第七十一話:竜の卵を手にする者


第七十一話:竜の卵を手にする者




「――計、500発」


 【魔弾使用可能者】のスキルを取得するのに必要だった弾丸の、おおよその数である。500発も無駄撃ちすれば、馬鹿にならない金が吹っ飛ぶ。財布にはまだ余裕はあるが、楽観視はできない出費だ。

鍛えた筋力値が悲鳴を上げるほどの射撃を強要された腕は、じん、と仮想世界であるのに妙に現実的に痺れていた。途中から何も考えずにひたすら装填、発射を繰り返していた脳も、痺れて鈍くなっている気がする。


「金がばっさばっさと……」


 ベルを鳴らし、統括ギルドの受付まで戻った自分は、待機していたギリーにもふりと顔を埋める。疲れた、というのは簡単だが、まだまだやることは残っている。

 弾丸の残量は持ってきた量の半分。1000発は用意したものの、弾薬だけでおよそ10万フィート以上の出費。PKプレイヤー狩りをして稼いでいなかったら、払いきれないほどの恐ろしい値段だ。

 アビリティ掲示板で、銃や弓系のアビリティは、初期の頃は資金が持たないと言われていたのも納得できる。確かにこれでは、普通にクリーンにプレイしている内は、支出と収入が全く噛み合わないだろう。


「やっぱ、これからもPKプレイヤー狩りがメインか……」


 PKKと言えば聞こえは良いが、自分はルーさんと違い、討伐して得た金銭やアイテムを被害者に返還するわけではない。

 いってしまえば、鬼の上前うわまえをはねる奴。悪どい連中から更に金をかすめている以上、綺麗なものではないだろう。


「次は卵か、卵ねぇ……」


 これがまた、魔力をぐいぐいと呑み込んでくれる底なし沼。しかもそれが2つ。拾ってきた自分も悪いが、半分はどっかの馬鹿な蜥蜴とかげが悪いと思いたい。

 ロッカーの前に立ち、掌から魔力認証。間違いなく本人であることをシステムが保障して、ようやく目の前に銀色の引き出しが現れる。


 見た目には見分けがつかない卵だが、触れればその存在を間違えることは無い。竜脈で得た卵は魔力を与えるごとに抑えきれない熱を帯びていく。灼熱を思わせるほどではないが、熱めの風呂くらいの温度はあった。

 熱い方の卵を丁寧に取り出して、手近なテーブルに陣取った。辺りの警戒はギリーが担当し、自分は卵に魔力を注ぐことに集中する。


「……そろそろ孵らないかな」


 ここ数日で、PKプレイヤー狩りをしながら魔術を連発し、かなり熟練度も魔力も上げたつもりだが、それでもまだ足りないと言わんばかりに自分の赤い魔力を呑み込んでいく竜の卵。

 火の魔術を使えば使うほど、他の魔術を使わなければ使わないほど、自分の魔力は灼熱の色を帯びていった。今や深紅に近いその色は、変換前であるにも関わらず、火の魔術と同じようなものに見える。


 統括ギルド曰く、プレイヤーが何を好むかによって、正に十人十色となる元の魔力の因子の色。自分のそれは火のように赤く、鮮烈な色に染まっていた。それによって得られる恩恵は、火の系統の魔術の威力増加。そして失われる力は、水の魔術の威力だ。

 僅かではあるものの、自分の魔力はだんだんとそんな性質を色濃くしているらしい。逆に雪花は、水の魔術が得意であるらしいが。


 アルカリ洞窟群で精霊に貰った、美しいビー玉のようなそれは、その本人の魔力の中で最も色濃い性質を反映するものを貰えるらしい。

 自分は炎、雪花は水、弥生ちゃんは魔法系ではないものの、素の状態で雷に親和性があるのだろう。貴重なアイテムだが、使い方には少し癖がある。今ではNPCの職人に頼み加工され、腰の飾り紐として装備している。


 勿論、ただ身に着けているだけで効果があるわけではないが、見た目も綺麗だし使い道もちゃんとある。運が良かったとか色々と考え事をしながらも、ようやく卵が放出した魔力を呑み込まなくなる。


「ふー……さて、行くよ。ギリー」


 卵を持ち運ぶための袋に入れ、しっかりと腕に紐を絡めて抱え込む。リュックサックに入れておくと、ナイフで切り裂き、リュックごと持ち去ろうとする輩がいることからの防止策だ。

 抱えていても持ち去ろうとする輩はいるが、例外なくギリーによってねじ伏せられる。一週間ほど前には、ステータスが低すぎて暴漢に怯えていた自分も、今では他のプレイヤーに恥じないステータスを誇っていた。

 そう高くもないが、普通に低くもない程度を保っている。そして、「あんぐら」ではその程度のステータスの差は、明確な差として表に出ない。


『主、警戒を』


「はいよ」


 卵をしっかりと抱えたまま、約束の店に向かう。未だりずに竜の卵を狙うやからは多く、狩りをしながらステータス上げにいそしんだのも、プレイヤースキル向上に努めたのも、そのためだった。


「まったく、きりがない」


『竜の卵だ。それだけの価値がある』


「そりゃあ、絶滅した竜を再現してるって話だし、誰だって喉から手が出るほど欲しいだろう」


 掲示板では既に、自分が2つも竜の卵を手に入れたことが出回っており、直接堂々と、どうやって手に入れたのかを聞きに来た者もいた。

 しかし、目の前の威圧的なプレイヤーよりも、陸鰐や砂竜モドキの方が怖いし、ケット・シーも見た目の割に恐ろしい。当然、竜脈の話も伏せ、運よく竜に出会って卵を押し付けられればいいという説明だけをすれば、おちょくっているのかと怒る者もいて大変だった。


 ヴォルフさんに紹介された店は、10番通りの南西にある。統括ギルドからは少し距離があり、しかもイモ洗いとは言わないが普段より人が多い大通りは安全面で問題がある。

 仕方なくギリーの背に乗り、片手で手綱を捌く。本気で走ってモンスターの速度に追いつこうとする者もいないのか、予定より早めに店に到着した。


「ごめんくださーい」


 ガラスがはめ込まれた扉を開けば、消毒液の独特な臭いがした。古風な家具や、地球儀、夜空を模した壁紙、モンスターの骨格標本。それらが点在する部屋の奥からは、初老の男性が緩やかに手を振ってくる。


「おお、こっちだ。竜の卵だって?」


「はい、アルトマンさん……ですよね?」


「いかにも。〝獣医アルトマン〟だ――よろしく」


 白い口髭くちひげを撫でながら、そう名乗った老人――アルトマンが鷹揚に頷いた。がたがたと慌ただしく机の上の道具を退かし、さあこちらへと高揚感を隠さずに手招きする。


「竜の卵を診るのは最高の栄誉だよ! ログノート大陸にいる以上、最もほまれ高きことだ」


「そこまで……やっぱり、竜王が眠ると言われる大陸だからですか?」


「そうだよ。竜王眠るログノート大陸。竜王は竜の中でも、最も美しい! 繭の中で微睡むその魂に幸あれ! ――さぁ、見せておくれ」


 うやうやしく、王冠でもいただくように、アルトマンは艶のある分厚い布へと渡した卵をそっと置いた。その手は分厚い手袋に覆われていて、触れた部分からは熱い蒸気がふわりと浮き出す。


「熱い、熱いな……これは火属性の竜だろうね」


「火属性……自分の魔力が、火の因子の色に近いからですかね?」


「いや、竜の種族は親に依存するから、それは違うな。相性の良さはあるだろうが、種族には影響しない」


 竜の卵を仔細しさいに眺めながらアルトマンが言う。熱に浮かされたような目で見つめる先で、視線を嫌がるように卵がぶるりと身震いした。


「ああ、素晴らしい――。他人を拒絶している。熱を発して、親以外を遠ざけているんだ」


「そんなことするんですか……既に自我が?」


「あるよ! 学習性AIだ! 洗われた魂! 清らかなる輪廻りんねの輪の果て! そりゃあ見えはしないけど聞いているし、感じている……卵は大抵、魔力を与えた者を親か主人として認めるんだ。触れてごらん――君なら熱くない筈だ」


 食い気味でそう言うアルトマンに従い、そっと発熱しているらしい卵に手を伸ばす。拒否、という文字が脳裏に浮かぶが、意を決してその滑らかな表面に触れた。


 温かい。やはり、火のような拒絶の熱さではなく、熱めの風呂のような熱が掌から伝わってきた。ほっとするようなその温かさに導かれ、両手で包み込むように卵に触れれば、それはまたぶるりと震える。


 アルトマンが羨望の眼差しで竜の卵を見つめ、何やら小声でスキルを発動したようだ。ぶつぶつと呟きながら卵をながめ、手元の紙に何かを必死に書き付けていく。


「炎竜か? それとも……複合の可能性もあるか。健康状態は問題なし……ああ、狛犬さん。喜びたまえ、もうじき孵るだろう」


「本当ですか!」


 温かい卵を抱きながらそう問えば、アルトマンは深々と頷いて見せる。健康状態も問題ないらしいし、中身の精神状態も特に問題はないらしい。

 身体の大部分は出来上がっているようだから、本当にもうすぐで生まれるだろうとのことだった。嬉しそうな顔で卵を見つめ、アルトマンは断言する。


「もはや君以外はいだくことすら叶わない――間違いなく、君の竜だ」


「自分の……竜」


 誇ってもいい、とアルトマンは言う。ログノート大陸において、覇者である竜の卵を手にし、その子竜に認められることはとんでもない栄誉であるのだと。

 腕の中で卵が震え、熱い温度に嬉しさが滲んだ。口元が綻び、思わず笑みがこぼれる。そっと卵を一撫でしてから、アルトマンに約束の晶石の袋を渡す。


「本当に、こんな小さなもので良いんですか?」


「良いんだよ、目くらまし程度で。NPCの魔術師は意外と少ないから、ありがたいよ」


 竜の卵を診てもらうのに支払ったのは、ファイアの魔術を込めた小さな晶石達。アルカリ洞窟群で拾い集めた晶石を元に作ったそれは、本当にちゃちな目くらまし程度にしか効果が無い。棒花火の方が威力がありそうなほど小さな炎が出るだけだが、アルトマンによればこれでも土壇場の牽制には十分使えるのだという。


「では、ありがとうございました。孵ったらまたお願いします」


「それは是非、こちらからもお願いしたい。竜の子を間近に見られるなんて、獣医冥利に尽きるというものだ」


 見送りの言葉は「竜に幸あれ」。最後まで竜に敬意を払いながら、アルトマンは卵を焦がれるような目で見ていた。

 店を出て、またしっかりと卵を抱えなおしながら背を伸ばす。待っていたギリーの背に乗り、NPCに道を尋ねながら決闘場へと足を向ける。

 一度卵を統括ギルドに預けようか迷ったが、先程のアルトマンの一言がそれをとどめた。


――もはや君以外には、いだくことすら叶わない。


 その言葉に安堵が生まれ、暖かな卵を抱えながら決闘場に向かう。大通りに溢れる人々はギリーの巨体を避けながら、楽しそうに様々なものを手に歩いていく。

 貝殻の飾り、晶石の指輪、モンスターの骨のガラガラを手にした子供がはしゃぐ声に、ギリーがそっと耳を伏せる。


「ルーさん達が戦ってたりしてね」


『どうだろうな』


 雪花に無事用事が終わったとメッセージを送りながら、人々より高い視点で街を眺める。段々と見えてくる巨大な建造物に目をやれば、ギリーがあれだと低く唸った。


『闘技場だ』


 神様が目を閉じた場所、と呼ばれる空間では、熱狂的な声援が聞こえてくる。NPC達が観客として多くいるようで、楽しそうに野次を飛ばしていた。商魂逞しい商人達が食べ物や飲み物を売り捌く声をかき消し、一際大きな歓声が上がる。


 ギリーを少し急がせて近付けば、その威容が現れた。コロシアム、というのだろうか。天井が存在しない、巨大な円形闘技場。階段状に並ぶ座席にはたくさんの人達が座っていて、皆が思い思いの態度で彷徨い人による戦闘を観戦していた。


「あ、メッセージ……雪花がもう少しで来るそうだから、ギリーはここで出迎え頼める? 先に中にいるから、場所はわかるよね?」


『承知した。この距離なら問題なく感知できる』


 新着メッセージを開けば、雪花も無事に用事を終えて近くまで来ているという。きちんと待ち合わせが出来るように、街中では派手で目立つギリーを入り口に置いて、観客席に至る外付け階段を上っていく。

 石で出来た階段を上り切れば、ちょうど闘技場の真ん中で最後の大技が炸裂する瞬間だった。


「――【エトルーシア】」


 攻略組のトッププレイヤー、確か〝白虎〟と呼ばれていた女性が、スペルと共に敵の喉をレイピアで貫いた。獅子のように前髪だけが撫でつけられた、黄金の髪が衝撃にたなびく。統括ギルドで開かれた攻略会議の音頭を取っていたその女性は、優美さを損なわずに華麗に敵を撃破したようだ。


 驚きの表情と共に喉を貫かれた男が絶句。そのまま、死に戻りの光に包まれて、ふわりと消滅した。注意書きによれば決闘場での死に戻りは少し特殊で、装備品は損なわれずに控室に死に戻りするらしい。本当に戦闘の為だけの空間のようだ。

男が消えると同時に、青く輝くレイピアを軽やかに振って血を落とす白虎さんに、NPCやプレイヤー達も熱狂的な野次を飛ばす。


「いいぞー!」


「白虎さんやっぱすげぇ!」


 透き通る金色の瞳が観客席にゆるりと向けられ、声援に答えるように手を振った。歓声が高まり、盛り上がりは最高潮に達しているようだ。

 白虎さんはそのまま観客席に手を振りながら退場。吹き抜けた風が誰もいない闘技場を綺麗に片付け、血の痕を全て拭い去る。


 不意に空から降ってくるものがあり、観客達は嬉しそうに歓声を上げた。青空から降る極彩色の花々が、きらきらと輝きながら地に潰えては消えていく。

 宝石の欠片のように、りん、りん、と砕けて消えるそれを受け止めれば、少しだけ手の中で揺れてから、同じように砕けていった。


 藍鼠あいねず銀鼠ぎんねず琥珀こはく竜胆りんどう柳緑りゅうりょく群青ぐんじょうだいだい月白げっぱく伽羅きゃらに――深紅。


色とりどりの花弁かべんと共に、遠くで澄んだ鐘の音が鳴り響いた。始まりの街を祝福する鐘のと、十色といろの花が、吹き抜ける風と共に視界をざぁと埋め尽くす。

 祝いの花は祭りの間、空から零れ続けると踊り子の女性は言っていた。花弁は地に触れた瞬間に淡く砕け散り、祭りにも、決闘にも、彩りを添える気らしい。


 あいている適当な場所に腰かけて、自分も少し観戦することにした。〝白虎〟さんの戦闘は見逃してしまったが、他人の戦闘は参考になるだろう。未だにプレイヤーとの戦闘に慣れないから、いい勉強になりそうだ、と。


「――こんにちは」


 そう思った瞬間だった。


「え?」


 低い声と共に、不意に肩を叩かれて振り返れば、外人めいたはっきりとした顔立ちが目に飛び込んできた。育ちが良さそうな雰囲気は、どこか貴族めいた感じさえする。簡素なシャツに革の胸当てというシンプルな服装が、豪奢ごうしゃな衣装のように見え、その奇妙な違和感に思わず眉が寄った。


 髪の色は濁ったような金色。襟足の部分は剃り上げられており、ルーさんと同じ髪型だとふと思う。自分の視線は瞳に流れる。泥を混ぜたような青。輝きのないその瞳と、記憶の中の色合いが合致した瞬間――。


「……」


「……」


 ――互いの得物が、互いの急所を捉えていた。


相手の首を刈り取る寸前に迫った、アドルフの爪。自分の首にひたりと当てられた、冷たいダガー。

冷や汗は流れないが、流れているような気分で自分は見覚えのある青を見た。数日前に華々しい出落ちを飾りながらも、その異常さを自分達に知らしめた凶人。


「……〝ヒューマン・アイザック〟」


「このナイフも美しい。うん、欲しい」


 相変わらず話が噛みあわないことに舌を打つが、それくらいで話を聞くなら苦労は無い。不快感も、怒りも、憤りも、どんな対応をしようとも〝相手を見ない〟。

〝ヒューマン・アイザック〟の何が異常かといえば、全てがそこに集約される。

 モルガナの角に貫かれ倒された時も、その直前も、今この時でさえ、彼の目に自分は映っていない。


 その泥を混ぜたような青に映っているのは、竜の卵とアドルフの爪。この男が美しいと思うものだけが、その視界に立ち入ることを許される。

 いや、見てはいるだろう。認識もされている。しかしそれは、喋る物体Aとしてだ。


「何の用――」


 アドルフの爪に指を這わせ、その切れ味と血の赤を楽しんでいた男の腕が、こちらを振り向きもせずに振り抜かれた。

 いや、振り抜かれたのだと思う、というのが正確なところだ。はっきりと見えたわけではなく、男の左腕がかすんだ瞬間と、自分の側頭部に衝撃が走った瞬間が同じだったからだ。


(――ノックバック!)


 闘技場に踏み込んでいないからかダメージは無いものの、衝撃に頭が揺れて、視界がぶれる。痛みは無い。熱と、違和感を感じたまま、身体の制御が利かずに上半身が崩れ落ちる。

 アドルフのナイフが男の指に絡め取られ、武器を失った右手が落ちる。頭を揺らされたせいで制御が利かないなんて、どこまでリアル指向なんだあんぐらは。


 制御の利かない身体は椅子から滑り落ち、冷たい石の地面に頬がつく前に襟首を掴まれる。衝撃がまたも首にくるが、身体は命令をきかずに強張こわばったまま。

ぶれる視界の中で、左腕から滑り落ちた袋が震えた。ぴくりと指先が動くのを確認し、それにがむしゃらに腕を伸ばす。


 袋の紐に指先が引っかかり、次の瞬間には胃が持ち上がるような浮遊感を感じて目を回す。投げられた、と理解した時には背中に強い衝撃が走り、肺の空気を全部吐き出して目を開けば、青空と舞い散る十色といろの花が見えた。

 ダメージを受けたことで、自動で開かれ点滅する簡易スタータス。体力が1割ほど減っていて、ようやく闘技場の中に放り込まれたのだと理解が及ぶ。


「か……はっ」


 痛みは無いのに衝撃で息が詰まる。頭に一撃を入れられ目を回されて、次に高く放り投げられた。混乱する思考の内をそれだけが駆け巡り、必死に抱えていた袋が震えたことで辛うじて意識がそこに集中する。


 袋……卵、竜の卵――自分の竜。


「――〝熔魔ようまの色 赤竜せきりゅうの色 精霊と見紛う朱の〟……ッ」


「はい黙ってー」


 混乱する頭で詠唱を開始しながら起き上ろうとするも、すぐに腹に蹴りが入って中断させられた。男の長い足が続けて顎を蹴り上げ、わき腹にも爪先がめり込んだ。吹っ飛ばされながらも腕に抱えた袋に縋るが、震える指から紐は離れ、丸い膨らみはころころと闘技場の地面を転がっていく。

 転がりついた先には、自分を蹴り上げた男の足。足元で止まったそれはアドルフのナイフで切り裂かれ、純白の中身が現れる。


「ちくしょうっ……!」


 必死に伸ばした腕に影がかかり、這いつくばる自分に覆いかぶさるように褐色かっしょくの毛皮が視界を遮る。牙を剥く獣――グルアが自分の襟首を噛み、跳躍。

 瞬く間に決闘場の冷たい壁に押し付けられ、視界を赤光しゃっこうが塗りつぶす。グルアの毛皮の下にびっしりと張り付けられた魔符が見えた。魔符が赤く輝くのを見ながら、もつれる舌を必死に動かす。


「――〝火の」


 直後、観客席の悲鳴と共に、轟音と爆炎が空にあがった。





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