第4話 男、クレープ屋、十五歳

 目が覚めたのは病院のようだった。

「マァネ、おはよう」

 憔悴した兄の顔があった。横で安心したように微笑んでいるのはミダと呼ばれたツガイメギツネだろうか。

「兄さん」

「ミヒトがかばってくれて、助かったんだよ」

 兄は苦虫を噛み潰したような表情で言った。

「そう、そのミヒトさんは?」

「……事故にあってね」

「いないの?」

「亡くなってしまった」

「僕のせいで?」

「あなたのせいじゃありませんわ、マァネさん」

 ミダが口をはさんでくる。

「仕方のないことだったんです」

「おまえは何も悪くない、マァネ」

「そうなの……」

 僕は悲しみに浸る暇もなく、とある大事なことを思い出した。

「兄さん、ワゴンは?」

「ああ、おまえの駐車場に」

「何日経った?」

「まだ半日だよ」

「まだ大丈夫だ」

「なにを気にしているんだ」

「クレープの材料だよ、すぐに傷んでしまうから。僕、もう行かなきゃ」

「なにを言っているんだ、全身を強く打っている」

「そんなの関係なく食べ物は傷むんだよ!」

 普段大人しい僕の怒号に、兄は驚いて黙ってしまった。僕は体を起こした。幸い打撲で済んだようで、どこにも強い痛みはないし、動かない場所もない。

「待て、マァネ」

 兄がなおも言い募る。

「待てない、僕には待ってくれてるものがあるんだ」

「いい加減にしろ、自分と仕事とどっちが大事だと思っているんだ」

「仕事に決まっているでしょう!」

 兄の言い分も聞かず、僕は起き上がる。

「僕が死んだって毎日三人くらいのお客さんが喜んでくれるんだ、そのほうが黙って横になって腐っているよりずっといい、そのほうが僕も楽だし幸せなんだよ!」

「死んだらその仕事だってできなくなるんだぞ」

「そんなの誰だって一緒だ、死んだら仕事はできない、だからこそ生きているうちは誰かを幸せにする仕事をするべきだ」

「おまえが死んだら僕は幸せじゃない」

「でも三人くらいは幸せになる」

「だめだ」

「だめじゃない」

「きっと頭を打ったんだ、冷静になれ、マァネ」

「関係ない」

 泣きそうな顔で黙り込んだ兄を尻目に、僕はベッドから降りた。

「本当に行かれるの?」

 ミダが確認のように言った。僕はただ、ええ、と言った。兄は涙をこらえる赤子のような顔をしていた。なぜ理解されないのかがわからなかった。仕事熱心な兄にならわかると思った。むしろ、良心のあるミドリムシでさえわかる理屈だと思った。兄のほうが、僕が見ていないところで頭でも打ったのではないか。

 ワゴンまではタクシーを使った。病院前にはたくさんタクシーがいたので手間はかからなかった。そのあと、ワゴンを運転して、いつもの路地で店を開いた。深夜の二時ころだった。設営こそ遅くなったものの、大体いつもの仕事のピークには間に合ったので安心した。いつも、飲み終わりの酔っ払いがクレープを買っていくのだ。

「きみ、何をしているんです?」

 客足が少なく、自分の分のクレープを焼いてかじっていると、保護官の制服を着た男がこちらへ来た。面倒なことになるかもしれないな、と覚悟した。

「ツガイメギツネですね? 学校は? それにワゴンの免許は?」

「兄が早くに就職してしまったので、僕には学校へ行く暇はないんです」

「ふうん、まあ、クレープ屋さんみたいだから、クレープをいただきながら話でも聞こうかな」

「クレープ、召し上がります?」

「きみが大事にしているものは、僕にも大事ですからねぇ」

「味は」

「じゃあこの餃子風を」

「かしこまり」

「斬新だね」

「売りなので」

 万一補導でもされたら、仕事ができなくなってしまうな、なんだかついていないな、と思ったが、僕は性分が明るいのだ。おいしいクレープを焼いて出せば、補導なんてする気もなくなるかもしれない。

「きみ、自分の分も焼くといい、一緒に食べましょうや」

「かしこまりー」

 自分の分はラムレーズンに焼いた。ワゴンの尻に座りながら、保護官とクレープをかじる。

「本格的な餃子風だねぇ」

「それはどうも」

「ニンニクも効いているし、ひき肉も入っている。きみ、すごいね」

「……どうも」

 悪い気はしない。

「実のところね、僕もあんまり堂々とはできないんだ。謹慎中なんだねぇ」

「お兄ちゃん何したんです? 保護官でしょう?」

「職務中に人間を撃ってしまった、その子は亡くなってしまったよ」

「もしかして、例の大学生の事件?」

「そうなんだね、でもじっとしてもいられなくてねぇ。抜け出してきてしまったんだ。ナーニャにでも見つかったら叱られてしまうな」

「最近は保護官のお客さんが多くてびっくりですよ」

「まさかナーニャが来たと言っていたクレープ屋は、ここだったのかねぇ、でもきみは元気そうだし違うかな、ナーニャがキツネをひとり危機にさらしたと気に病んでいてね。彼女も災難だなあ、いろいろ災難なことが多い」

 はっとした。まさかナズナのことだろうか。

「僕は、元気なので」

「じゃあナーニャにもそう伝えてみようかなぁ、人間ちょっとの希望は持ったほうがいい、謹慎しているとよくわかる。最近物騒だからきみも気を付けるんだよ、あと僕にもラムレーズンひとつお願いするよ、持って帰って謹慎しながらいただきますよ」

「かしこまり。あとそのナーニャさんには僕のことを言わないほうがいいですよ、外に出たのばれますよ」

「はっは、確かにねぇ、そうだねぇ」

 焼いている最中にも、保護官はよく喋った。ルウ街担当になりたいが、事件を起こしてしまったためすぐには無理だろうというのが、目下の悩みのようだ。仕事熱心なひとを僕は好んでいるので、少しレーズンを多めに入れて渡した。保護官は「どうもぉ」と笑って歩いていった。

 人通りの少ない時間になってきた。サングラスと帽子の、おしゃれを楽しんでいる様子のツガイメギツネが、すすす、と、何かから逃げるようにこちらへ来た。通りすがりの酔っ払いたちは却って興味を惹かれた様子で、振り返って眺めている。

「クレープ、おすすめひとつ」

「かしこまり」

 ミカだった。だが勤務中は私情を挟むべきではない。僕は何事も気づいていないかのように、チョコレートバナナのクレープを焼いて出した。

「ありがとう。ちょっと話して帰ってもいい?」

「構いませんよ、ワゴンのお尻にでもおかけくださいな」

「ありがとう」

 ミカはちょこんとワゴンの尻にもたれかかった。様になる。雑誌の撮影のようだ。その芸術を邪魔するのも気が引けて、僕はワゴンの中にいた。

「懇意にしていた女性がいたんだ」

「はあ、恋愛ごとです?」

「そんなようなものかな。ただ、最近連絡がつかなくてね。こういうときは危ないからあんまり追いかけまわしちゃいけないんだけれどさ。素敵な女性だったんだよ。聖女のようなひとだった」

 ミカはいったん言葉を切ってバナナの部分をかじった。おいしいね、と独り言のように言った。

「こういう、危ないことをするのは、昔から好きでね。だから芸能なんてやってるんだけれど、なのに僕は弟が最近うらやましいんだ。毛の色、独特だろう? 僕はそれを活かして成功してきたけれど、あの子は逆に、白い毛並みを隠すようにして生きている。ちょっとだけ、二時間くらいかな、人生を替わってほしいよ」

「お仕事、大変なんです?」

「いや、僕が一般人だったら、あの女性は死なないで済んだんだろうなって思ってしまってね。ああいや、彼女がもう死んだかどうかはわからないのだけれど、僕の中では死んでいる、あの女性が死ぬ以外の原因で僕から離れていったとは思いたくない」

「大事な方だったんですね」

「あんまり伝わっていなかったみたいだけれどね。無事ならまた会いたいけれど……うん、また会いたい。でも、きっとどうしようもない事情があって、それはきっともう誰にもどうしようもないことなんだろうな。こんな形で捨てられるとは思わなかった、でもあの彼女が、黙って僕を捨てるとも思えないし、思いたくないんだ」

 ミカはクレープの尻を一気に口に押し込み、喋りすぎた、おいしかったよ、と残して、サングラスを直しながら行ってしまった。

 今晩のお客はそれだけだった。余ったフルーツで自分用のクレープを特盛で作って食べた。とても満足のいく食事だった。僕はいちにちに六食はクレープを食べているし、毎食、幸せだと思っている。

 しかしながら帰りに運転をしているときのことだった。突然猛烈な吐き気に襲われ、車内で吐いてしまった。吐瀉物はフルーツがほとんどで滑稽なほど甘かった。甘い味の中で息ができなくなる。

 きっとあの事故で強く頭を打ったのだ。ここで死ぬのだろうとわかっていた。それでもいいはずだった。

 兄の前ではああ言ったけれど、明日もいろいろなひとの話を聞きながら仕事がしたかった。きっと叶わないのだろうなとわかっていた。それでも喉は、フルーツと小麦粉の味で詰まってしまっている。甘さの中で意識が遠くなる。ワゴンをスラム街で止め、トランクを開けた。ひとの死んだワゴンであろうと、僕の仕入れた食材には自信がある。生活に困っているひとにも、クレープが行き渡ればいいと思った。僕が生きた証は、ワゴンの冷凍庫に詰まっている。あとは誰かが、おいしい、と笑うだけで、命より重たい正義は成立する。

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