分を、そのまま家に上げる者がどこにいるのだ、と文句を言いながら玄関の前に立ち、チャイムに指を伸ばしただけでがちゃりとその家の扉が開いたのには、ブランも驚いたものだった。


 誰か来たと思えば、誰だい? と穏やかな声で聞かれ、口ごもるのも数秒。狛乃はすぐさまブランの赤い瞳に気が付いて、人ではないな、と独りちてから、さっと手招きして少年を家の中に入れてしまった。


 それからはあれよあれよと客間に通され、狛乃曰く今ところで悪いが、というテーブルと椅子を勧められ、氷の入った水出しの茶を出され、そうして狛乃の短いようで長い、長いようで短い話の結論として、上記の質問を投げかけられた。


「ということは――あなたは、自分が普段と違うということを、自覚しているんですか?」


 それを時間をかけて噛み砕き、ようやく狛乃の真意を理解したブランは、そこで初めて目を見開いて、小さく疑うようにそう口にする。


「自分としては違うとは思わない。自分は自分だ。何一つ欠けたものは――記憶に関しては無い」


 そうは言うが、欠けたものがあるか? と聞かれれば、狛乃はあると答えるだろう。今や、狛乃の内に「悲しみ」も「恐怖」も無い。六迷に数えられるものの内、2つを欠いては人らしからぬと言われるのも無理はない。


 けれど、と狛乃は目を伏せる。その深い茶の瞳には、悲しみは無くとも憂いがあった。


「だけど、友人達が言うんだ。〝それは好きじゃない〟と」


 だから、人外なら元に戻す方法を知るかもしれない、と思い立ってブランを入れたと狛乃は言う。当人にとっては何ら変わりの無い状態だと思われるが、友人を怖がらせたり、不安にさせたりするのは本意ではないとも、狛乃は言った。


「ところで、何か用があったのかな?」


 そういえば、と狛乃は首を傾げ、ブランはそれにハッとする。少年は探るように狛乃を見て、あの、その、さっきみたいな言い方をするということは、自覚は、その……と、まごまごと両の指を突き合わせると、狛乃はああ、と何でもないような声を出した。


「もしかして、自分の古い知り合いかな? 亜神だと言われたことは知っているよ。叔父がね……ああ、そういえば叔父の顔は思い出せないな。まあいい、叔父がいるんだけどね、その人が言っていたからね」


 どの神とは言わないが、それを人に言ってはいけないよ、と。そう叔父に言われたと言う狛乃は、自分のコップをひょいと傾け、からからと氷を鳴らしながら水出しの茶を喉に流し込む。


「誰にも、とは言ったけれど、でも君からは敵意を感じないから言うんだけどね。でも悪いね。知り合いだとしても、こちらも記憶が悪くて……亜神云々もついさっきなんだ、思い出したのは。それで、少しレジナルドに連絡を取ろうと――」


「ッ、ダメです!」


 傾けたコップがぴたりと止まり、狛乃が不思議そうにブランを見下ろした。ハッとして青褪める少年を見て、ふらりと立ち上がった狛乃はどうどう、と少年の近くまでいってその背を叩く。


 ぽつぽつ、と少年の周りにオレンジ色の柔らかな炎がベールのように浮かび上がり、青褪めるブランをじんわりとした熱で温める。それは不可思議にも空気を燃やすこともなく、炎特有の恐ろしさというものを欠片も持っていなかった。


 ブランはそっと顔を上げる。見上げる狛乃の頬に火傷は無く、その目には盲目者用のゴーグルも無い。喉からは常人のように落ち着いた声色の音を吐き出し、狛乃は穏やかな態度でブランの背を撫でる。


「……声……どうして出るんですか? 目も見えるんですよね? 頬に火傷も無い……」


 考え方の違い、だと琥珀は言った。これはただの割合の問題だとも。けれどブランにはそうは思えない。考え方1つで、こうまで態度が変わるものか?


「本当に……ッ、あなたはあなたですか……!?」


 本当に、現人神ハブの人格は存在しないのか。しないとしても、神としての人格が別にあるのではないか。目の前にいるこの人は――本当にレジナルドが慈しむ人なのか。

 そんな考えに支配され、ブランは悲鳴のような声を出す。


 目を丸くする狛乃は、絞り出すようなブランの問いに――



「〝自分〟は自分だ。君だって、そうだろう」



 ――いつかどこかで聞いたような、そんな返事をしたのだった。



































 信念は変わらない、と彼は言った。


 大事なものも変わらない、と。


 そこにハブとの違いがある、とも彼は言った。


 現人神ハブには、信念など無かったからと。








「……その、色々と、ごめんなさい」


「良いんだよ。ブラン、ほら砂糖入りのミルクだ。林檎もあるよ」


 不安に駆られ、叫ぶように問いを投げたブランに対し、狛乃は穏やかに答えを返した。そしてそのままブランを宥め、事情を聞き、それから少し待っておいで、と言って台所から戻って来た狛乃は、その手に白いマグカップと、不格好に切られた林檎を乗せた皿を持っていた。


 ブランの目の前にそれを置き、随分と失礼なことを言ったと涙目でうつむく少年の肩を叩く。


「不安に思うのも仕方が無いよ。ギリーだって、ああ、知っているんだよね?」


「あ、はい。その……失礼ながら、大体の事情は知ってます」


「ギリーだって、かなり怯えていたからね。でも、そんなに変わったかな?」


 間違いなく自分なんだけどなぁ、と首を傾げる狛乃に、ブランは困ったように眉を下げる。狛乃は少し考えてから、もしかしたら、一息に老いるようなものなのかもね、と静かに言った。


 若かりし頃の自分を他人事のように語ることがあるだろう、あの頃の自分は――ってやつだ。感覚的にはそれに近い、まぎれもなく自分自身だが、けれど過去の自分の行動を不思議に思うこともある。


「老いるような……あの、口調も随分と違うように思うんですけど、戻せないんですか?」


「戻す方法を一緒に考えてほしいんだ。協力してくれるんだろう?」


 ブランの事情をすっかり聞き出した狛乃は、自分もブランの向かいに座りながらそう言った。ブランがレジナルドの生徒だということ。トルカナの息子だということ。魔女の企みを知って、見過ごせないと思ったこと。


 何から何まで話したが、狛乃はそれに何一つ驚くことなく受け入れた。その時点でおかしい、とブランは思ったが、本人曰く、一気に年をとったようなもので別人ではないという。


 そう言われてしまえばそんなような気もするが、伝え聞いたものや、琥珀に映像で見せてもらった普段の様子を見るに、どれだけ年月を重ねればここまで落ち着くのだろう、ともブランは思う。


 それって数千年単位じゃないか? と唇を噛むブランだが、狛乃は気楽なもので林檎を丸かじりしながら、ふんふんと鼻歌さえ歌っている。本人の言う通り、自分の置かれている状況に不愉快さや怒りはあれど、恐怖というものがまるで無いのだ。


 ブランが見るに、目立った感情表現は「愉快、不愉快、親愛、怒り」程度。ほぼ常時機嫌が良く、冷静で、よく物事を理解している。不安や恐怖が無く、狛乃曰くだから声も出るし目も見えるんじゃないかな? と気楽なものだ。


 原因究明に対し、消極的ではないが積極的でもない。思い出す必要はあると考えてはいるようだが、そのために慌てることはない。

 レジナルドには頼れないから自分が来たのだと言うブランを信じ、狛乃は、じゃあどうしようかな、と呑気に構えているばかりだ。


「多分ね、亜神としての考え方、だっけ? そっちが強く出ているだけなんだと思うんだよね。まあ、人としてのほう――普段通りが長かったわけだし、そっちのほうが良いんだろうけど」


 戻せ、と言われても若返れ、と言われているような感じだからなぁ、と言い、狛乃はまた1つひょいと林檎を噛み砕く。水分の少なそうなそれをよく噛まないまま飲み下し、そういえば、と口を開いた。


「なんですか?」


「記憶にあるよ。ビールを飲んで、酔っていた時が今の状態に近かった。良い気分で、特別恐怖も薄くて、此処までではなかったけど、素面なら恐れ戦くレジナルドと愉快にメールのやり取りが出来たくらいには」


「……」


 ぽかん、としたままそれの意味を反芻していたブランだが、すぐにそれの本当の意味に思い至った。がたがたと慌てて椅子から立ち上がり、その時に! と声を張り上げる。


「酔いが醒める瞬間はありませんでしたか? 何かこう、水を飲むとか、特定の話を聞くとか!」


 亜神の状態が酔いによっても引き起こされるというならば、それはつまり、人としての――正確に言えば魔術師としての魂が、身の危険を感じたからそうなったのだとブランは思ったのだ。


 過去に受けた授業の中で、ブランは魔術師についてそう習った。魔術師の魂は、時に酒を毒と判ずる。そのため、酒を飲んで酔っ払うと、稀に幾人かの魔術師は自己防衛のために無意識下で魔術を発動することがあると。


 授業ではだから魔術師には酒を飲ませるな、と習ったが、ブランはそこから狛乃の今の状態も、危機的状況にあったのが原因ではないかと結びつけた。


 仮想世界でのこととはいえ、本気になっていた狛乃にとって、億を超える賞金がかかり、次々と自身を狙う敵が湧いてくるような状態は、危機的状況だったのではないかと。


 通常の魔術師なら魔術を発動するだけで済むことが、狛乃の場合はもっと適任のものがあった。魔術師の魂の内側には、状況判断に優れ、恐れを知らず、何よりも格が違う亜神の魂がある。


 自分の身を守るために、より適任だと思われる状態に切り替わることは魂にとっては当たり前のことだ。だからこそ、狛乃の状態が亜神としてのものに切り替わり、今もまだ戻っていないのではないか、と言うブランに、狛乃はそうか、と他人事のように頷いた。


「酔いが醒める、ねぇ。そんなことあったかな? んー……」


 狛乃はやはり他人事のように首を捻り、どうだったかなぁ、と口にする。けれど、……ダメか、とブランが赤い瞳に落胆を滲ませた瞬間、まるでさっと絵筆で撫でたように、その左頬に赤い色が浮かぶのをブランは見た。


「……き……い」


 その頬の色はだんだんと濃くなっていき、茶色の瞳は不安と焦りに色を濃くする。その喉から出る声は掠れていき――、



「……電気代が」



 ――そんな一言を最後に声は失せ、そして頬にはくっきりとした三角形の火傷の痕。ブランを取り巻いていた柔らかな熱を発する炎のベールはほどけるように消え失せて、その瞳の焦点はどんどんぼやけて、ブランから視線が逸れていく。


「……」


 見る見るうちにその顔には青みが差し、血の気が引く音が聞こえてくるかのようだった。見えていないのか、その手が震えながら動いてテーブルの上のコップを倒す。慌てたように立ち上がろうとするその足が椅子に絡んで、ブランが、あ! と叫んだ瞬間、



「ちょっ――狛乃さん!」



 何がどうなったのかは語るまい。




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