誰が為に鐘を鳴らす。

薮柑子 ロウバイ

鐘を鳴らす人。

自分の好きな所は何だと問われると、名前だと答える。

自分の嫌いな所は何だと問われても、名前だと答える。


ずっしりと暖かみのある天命が僕に贈られた。

誇らしく、僕の自慢でもあるその天命は

僕を僕たらしめる名前となって僕を縛り続けることになった。


この名前を僕に贈ったのは母だった。

父と一緒に名前の候補を何年も書き溜めたノートから

何度も何度も摘出してはまた悩みに悩み抜いて僕に贈った名前だと、

母は、父亡き後、懐かしそうに笑って教えてくれた。


父の事は良く覚えていないけれど、

記憶の底にある面影はいつだって優しそうで、いつだって笑顔だった。

そんな父が好きな母も、僕は好きでいる。

どんなに家計が厳しかろうと、いつも楽し気に笑っている。

父のように笑顔でいると勇気が湧いてくる、と言うのが母の口癖だ。


そんな母の血を少し濃く受け継いだ弟も、僕の自慢だ。

弟は母に似て、明るく社交的だが、少し抜けている。

そんな弟の兄としては、その時くらいは兄ぶれるので良しとしている。


まるで自分の父親みたいだと笑う弟は、自分の父親の顔は知らない。

四つ年の離れた弟が生まれてすぐ、父は亡くなった。

父は最後の最後まで、僕たちの為に、息をしようとしていたのだろうか。


最後まで、母の身体を心配していたと聞いた。

最後まで、弟の名前を探していたと聞いた。

最後まで、僕が兄になるための手助けをしていたと聞いた。

父は、誰が為に、その命を燃やしていたんだろうか。


___僕は一人、自室の机に広げた父と母のノートから眼を外した。


大きく赤いペンで囲まれた相心の二文字が

僕の思考も視界も奪ってしまう前にそっと年季の入った表紙の厚紙を閉じる。


相と書いて他を、心と書いて思いやる。


優しい人になってほしい、誰かのために心を使えるように、という

両親の心そのものを形どった名前が僕の名前だった。

相心あいしん。僕を縛る暖かい鎖。




「なぁー!相心、学食行こうぜ!」


「え?あぁ、うん。」


「何食う?俺はねー、かつ丼!」


「また?飽きないなぁ。」


僕は眉を下げて淡く笑った。

幼馴染のゆいは、学食のおじちゃんに、無駄な大声で注文して

いつもの窓際の席につかつかと向かった。

僕は長いもじゃもじゃの髪を撫でつけながら、結の後ろをついていく。


「相心はなんか食わねーの?」


「どうしよ、僕もかつ丼食べようかな。」


「おーおー、いいね~」


僕はおじちゃんにかつ丼の小を注文した。

帰ったら、母さんが台所で僕の好きな味噌汁を作っているだろうから。


「かつ丼の小ね、相心、お前もっと食わねーとがりっがりだぞ?」


「あはは…、これでもちゃんと食べてるんだけどな」


「ほんとかぁ?結を見習え、あの胃袋まるでブラックホールだぜ?」


ふいと結のほうを顎で指した。

彼はかつ丼の出来上がるまでの待合番号の紙をいじっている。

きっと僕が戻る頃には、あれで鶴が完成しているだろう。


「結は、いいんだよ、あれが。」


「? ふーん?まぁ無理はすんなよ。」


「ありがと、おっちゃん」


僕は上履きの底を擦って歩く。

フライドポテトを食べさせ合うジャンキーなカップルを横目に席に帰った。

隠れたせいで、視力を損なった左目がぎょろりと動く感覚が気持ち悪い。


席ではやっぱり、結が小さな鶴を折っていた。



「そういえばさぁ、進路、どうするか決めた?」


「まぁ、一応はって感じかな。」


「ふーん…そっか。」


結はかつ丼のテラ盛を見つめたまま、僕の答えを飲み込んだ。

生半可な返事。それさえも、最早気にならない。

僕らは、幼馴染。

全てと言ってもいい程の、お互いの汚点を見てきた

僕の命の証人。


僕の命が警鐘を鳴らす、僕の命を削るもの。



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