第四十三話:自然の摂理
第四十三話:自然の摂理
自然界には、人間が抗しえない脅威が山ほどある。
例えば水。自然界の中では水を得ること自体が一大事だし、もし運よく川や湖を見つけたとしても、それを飲んで腹を壊さない確率はとても低い。
例えば食料。もし山や海であれば食べられるものも勿論多いが、同時に致命的な食糧も沢山ある。キノコの類は言うまでもなく、魚だって、山菜だって、誤食事故は毎年多い。
例えば外敵。熊や野良犬などの大型動物は勿論怖いが、それよりももっと脅威なのは蛇や昆虫。特に虫は致命的になりやすく、小さいからと侮っていると痛い目どころでは済まなくなる。
例えば天候や環境。寒暖の差、夜間の低温、昼間の高温。自然環境下において圧倒的弱者である人間は、簡単な気温の変化で体調を崩し、雨に濡れたりでもすればすぐに体温と体力が削られる。
文明社会で生活していた人間がひとたび大自然の中に放り込まれれば、これ以外の脅威にも晒される。昔、自然の中で生きるために必要であった知識は、文明社会の中で生き抜く知識にすり替わり、人間は完璧に住む場所を自然の中から整備された都会の中に変えている。
今の人間に自然界で生き抜けと言うことは、海で暮らすことに特化している生き物に、砂漠で生き延びろと言っているようなものだと思う。
サバイバルを取り扱ったドキュメンタリー番組では、こう語っていた。飢えて死ぬくらいなら、腹を壊す覚悟を決めろと。
暴論過ぎると一部で笑い話にされていたし、番組側でも半分は冗談であると語っていた。しかし、冗談が半分ということは、もう半分は本気ということだ。
「飢えて死ぬくらいなら、腹を壊す覚悟、ねぇ……」
美味しそうに焼けた腿肉を片手に、そんな言葉を思い返す。排泄器官が無いこの世界では、お腹を壊す心配だけは無いが、寄生虫が存在する可能性がこの肉に齧りつこうとする自分を強烈に押し
病原菌が存在しないなんて希望的観測は語れないし、何より自分は寄生虫について書かれた書籍が存在していることを知ってしまっている。そう、非常に残念ながら知ってしまっている。
「……知らなければ食べられたものを」
知らぬが仏とはよく言ったもので、知らなければ食べられた。お腹を壊す心配がないのだから、病原菌くらい、と腹を括って食べられた筈だ。
しかし、話が寄生虫の可能性にまで広がれば話は別だ。興味本位で調べたあの日、二度と聞くまいとブラウザバックした思い出を忘れるわけがない。
「……焦げる寸前まで焼いた。焼いたから大丈夫。大体の寄生虫は熱で死ぬ……筈」
というか、死んでいてほしい。もしいたら。
「そもそも何故だ……? 何故、VRの中でモンスターを解体して……いや、まず解体が必要な時点でおかしいけど、何故その肉を食べるのに病原菌や寄生虫の心配をしなきゃならない。おかしいだろう」
まずは肉に齧りつく前に自然と寄生虫とかいないかな……と心配になるほうが問題だ。さも当然のように疑問に出て来るんじゃない。いないのが普通だ。存在ごと疑問だ。
「……」
思ったより脂が乗っている腿肉を見つめ、しっかりと焦げ目がついているのを確認する。中までしつこいほど火を通したのだからと、自分で自分を全力で説得。
血で汚すのは忍びないので先程から触っていない竜の卵を思い浮かべ、ここで死んだらさよなら、ここで死んだらさよならと、魔法の呪文をひたすら唱える。
「――ここで死んだらさよなら……は嫌だ。うし、いける気がする。食べれる、だいじょぶ、死にはしない筈」
このまま魔力が回復しなければ当然死ぬし、この肉に毒があっても死ぬのだから、可能性としては食べる方に賭けるしかない。
周囲を警戒しつつ、仕方がなしに腿肉を口に運ぶ。恐る恐る肉を齧り取れば思ったより臭みは無く、肉の脂が舌に甘さを伝えてくる。
美味しい、美味しいのだが、状況と不安から泣きそうになるくらい楽しくない食事である。最悪だ。
ステータスを見れば栄養価が随分と高いらしく、歪に切り取った腿肉1本で8割以上回復した。確かに鳥腿肉以上の大きさがあるので食いでがあるが、食事とはもっとこう、違うものではないのだろうか。
そもそも、今回“始まりの街、エアリス”を出発した理由は軟膏の材料集めだった筈だ。それがいつの間にかどんどんと流れで目的が変わり、最初の目的が霞んでいる。
ニコさん達が心配だ。上手くフベさんが皆を回収していればいいけれど。
「回復した、よし」
ステータスの回復を待ち、魔力も体力も万全になったのを確認してから一息つく。手元だけは水の魔術で洗ったので綺麗だが、服には万遍なく血が飛び散り、パニックホラーの味付け役みたいな格好になっている。
頭を振ってその光景を振り払い、生々しいナイフを持ち、下したリュックに手をかける。背負い紐の部分には触れないが、上の口を閉める為の紐を少し拝借。短くなったそれを結び直し、半分だけ切り取らせてもらった紐でアドルフの毛皮を縛り上げる。
後ろ足の部分と、前足の部分に紐を分け、リュックに結び付ければぶらぶらと揺れることも無くしっかりと毛皮が固定される。
マタギのリュックみたくなってしまったそれを背負い直す前に、布越しに卵を撫でる。未だに実感がわかないものの、この中に竜の子供がいるのだ。
ファンタジー最大の夢、ドラゴンに乗って空を飛ぶ。この願いを叶えるためにも、この卵は絶対に持って帰りたい。
「自分の魔力で育つとか格好いいし……」
どう変わるのかは知らないが、そこが良いともいえるだろう。リュックを慎重に背負い直し、急場しのぎにしては切れ味が鋭すぎるナイフを手に、油断なく暗闇の先に視線を注ぐ。
いい加減にじり貧だ。一刻も早く、出口を見つけなければならない。ここでの出口とはいわゆる、外の世界におけるセーフティーエリアと同義だと、猫からは説明を受けた。
フィールド上に無作為に現れ、そして消失するセーフティーエリア。あれは、この地下通路の小さな詰まりが表面に影響を与えているだけなのだという。
流れが滞れば、そこに外への穴が開く。一方通行で外側からは道も何もないらしいが、外に出るためだけならば、
「完ッ全に運任せ……笑えねー」
笑えねぇと言いながらも渇いた笑みを浮かべ、自分だけを信じて進んでいく。もしかしたら今まさに通り過ぎた道で、外に通じる穴が開いているかもしれない。
死に戻り直後の教会、ランダムに出現、消失するセーフティーエリア。それらだけが一時だけ外へと繋がり、同時に出口にもなる。
いや、死に戻り直後の教会は数に入れても仕方がないだろう。猫曰く、あの道は選ばれた魂1つだけが通れる道なのだから、すぐさま引き返す選択をした時以外に使い道がない。
「……道がないんじゃ仕方がないよな。道が、道……道?」
歩き出した足が止まる。口元に手をやりながら、引っかかった一本の糸に縋りつき、それを手繰り寄せることに必死になる。
来る時の道、帰りの道。長い階段を下り下り、降り立って見上げた先は――。
「……ッ! “土の精霊に似る 線を繋ぎ脆く”――!」
答えに辿り着く瞬間に、思考に紛れ込んだ音に反応して唇が声を紡ぐ。声は詠唱となり意味を紡ぎ、世界が呼応し、赤々とした魔力が自分の手の内で変換されるのを待っている。
ぼこぼこぼこ、と不愉快な音。地面が鳴動し、石畳が細かく震える。地の底から響いてくる音に身構えて、集中するために息を吸い込んだまま、呼吸を止める。
息を止めて、絶対にタイミングを逃さぬように膝を曲げる。足の裏から伝わる振動。まだ、まだだと自分を静める。
モグラの群れが地中より迫ってくる。狙うのは群れが地表に出る一瞬前、その瞬間に、モグラを群れごと細かい砂に埋もれさせる――!
「【アレナ】!」
詠唱によって変質した魔力が、スペルによって世界に顕現する。石や土に干渉し、一面を極小の砂漠と化す。
飛び退いた先ですぐに詠唱を開始、完成し、再び世界に震えが走る。
「“ウォーター”! 沈め!」
細かな砂に大量の水、どちらも魔力で出来たそれは自然物のそれよりも綺麗に混ざり合い、絡み付くような泥と化して動きと呼吸を封じ込める。
沼の表面に突きだしている巨大な爪が生々しいが、どうやら上手くいったようだ。
モグラが来たら今度こそこの作戦を成功させようと思っていたのだが、思ったよりも綱渡りだった。被害も無く仕留められたことに安心し、ゆっくりと構えていたナイフを下ろす。
視界にNEWの文字が現れ、タップして確認した瞬間。耳元をしゅっと軽い音が掠め、脇腹に熱。零れる血液と、開いたままのウィンドウの光がちぐはぐに見える中、瞬時に白熱した思考が、痛みという弊害が無い身体を叱咤する。
「“火の精霊と見紛う朱の色 猛火よ繋ぎ炎上せよ――【フレイム】”!」
熟練度が50%を超えた事で取得していたフレイムの短縮詠唱。音がした方向にがむしゃらに手を向けて、暗闇に埋もれるそのモンスターを光の下に引きずり出す。
見れば向かっていく炎の塊を出迎えるように両手を広げ、後ろ足だけで立つアドルフよりも巨大なモグラ。モグラがその強大な爪を打ち鳴らし、世界が軋む音と共に炎塊が爆散する。
「……っおいおいおいおい! こんな大物までいるなんて聞いてな……」
ぎょろついた目がこちらを見据え、ぎゃりぎゃりと爪を打ち鳴らして後ろ足だけで踏ん張るポーズ、次の瞬間には嫌な予感がぞわりと背筋を駆け抜けて、大口を開けた歪な巨大モグラに即断即決で背を向けて走り出す。
――キュォォォオオォォオオンンン!!
腹の底に響く重低音――とは真逆の音。高温かつ耳障りな、皮膚が泡立つ叫び声。狭い通路の中ではそれは一際反響し、命が縮む思いで脇腹を押さえながら闇に埋もれる通路を駆けぬける。
大きく一歩、急過ぎる脅威から逃れるためのその一足が、唐突な振動で
「……ッッ゛!」
今度こそ本物の、腹の底に響く重低音と共に地面が派手に揺れ動く。通路自体は揺るぎもせず、崩落の心配だけはしなくてもいいらしい。
ただ激しい揺れが自分を襲い、バランスを崩しながらも命の危機に引き攣った声で再び詠唱を開始する。
「あ、朱の――うわっ……ちくしょう!」
ダメだ、間に合わない。詠唱を開始した瞬間に巨大モグラは出てきた穴に引っ込み、そのまま派手に地面を揺らされて詠唱が途切れてしまう。
がりがりと地面か岩か、削りながら潜航する音に恐怖を感じながら身構える。どこから出て来るのかわからないくせに、速度だけは一級品だ。
先程の攻撃は脇腹を掠る程度で済んだが、たまたまウィンドウを開く動作をしなければ、あのまま左腕がふっ飛んでいた筈。
おそらくモグラも最初からそれが狙いだったのだろう。ウィンドウを操作しながら、左手にはしっかりとナイフが握られていたのだから。
「アドルフの爪は親玉でも怖いのか……」
触れただけで全てを切り裂くアドルフの爪。脂に濡れればそれを吸い上げ、切れ味を増していく不思議な爪は、恐らくあのモグラの爪と噛み合っても折れたりはしない筈。
「“土の精霊に似る 線を繋ぎ脆く”!」
鳴動する地面に二足歩行の人間はバランスを保てない。自然、四足獣の姿勢を取りながら詠唱を開始、地面についた手から魔力が溢れ、地を侵食し、スペルが世界を改変する。
「【アレナ】!」
解き放たれた力に呼応し、注ぎ込んだ分以上に魔術は世界に形を為す。行き場の無い魔の力が満ちるこの通路では、魔術の全てが肯定される。
竜脈に満ちる魔素が加算され、通路一帯が砂の海に変貌。大量の細かな砂が、そのど真ん中に四足の姿勢のまま踏ん張る自分を目がけ、跳びかかろうとしていた巨大モグラとのクッションの役目を果たす。
「遅れたぞ――モグラ野郎!」
十分に地中で距離を取り、加速に加速を重ねていたモグラの一撃は、最後の最後で砂のクッションに威力を減退される。
砂の沈みに位置を気取られ、その速度まで落とされた必殺の筈の一撃は空を切り、獣のように爛々と目を光らせた自分を背後に、無防備な背中を晒している。
「――ふッッ!」
鋭い呼気と共にアドルフの爪を一閃、体重と速度を乗せたその一撃を、巨大モグラは紙一重で回避。
流石と褒める暇も無く、反転するモグラ目がけて、ここ数時間で鍛え上げられた反射速度にものをいわせて斜めに回し蹴りを打ち込む。
鈍い音と共に頭に直撃、衝撃に一瞬だけ停滞する巨体を目がけ、左腕のナイフを真一文字に滑らせる。
浅く腹を裂いた故の声の無い悲鳴。痛みに仰け反る動作に更に追撃をかけるべく身を乗り出し、次の瞬間にその形相に硬直する。
見開かれた茶色い瞳。瞳孔が収縮し、狂気的なそれが自分を見つめていることに耐えられなくなる。開かれる口、咄嗟に迎撃しようと上げた腕にも構わず、巨大モグラは雄叫びを上げる。
――キュオォォオオォオォオ!!
先程は逃げ切った咆哮が真正面から自分を直撃、途端に硬直する身体に焦るも遅く、巨大モグラはその大爪を振りかぶり、自分を真っ二つにするつもりでそれを容赦なく振り抜いてくる。
一瞬の硬直の解除の瞬間、震える足では逃げ切るにも遅すぎると決断した脳が、自然と逃げ道を断っていく。
「――【遠吠え】!」
この距離なら、届く。
そう判断した瞬間に口からスペルが飛び出し、システムが反応し、喉からは自分のものとは思えないほどの叫びが上がる。
「――ヴォオォォオオオォォオオ!!」
至近距離での遠吠えが炸裂。巨大モグラは動きを止め、その一瞬に遅れないように動いていた足が、辛うじてその攻撃範囲から逃れることに成功する。
互いに更に距離を取り、張りつめた空気の中で睨み合う。ぜぇぜぇと荒い息は体力の消耗というよりも、精神的なものの方が色濃く出ている。
遠吠えが無ければ死んでいた。あのまま一撃を喰らえば真っ二つになっていた。その確信は間違いではなく、胴体を真っ二つにされる恐怖に、遅れて震えがやって来る。
しかし、舐めてもらっては困るのだ。根っからの戦闘好きの自分にとって、恐怖と闘争の悦びは別のものだ。
恐怖に挫けてしまったかを確認するようにこちらを伺う巨大モグラに、自分が折れていないことを真っ向から示しつつ、次の勝ち筋を探して思考のギアを上げていく。
「――“朱の色 精霊の色 火の精霊と見紛う色”」
唇に指をやり、詠唱を開始する。自分が持てる魔術の中で、最も威力が高いものを選び出し、圧力をかけるようにゆっくりと続けていく。
詠唱の途中で止まり、じっと視線を逸らさずに敵を見据える。
巨大モグラはその爪を打ち鳴らし、威嚇するように振り上げる。互いに睨み合い、そうして先に折れたのは巨大モグラの方だった。
じっと、こちらを睨みながらも僅かに下がった後ろ足。じりじりと下がるモグラに、自分も合意するように一歩下がる。
睨み合いは数秒で決し、巨大モグラはその身を反転させて地中深くに潜っていく。自分もそれに合わせて走り出し、互いが互いに遠ざかっているのを確認しながら距離を開けていく。
無駄な争いはしない。学習性AIを使用しているが故の判断に救われて、自分は窮地を脱していた。
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