第百三十二話:歩き始めの道

 


第百三十二話:歩き始めの道




「――琥珀さん! 琥珀さんッ!」


 月が空を上がり始める頃。夜が始まり、世界が少しだけ普段と違うことを許す時間。少年らしい細い声が、押し殺した焦りと不安を滲ませてその名を呼んだ。


 すると、不思議な現象が起きる。立ちすくむ少年の眼前でふわりと風が吹いたかと思えば、次の瞬間にはそこには男が立っている。


 高そうな仕立てのスーツ、光沢のあるネクタイに、純白のワイシャツが照明に照り光った。スーツと同色の濃紺の山高帽をするりと押さえながら、全世界で掛け値なしに最も美しい肉体を持った存在が微笑みと共に登場する。


 琥珀の名を持つホムンクルス――情報屋も営む彼は、見知った相手が自身の名を呼べば、大抵の場合ならすぐさま現れる。


 今日もまた、息子の友人でもあり、家族ぐるみでもそれなりの付き合いのある家の子供に呼ばれ、ちょっと散歩にでも出かけるような気軽さで現れたという所だった。


 いつも通りに無駄に自信ありげに、それでいて何故か自慢げにブランを見おろした男は、少年の表情を見て目を丸くする。


「はいはい、ブラン。どうしま……なにをそんなに泣きそうな顔をしているんですか!」


 誰にいじめられました? 僕に言ってごらんなさい、今すぐノルド海あたりに漬け込んできてあげますから! と早口で言う琥珀に向かって、彼を呼び出した少年――ブランは、震える息を吐きながら、違うんです、としっかりと首を横に振る。


「じゃあ何か怒られるようなことでも――」


「違うんです、あの!」


 聞いてほしいことと、手伝ってほしいことがあるんです、と。ゆっくりと、しかし震えながら言うブランを見おろして、琥珀はきょとりと首を傾げた。


「――話を聞きましょう」


 ブランの様子を見てただ事ではないことを察した琥珀は、そう囁いて指パッチンと共に空気を圧縮して結界を張る。誰にも聞かれないように。誰にも踏み込まれないように。

 そうしてから彼はブランに、そっと事情を話すように促した。


「あの、他の人には、その……」


「勿論、他所には喋りませんよ」


 情報屋の真似事を初めてもうかなり経ちますからね、と琥珀は言い、ブランは蒼白な顔で黙り込んでから、思い切ったようにばっとうつむいていた顔を上げて話し出す。


 少年はたどたどしくも全てを語る。この家の地下に、男神ハブの肖像画があること。それを許可をもらって見たこと。その後、勉強に戻ったらレジナルドが持っていた写真を落としたこと。自分はそれを拾い上げ、そしてそこに――、


「――ぼ、僕が、僕がなんとかしなくちゃ、と思ったんです」


 僕がなんとかしなければ、と思ったと。


「――れ、レジナルド先生のことは兄みたいに思っているし、た、多分、現人神ハブの復活は良くないことだし。その人は多分、レジナルド先生の大切な人でッ」


 どうにかしなければならない、と思ったと。


「――で、でも僕、僕は何にも。何にも知らないし、出来ないし。そんな、でも誰にも言えなくてッ……誰にも言っちゃいけないことだってのはわかってて……ッ!」


 ……それでも、ブランには見て見ぬふりは出来なかった。ロンダルシアの家に生まれ、今日まで育てられてきたその全てが、このまま目を瞑ることを良しとはしなかったからだ。


 涙の浮かんだ目で知ってしまった事の重大さに押しつぶされそうになりながら、少年はそう叫ぶ。


「僕――僕は、貴方に話すのが最善だと考えたんです!」


 考えた。考えに考えた。あの後すぐに、体調が悪いからとレジナルドには帰ってもらい、心配する父親を振り切って、この隠し部屋に転がり込んで考えた。


 どうすればいいのか。どうすれば問題が解決できるのか。今まで、数えきれないほど解いてきた問題とは違い、答えはちっとも浮かんでこなかったけれど。


 ブランは考えた。レジナルドに教わった通りに、考えて答えを出したのだ。けれど、けれども――、


「それで?」


「――え?」


「僕に話すのが最善だとして、あなたは僕に何を望んでいるんですか?」


 けれどそんなブランの考えは、出した答えは、希望を求めて呼んだ男に真正面から否定される。


 ブランはひくり、と息を吸う。


 背にじっとりと脂汗をかきながら、ブランは悲鳴の代わりに喉を鳴らしてしゃくりあげた。


 ブランの目に映るのは、もはや陽気な男ではなかった。父親でもなく、夫でもなく、友人としての顔でもない。そこにあるのは、何の覚悟も無く何とか出来そうな人に問題を投げつけてしまった少年に、その浅はかさを突き付ける男の顔だ。


 鈍い金色の髪がさらりと揺れて、元は大きいとび色の瞳はすぅと意図的に細められる。

 頭の先からつま先まで、一寸の狂いもない彫像のような美しさを誇って、その男はひたりとブランを断罪するように見下ろした。


「最善だと思ったから僕に話した。それはよろしい、まあいいでしょう」


 けれどそれで? あなたはそれを僕に話し、何をしようと思ったんですか?


「……僕、僕は」


 問われ、ブランは口を噤む。


 何をしようと思った? そんな答えは簡単だ。抱え込んでおきたくない問題を、解決出来そうな人に投げつけたかった。きっと、話せばわかってくれるだろう。勝手に解決してくれるだろうと思ったのだ。


 重荷は全部投げ出して、そして問題も解決できる。ブランはただ話すだけで、頼み込む必要さえも無くて。レジナルドの大切な人を守れて、もしかしたらいつかそれを誇れるかもしれない、なんて――、


「僕は……ッ」


 そんな希望を抱いて、軽々しくその名を呼んだ。


 そうすれば自分は何をする必要もないだろうと考えて、ブランは琥珀の名を呼んだ。けれど、琥珀はブランにこう言うのだ。


 ――僕が何をしてくれると思ったんですか? と。


「琥珀さんが……何とかしてくれると思って……!」


 弱々しくも、勇気を振り絞ってブランは問いに正直に答えて見せた。何とかしてくれると思ったから名前を呼んだ。自分には何も出来ないから、どうにか出来そうな人を呼びだした。なのに、琥珀は何をしてくれる様子でもなく冷たい口調でブランに言う。


「そんなことは忘れてしまいなさい」


「……ッ」


「兄と慕っても所詮は他人。しかもその大切な人とくれば、もっと縁遠い他人のはずです。あなたが何を思う必要も無い」


「――でも」


「でも?」


 でも……、と弱々しく言うブランを見下ろし、琥珀はじっと二の句を待つ。ブランは震え、うつむき、けれどすぐさま顔を上げた。


「でも、知ったことを知らなかったことには出来ません! レジナルド先生の立場じゃ魔女相手にも、総会でも多くは出来ない!」


 レジナルドの立場を、ブランはよく知っている。人と、妖精の間の子。ソロモン王に蓋然性禁忌がいぜんせいきんきとされた結果に生まれた彼は、常にギリギリな立場で生きている。


 実の父親にもうとまれ、妖精の母には興味も持たれず。けれど、両者の勝手で産まれた子供。偶然にも父親の家系の遺伝が実り、〝爆発物キメラ〟となる運命から逃れた不死鳥の子は、自らの実力だけで今の地位まで這い上がった。


 けれど、後ろ盾の少ない彼の立場は非常に不安定で、総会では未だにレジナルドを禁忌そのものだと忌み嫌う声も少なくない。そんな彼が、大切に思う者を魔女の手からも、総会の弾劾からも守ろうとするのは自殺行為に等しい愚行だ。


「けれど、琥珀さんならどうにか出来る。どこの派閥にも属さず、何ものにも縛られない貴方なら!」


「その条件なら、ブラン、あなたも同じでしょう?」


「――え?」


 不意をつかれてブランはびたりと動きを止めた。自分が、琥珀と同じ? 何を言っているのだろうと思う前に、琥珀はにっこりと微笑んでみせる。


「ブラン、あなたも僕と同じですよ? 総会に席を持たず、子供であるが故に家名に及ぶせきも無い。当然、派閥など関係なく、あなたは何にも縛られない」


「で、でも僕はあの写真の人のことを何一つ知りません!」


「知りたければ僕が教えてあげましょう」


「ッ……状況もはっきりとはわからない!」


「何、そのうちわかりますよ」


「何をすればいいかも、僕にはわからないんですよ!?」


「それは全てを知った後に、ゆっくり考えればいいことでしょう」


 逃げる理由をはしから潰されて、ブランは息を詰まらせる。そこまで言われて、察せない者もいないだろう。


 琥珀はブランが行動するなら手を貸すが、ブランが何もしないというのなら、今日のことは聞かなかったことにすると言っているのだ。


 知識は与えよう、手も貸そう。けれども、お前が放り投げた問題を解決してやることはない、と。


「――」


 ブランはふと思い出す。魂を持つといえども、彼もまたホムンクルスであるということを。


ホムンクルスとは、賢者の名だ。全てを知るもの。作り出された時までの、世界の記憶を保有するもの。


彼等は世界から知識を得るために、錬金術師が作り出した端末のようなものだ。問われなければ、彼等は何も答えない。


そう、誰にも問われなければ。


「さて、ブラン。あなたは、僕に何をしてほしいんですか?」


 ブランはきっと顔を上げる。しゃくりあげそうになるのをこらえ、唇を引き結び、騎士のようにしゃんと立つ。それから、目一杯に息を吸い込み、辿り着いた答えを口にする。


「僕に全てを教えてください!」


 そう言い切ったブランの視線の先で、男の右手が閃いた。それはまるで指揮者のように振りかぶられ――、



「――よく出来ました!」



 ――高らかに指を鳴らして見せた。




































「もう大丈夫? もう元気? そっか、よかった! お兄ちゃん、ふーちゃんもう大丈夫だって!」


「よかったな……」


 空には横倒しの三日月が浮かび、月下をグレーの車が走る。運転席に座って車を運転しながら、雪花は微妙な表情で嬉しそうな妹にそう返す。


 バックミラーには後部座席に座る妹の姿。その腕の中には、オスの成猫よりもいくばくか大きい灰色の猫。その毛皮には黒い鱗のような模様が浮かび、同色の瞳はまるで爬虫類のように縦に鋭く割れていた。


 竜種の血が混じる竜混じりと呼ばれるその存在は、全世界、どこでもみかけられる存在だった。猫だけではなく、そのほかの動物でも。珍しいといえば珍しいが、幻と呼ぶほどではない程度には見つかるもの。


 けれどそれらは通報義務を有する特定指定生物であり、保護したら国に連絡。獣医に連れて行けばすぐさま関係各所に連絡が行き、罰せられることこそないものの取り上げられることとなる。


 周は知らなかったが、雪花はそのことをよく知っていた。そして、竜種混じりと呼ばれる彼等が、その見かけよりもずっと賢いこともよく知っている。


 だからこそ、ふーちゃん、と妹に呼びかけられる度に、律儀にこくこくと頷く灰色の猫の心境を思い、雪花はどうにも覇気がない返事を繰り返していた。


 オス、しかも老成した人間以上の知恵を持つこともある竜猫りゅうねこに向かって〝ふーちゃん〟は辛いだろう、と思えば雪花が猫に向ける視線も生ぬるくなるというものだ。


「ふーちゃん、今日からうちの家族だからね!」


「なーう」


 けれども、猫――もとい、今日付けで夕苑ゆうぞの家のふーちゃんとなった彼は、周に対してはそれなりの敬意と感謝を抱いているらしい。名前に文句も言わず、構いたがりな妹の可愛がり攻撃も大人しく受け入れている様子は、達観しているのかそんなに気にしていないのかがわからない――、


「……」


 と、雪花が思ったのは束の間。バックミラー越しに雪花の視線とかち合った灰色の瞳に深い哀愁と諦めを見て、雪花はご愁傷様、と思い直す。


「普通の猫に見えるように色々とやってもらったから大丈夫だけど、獣医にだけは連れて行かないようにな」


「わかってる! ふーちゃん、毎日の散歩が必要なんだってね? 周と一緒にお散歩行こうね?」


「……なーう」


 妹の浮かれきった声を聞くのはいつぶりだろう、と雪花は思いながらハンドルを切る。見た目には似合わない繊細な運転は揺れも少なく、妹の周がどれだけ下を向いてふーちゃんを構っていようとも酔うことはないだろう。


 まっすぐに家に向かう先、暗い夜空に横倒しの三日月が正面に来た。東の空にそれは低く、やけに濃い黄色が不吉さを思わせる。


 雪花はいつも、色の濃い月は嫌いだった。濃ければ濃いほど、厄介なことが起こるという今までの実体験が雪花の目をすぅと細める。


「……やな感じ」


 思ったよりも早く終わった取引と治療の結果に文句は無いが、雪花は言い知れぬ予感に唇を噛んだ。けれどすぐに気を取り直し、思ったより時間もあるし、帰ったら再ログインでもしようかなと考える。


(そういえば、生放送やるってメール来てたっけ……)


 とぶさから〝ホール〟へ送られたメールは簡潔な内容だった。家を出る前に読んだそのメールには、狛犬と弥生と月影の3人でフローレンス討伐に行くから、その様子を生放送で公開すると書いてあったな、と雪花はふと思い出す。


「周ー、もう終わってるかもしれないけど、ボスのボス戦見るか?」


「やった、見る!」


 語呂が悪いのか良いのかわかんねぇな、と思いながらも。年齢制限もまあ周くらいの歳なら別にいいだろ、と雪花は車に備え付けのテレビを起動する。


 後部座席に座る者だけが見られるようになっているそれが動く音がして、周がきゃあきゃあとはしゃぎながら備え付けのヘッドフォンを手に取る音も響く。


【DDD支部局】に繋ぎ、【ぐらてれ】へとチャンネルを合わせ……そしてすぐに周の声がぴたりと止んだ。


「……?」


 不思議に思った雪花がバックミラーで確認した周とふーちゃんは、どちらもひたりとその大きな目を見開いて、画面をじいっと注視していた。


 ああ、ボス戦続いてんなら迫力もあるだろうし集中して見てんのかな? と雪花は思い、画面を見ていない彼はすっと視線と集中を運転のために前方に戻し――、


「……なーう」


 唐突に車内に響いた声にぎくりと肩を震わせた。


「なーう、なーう! なーう、なーう、なーう!!」


「お……お兄ちゃん、お兄ちゃんなんか、ちょっと止まってこっち来て!」


 ふーちゃんによる焦りと警告を含んだ野太い鳴き声と、妹の無茶な発言に雪花はええ? と眉を寄せる。


「ちょっ、今は無理だ、停めるとこ無いし――ふーちゃん、うるさっ!」


「なーう! なーう! なーう!」


 知能はあれども人語は話せず。その舌の構造から無理なのだろうと言われる彼等は、人語を理解しても喋れない。けれどその声に込められた警告の色は何よりはっきりしていて、何より周さえもがじゃあ停められる場所か家に急げ、と言う。


「なんだ、何があった!」


 大音量の竜猫の鳴き声が響く車内で雪花が声を張り上げれば、周がそれに応えるように無言でヘッドフォンの接続端子を引っこ抜いた。


 途端、猫は泣き止み、その音声は車内に響き渡る。


「何が……」



『――狂乱の狛犬! 理性など無いかのように血塗れのまま戦い続けています!』



「……は?」



『――これぞまさに〝狂犬〟と呼ぶにふさわしいのでしょう! 制止するユニコーンを切り伏せ、笑いながら獲物を追う悪鬼の姿に、周辺のプレイヤーは避難を余儀なくされています!』



「制止するユニコーン……もっさんのことか!?」



 思わずアクセルを踏む足が緩みかけ、雪花は慌てて適正スピードを保つようにペダルを緩やかに踏み込んだ。そのまま深呼吸を繰り返し、雪花は驚愕の表情のまま、状況を把握しようと聞き慣れた声に耳を澄ませる。



『現在、狛犬は適応称号スキルを発動し、レベックと『銀鱗刀雷丸ぎんりんとうらいまる』』という名のあるモンスターと戦っています! 全身の赤が紋様の赤なのか、血の赤なのかすでに判別がつきません!』



「……嘘だろおい、ボスなにやってんの?」


 オーバー大樹海地帯でフローレンス戦のはずでしょう? え、とっくに終わってしかも樹海は大炎上? ロメオの部隊は壊滅でその他も被害者多数? と、朶のわかりやすい実況で状況をしっかりと把握した雪花は、運転を続けながらも呆然と呟いた。


「マジでボスはなにして……ッ周! ボスの手になんか赤い鱗の爪みたいな装備ある!?」


「あるよ! すごいのが!」


「ああっ……大体わかった! 少し揺れるから掴まってろ!」


 今まで制限速度+α弱を守って運転していた雪花がアクセルをわずかに踏み込み、制限速度+α強の速度で車体を走らせる。当然、今までよりも車内は揺れるが、周は気にせず画面を注視しようとし、すぐさま頬を膨らませることとなった。


「お兄ちゃん、切らないでよ! 今、レベックさん倒されていいところだったのに!」


「ダメです、子供があんなスプラッタ見ちゃいけません! ていうかレベック倒したのかよ、ボスモンスター付きで!」


 文句を言う周に向かって、ああなったボスの戦闘はR25だから! と叫び返し、雪花はああ、と呻くように嘆きを口にする。


「だから俺がいない時はあの武器使わないようにって言っといたのに!」


 言わんこっちゃないという、悲鳴交じりの文句を吐いて、雪花は急ぎの家路についた。



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