第2話 女、セックスワーカー、二十三歳
「それで大変だったらしいね。学校は恐慌状態だったらしい。キツネたちは人間の死に触れたことがないんだね。僕の弟は、割と平気だったみたいだけれど。あの子は冷静な面があるからなあ。僕のせいで起こる人間からの嫌がらせにも文句ひとつ言わずに耐えているよ、昔からね」
シャワー上がりの白い毛並みをオレンジのライトに輝かせながら、ミカがベッドサイドで梨のジュースを飲みながら私に話している。裸の私に対して、ミカは何かを取り繕おうとするように衣服をまといなおしていた。私はこの時間が嫌いではない。もうすぐミカはチップを置いてガレナの待つ家に帰るだろう。私の家の冷蔵庫で冷えていた梨のジュースは、言葉責めに疲れたミカの喉を潤している。
「そうね、保護官も穏便な対応をしたかっただろうけれど、慌てちゃったのね。仕方ないのよ、その女を撃ったのはまだ新人の保護官だったの。ちゃんと手を狙ったみたいだけれど、ドラマみたいにカミソリだけ撃ち落とす技術はなかったみたいね、保護官が発砲する機会も少ない平和な土地だし、彼はよくやったわよ。たとえカミソリだけ撃ち落としていても、その女はヘアピンでガレナの目をつぶそうとしたかもしれない。その女の持ち物は普通だったけれど、女の持ち物なんて凶器だらけだし」
「それもそうか」
「ええ、とにかくあらゆる手段でガレナを傷つけようとしたでしょう。ちょっとおかしい子だったみたいね。ナズナさんのあとも追いかけていたみたいだし、ナズナさんに訊けばあてがついていたかも。まあ、保護官が人を死に追いやったとなると、問題にはなるだろうけれど」
「そうなの? その保護官、辞めちゃわないかな、心配だな」
「根性のある男だから大丈夫よ。私の性交渉もへらへらした素振りでいなして、全く受け付けないんだから」
「それは損だよ。適度に遊んで生きていかないと、人生短いんだからさ。いい体した女性を抱かないなんて、変な意地を張っているとしか思えないね」
ミカは梨のジュースを一気に喉に流し込み、ショートボブの白髪を揺らして時計を見た。ミカの緑の瞳にデジタルの数字が映る。ツガイメギツネは短命だ。恐らく我々人間の何倍も、一分の価値が違うのだろう。
私は浪費が嫌いだ。だからミカのように、情報交換と性欲処理のために私を使ってくれる存在と居るのはとても生きやすい。また、時間を大事に使っているさまが、見ていて心地いい。
二十年生きることのないツガイメギツネという生き物は、何を思って私を抱くのだろう。恐らくは悪い理由ではないだろう。今だけの享楽に溺れることを私は浪費だとは思わない。残された時間が短いほど、その場しのぎの癒しは意味を持つ。癒しには、濃度というものがある。
「僕はあと何年生きるんだろうね」
ふいにミカが真面目な声を出した。
「考えても仕方ないってわかってるよ。でも、もうあと何回もユカリを抱けないかもしれないのは、僕にとっては理不尽を感じるよ」
「理不尽ね、ミカは性欲処理も、ゴシップから恋人とみなされている私としかできないものね」
「僕は炎上しても名前が売れるだけだからいいのだけれど、ユカリが嫌だろう?」
私は少し考えた後に、そうね、と言葉を継いだ。
「どうにせよ、ミカは不自由だわ。一方私は誰と関係を持っても何も言われない」
「それは僕が頼み込んでるんだからね」
ミカはグラスを弄ぶように持ったまま、ぷんぷんと怒った。
「そうだったの?」
「そうだよ。ユカリがいろいろ教えてくれるのが僕には大切なんだ。ゴシップにお金を払って、ユカリからいろいろな情報がもらえるなら、どうせ使い道のないお金だ、僕にはおいしい話だよ」
気分がよかった。ミカは私のために時間だけでなくお金を使うことも、浪費だとは思っていないのだ。ミカにとって私は浪費ではない。それは私の存在を承認する言葉だった。
「でもユカリ、昨日のショッピングの最中に、違う男のところではしゃいでいたでしょう。派手な髪の、がりがりの男。あのビルの七階でね。はしゃげばそれは男は喜ぶよ。どうせ芸能関係のひとだったんでしょう」
「ああ、このあたりのバンドマンよ。出会い系に登録していたから探りを入れていたの。バンドマンのクスリと性倫理に関してはサミミレの人間みんな大好きだもの」
もっともらしい出任せだった。彼の容姿はバンドマンに見えただろう、ミカは納得したようだった。だが、私は彼、ミヒトが無職であることを知っている。騒いでいたのは、単にミヒトの興味を引くためだった。バンドマンに似ていますね、とおべっかを使っていただけだ。それなりの女が大騒ぎして褒め立てれば、男関連の物事はいいほうへ行く。ミヒトも、少し心を開いてくれたように思う。世の中、そんなものだ。
「ふうん。でも情報集めも無茶しないでよね。ナズナが嫌がっていたよ。ガレナはうるさいのが嫌いだからね。ナズナはガレナのためならなんだってする。僕はユカリがナズナに殺されるんじゃないかって思ったよ」
「いくらナズナさんだって、私を殺そうとは思わないわよ。ナズナさんがガレナを護りたければ護りたいほど、私を殺すのはデメリットが多すぎる」
「そうかなあ」
ミカは釈然としなさそうに、ジュースを飲みほした。
「ごちそうさま。じゃあ僕は日常に戻るよ。平気だと言っているけれど、ガレナもひとりで学校に行くのが怖いだろう、殺されそうになって、おまけに目の前で人間が血潮を噴いて死んだんだ。おまけにゴシップもうるさい。ガレナは静かなのが好きだから、僕が矢面に立たないと。トークライブ二日目にはそのあとに出ても間に合う」
「ミカならうまくやれるわよ。ガレナは気が弱いから、上手にケアしてあげて」
「わかった。じゃあ、また今度」
ミカが立ち上がって両腕を広げる。私はその胸に収まると、ミカの背に腕を回して、ミカの頬に小さなキスをした。ミカが軽く首を吸ってくる。少し鼻から声が出た。
「行ってきます」
ミカが離れがてら、私にコインを一枚握らせて、この家を出た。見ると、アンティークのコインだった。然るべき店で売れば、値入の何倍にもなるのだろう。
ミカはわかっているのだ。女というものは、ペットであれ人間であれ、自身のもとに帰ってくる存在が好きだ。私もそうだ。だからワンルームマンションの玄関まで見送り、行ってらっしゃいと言った。ミカは行ってきますと言った。そう言われると、本当に帰ってくるつもりがあるのだと安心する。
深夜の三時を回っていた。私はペットを呼ぶことにした。昨日、とあるファッションビルで話の合ったペットだ。彼の派手な髪色は、それしか自己の主張がないことを表していた。彼もそれを悪いとは思っていないし、私も同様だ。彼は、所属するものが欲しいのだ。それが彼の、三十一歳になってまでフリーターをしている理由だ。職に就いてしまえば、彼はきっと今のように楽には生きられないだろう。職場は働き手に依存する。彼が求めるのは、もっと勝手で時間も関係なく呼びつけるような、女王のような存在だ。
彼、ミヒトはスマートフォンの呼び鈴に二コールで出た。
「ミヒトさん。今から来て。甘いものを買って、ちょっとしたお酒も。ああ、あとコンドームもないかな。お金はミヒトさんが出してくれると嬉しいけれど、なかったら出すから立て替えて」
ミヒトはただ、わかりました、とだけ言って、電話を切った。無駄がない。私は彼のこういった性格を可愛らしいと思っているのだ。
なんとなく、ミカに抱かれた後の体を姿見で見た。私の生業には苦労しない体だ。それなりに大きなバスト、身長のわりにくびれているウエスト、男を受け入れるためにあるような大きなヒップ、年中ヒールの高い編み上げのレザーブーツを履いているせいで細くなっているふくらはぎ、その先の爪先は今はミヒトを踏みつけるためにある。
部屋と体中から滲み出る性行為の残り香がなんとなく嫌になり、バスルームに向かった。途中にある、統一感のないクロゼットの中から、レエスが派手なロゼピンクと黒の下着、フロントジッパーのぴったりとしたワンピースを搔っ攫った。横にはスーツがあったし、その横には浴衣があった。私のクロゼットはばらばらだ。それだけ私を求めてくれるものたちは多様なのだ。そのままバスタブに湯を張りながら浸かる。玄関が開く音がした。
「ミヒトさん」
バスルームから玄関は遠くない。私の呼びかけに、ミヒトは扉越しに「はい」と返事をして答えた。
「入りなさい」
ツーノックのあとにバスルームを開けたのはやはりミヒトだった。傘すら持たず急いで来たのだろうか、ずぶ濡れだ。私は昨日の朝に見た天気予報を思い出しだ。今日は天候が崩れる予報だった。私は呆れて言った。
「ミヒトさん、服を脱いで、バスタブに入って」
幸い私のバスルームは豪華なつくりだ。人が二人入ってもそんなに狭くない。ミヒトはやけに立派な袋をどこに置こうか迷ったようだった。私は声をかけた。袋を見せて。ミヒトは袋を私に渡すと、雨で体に張り付く安物らしいカットソーを脱ぎ、何の付加価値もないジーンズのボタンを外してトランクス姿になる。私の前で脱ぐことは初めてで、戸惑っているのかもしれない。
「脱いで入りなさい」
ミヒトは控えめに、はい、と返事をして、下着を脱いでバスタブに入る。私はミヒトのくれた袋から、やたら可愛らしいお酒の缶とベイクドチーズケーキのバーを取り出して、ベッドサイドに並べた。コンドームは箱ごと袋に入れたまま、バスタブに膝立ちで伸びあがって洗顔所に置いた。
ミヒトが湯に浸かるとあっという間にぬるくなった。タッチパネルで沸かしなおす。
「ミヒトさん、お酒の缶を開けてくれる?」
「はい」
ミヒトが缶を開ける間に、私はベイクドチーズケーキの封を切った。見たことのない包装だった。
「お酒もケーキも見たことがないわ」
「はい」
「どちらのものなの」
ミヒトは、あの、と、少し言いよどんだ。
「僕がお仕えしているご主人さまのお店のものです」
「ミヒトさん、ご主人がいらっしゃるのね」
「はい」
「どんな方なの? あ、いただいていい?」
「召し上がってください。ご主人さまは、サミミレ地区ルウ街のホストをしていらっしゃいます」
ルウ街と言えば、歓楽街だ。治安が悪く、このサミミレ地区の中でも、別枠の警護組織があり、その特殊な警察官および保護官たちでしか手に負えないらしい。
チーズケーキは少しお酒の香りがした。服を脱いだミヒトを見る。ミヒトが酒を飲み下すところを想像した。細い首をアルコールが通る瞬間を、その食道が灼けるような瞬間を、見てみたいと思った。
「ミヒトさん、無職だったわよね」
「はい、あのアプリケーションに登録した通りです。黒服でも何でもない、ただの使用人です」
私はいわゆる出会い系のアプリケーションでミヒトと知り合ったのだった。軽くチャットを交わして、昨日あのファッションビルで待ち合わせたのだ。
「ふうん。おいしいケーキね」
「お酒も、よろしければどうぞ」
「いだたくわ」
缶を受け取り、お酒を口に含んだ。上品な味がした。不思議と酒臭さはなかった。
「おいしい」
「何よりです」
「どういうお酒なの」
「ツガイメギツネの妖酒です」
私は一瞬、ふたくち目の嚥下のタイミングを見失った。何とか飲み下して言う。
「墓地のお花のお酒ね」
「その通りです」
一般的に、ツガイメギツネは死体が残らないが、決まった湖を墓地とし、奇異にも見えるような水葬をする。その湖の周りに咲く花からは、独特の酒が採れる。
「そのご主人は、このお酒がお好きなの?」
「はい。ご主人さまもツガイメギツネで、死んだ後の味を知りたいとのことで召し上がります」
「ふうん」
ツガイメギツネが成人するケースは、いまだかつて見られていない。少し違法なホストバーなのだろう。そこでミヒトは、いったい何をしているのだろう。
「ケーキ、半分食べる?」
「いえ、僕は」
「ご飯は食べられているの」
「食べる気がしなくて」
ミヒトの裸体は心配になるくらい細かったのだ。私は確かに浪費が嫌いだが、足りないのも嫌いだ。
「温まるまで浸かっていなさい」
私はミヒトを置いて湯船を出た。タオルで雑に体を拭き、下着とワンピースを手早く着てキッチンに立った。マカロニを茹でながらバターで小麦粉を溶かし、玉ねぎを炒める。ブロックベーコンを四角く刻み、冷凍の海老とブロッコリーに火を通す。バターと小麦粉のホワイトソースに牛乳を少しずつ入れ、茹で上がったマカロニとソース、具材を和えてシュレッドチーズをかけ、オーブントースターで焦げ目をつけた。
ミヒトの様子を見に行くと、所在なさげに湯船で何もないタイルの壁を眺めていた。
「温まったら居間に来て。服は洗濯するから、うちのバスローブを着なさい」
「わかりました」
ミヒトの服を洗濯機に突っ込み、いちばん早く仕上がる指定にして回した。
ミヒトはバスローブを私から受け取ると、すぐに湯船から上がった。
「グラタンができているから食べていきなさい」
「ありがとうございます」
オーブントースターから耐熱皿を引き出し、熱伝導率の低そうな皿に乗せてダイニングテーブルに持って行った。ミヒトは下座に座った。
食事は呆気なく始まり、呆気なく終わった。ミヒトは食べ終わると、ご馳走様です、おいしかったです、と言った。中身のない感想だった。それでも彼の餓死は遠のいだだろう。私は満足している。
「ミカさんが来ていたんですね」
ミヒトは突然そんなことを言い出した。
「明日はアダルトビデオの撮影がありますね」
私が状況を理解する前にミヒトは続ける。
「ミカさんに会う直前に、サミミレ地区ツガイメギツネ保護官かつガレナさんとミカさんの兼務秘書のナズナさんと、昨日の事件について駅前のカフェで話をした。ナズナさんとは幼馴染で仲がいい、ただ彼女のことは『さん』づけで呼ぶ」
月並みな言葉しか出てこなかった。
「あなた、いったい」
「僕は無職の三十一歳、ただの男です」
不思議と危機感はなかった。嬉しさすらあった。誰かが私を知ろうとしてくれているのが嬉しかったのかもしれない。
「びっくりさせてしまいましたね。僕のご主人さまが、あなたのことをご存知だったんですよ、ユカリさん」
「ルウ街のホストが、私を?」
「ルウ街に入らなければ治安がいいと思っていますか? ルウ街は関わったが最後、飽きるまで追い回されます。つまり、ユカリさんはルウ街に、面白いと思われている」
「私はただのセックスワーカーよ」
「ただし、見目が麗しい」
「見目?」
「理由なんてそんなものでいいんです。もっともらしい理由も、ユカリさんはたくさん持っている。ミカさんのセックスフレンド。初体験はホテルで素人ものの撮影。幼いころに親御さんが精神を患い、典型的なアダルトチルドレン。精神科通院歴あり。すべて、ユカリさんの隙であり、ユカリさんの魅力です」
ミヒトは食べ終わったグラタン皿をぼんやりと眺めながら、私に関する批評を続ける。
「ユカリさんは、他人に望まれたことしかしません。僕を呼ぶのも、僕がユカリさんに求めてほしがっているから。ミカさんと関係を持つのは、ミカさんが求めるから。セックスワーキングをするのは、もっと直接的に求められる実感があるから」
私は思わずミヒトを睨んだ。ミヒトは自我がないようでいたので、そこまで私を見ているとは思わなかったのだ。自分の油断を延々と突いてこられることに、段々と気分が悪くなってきた。
「ユカリさんには、欲求ってあるんですか」
突然のその問いに、ぱっと出たのは、答えと憤りだった。それらが混じって、私はしばし押し黙ってしまった。答えは、あまりに気障で偽善臭すぎる言葉だったのだ。結局私はその答えを、憤りながら声に出すしかなかった。答えが思い浮かんだ瞬間から、それを言わなければならないとわかっていて、それに対して私は憤っていた。この仕事をして久しく忘れていた、恥だった。
「私は誰かが喜んでくれればそれでいいのよ」
「そうですか」
ミヒトはいったん言葉を区切った。
「会ってみませんか」
ミヒトと目を合わせた。彼には何の意志も見当たらなかった。
「僕のご主人さまと」
「……最初からそのつもりで私のところに来たのね、ホストのお人形さん」
状況がわかってしまえば、そんな上から目線の言葉すら出てきた。この男は、主人の命令で私を求めただけだったのだ。真っ先にミカのことを思い出した。私はミヒトに縋れないなら、ミカに縋るだけだ。ミヒトの言った通りだ。私には欲求がない。だから誰かが望んでいることをすることでしか、満足ができない。しかしながら、それの何がいけない?
「ええ。ご主人さまは、ユカリさんにご興味がおありのようなのです」
もう悪い気はしなかった。そのご主人さまとやらが私を求めているのなら、応えるまでだ。誰かのために何かをすることは、美徳だと私は思う。
「今から行ってもいいのよね」
「はい。僕が車を出していますので」
そうして私は、雨をワイパーが切り裂く車で二十分揺られ、ルウ街に入り、ミヒトの主人、ニィネに会った。ワックスで固めた黒髪に、ツガイメギツネ特有の大きな狐耳、ボリュームのある尻尾が揺れている。
「いらっしゃいませ」
ニィネはそう言って、ホストバーで私を迎えてくれた。笑顔がほんの少し歪で愛嬌がある。
「ニィネ?」
先客らしい美しい女性のツガイメギツネが、寂しそうにニィネを呼んだ。
「すぐに戻るよ、ミダさん。ちょっとだけ待ってね」
ミダと呼ばれたツガイメギツネは大層可愛らしく笑って、わかったわ、と言った。
「驚いていらっしゃる?」
別の席に掛け、ニィネは笑いながら私に訊いた。
「ええ。まだ未成年のツガイメギツネが、バーにいるなんて。しかもあのキツネは女の子。妹ってわけでもないのでしょう」
「そう、妹ではないね。危ないって? 大丈夫、ミダさんは少し特殊な生まれでね。送迎もついているし、危ないことなんて何もない」
「そうなのね。それで、私に何の用なのかしら」
緊張から、やや素っ気無い私の返答に、ニィネはまた少し笑った。
「実は、ちょっとお礼が言いたくてさ」
「お礼?」
「昨日、学校で事件があったでしょう」
「女子大学生が亡くなった件?」
「そうそう」
ニィネは独特の笑顔を作った。少し歪で、困っているようにも見える、チャーミングな笑顔だ。
「彼女が殺そうとしたのは僕の敬愛するガレナ先輩でね。ガレナ先輩が、彼女を撃ったタスキ保護官にお礼を言いたいんだって。でもタスキ保護官は謹慎に入ってしまって、どうやっても、僕じゃ保護官に接触できなくてさ。ユカリさんは、タスキ保護官と面識があるでしょう。ガレナ先輩が有難がっていたって、ただ伝えていただきたくて」
「わかったわ。伝えておきます」
「要件はそれだけなんだけれど、どう、何か飲んでいく?」
「まずタスキ保護官にお礼をするわ。そのうちまた挨拶に来ると思う」
「わかった。気を付けて戻ってね」
ニィネは手をひらひらと振った。
「ミヒト」
「はい」
ニィネに呼ばれたミヒトは、運転手だというのに妖酒を飲んでいた。
「ユカリさんをお見送り……」
「それは結構です」
私は遮って断った。さすがに保護官の駐屯所に、飲酒運転の男を連れていくわけにいかない。
「タクシーでも拾うわ。ミヒトさんを警察沙汰に巻き込みたくない」
「じゃあ、タクシー代をお渡しして、ミヒト」
「はい」
「ユカリさんも、それでいい?」
ニィネが覗き込むように私を見た。独特の愛らしい仕草だった。
「じゃあ、そうしようかな」
私の答えにニィネが微笑んだ。皆、この笑顔を求めるのだろう。
ミヒトからお金を受け取り、店を出た。小雨がちらちらと降り続けている。ルウ街のタクシーを利用するのは初めてだった。どう捕まえようか悩んで、店から出てすぐの道路で半端に上がっていた右手を、温かい手がくるんで下げさせた。
「あなた、ユカリさんっていうのね」
先程の女の子のツガイメギツネだった。小雨を傘で避けることなく、美しい黒髪を湿らせている。
「そうよ。あなたは、ミダさんといったかしら」
「ええ。タクシーならこっちに居ますよ」
ミダが背を向けて歩き始めてしまう。私は後をついていった。ミダは清楚な服装だし、挙動も優雅だ。こんな子がホストにはまる理由が、私にはわからなかった。
ミダが立ち止まる。細い路地の真ん中だった。
「ユカリさん。ちょっとお話ししましょうか」
ミダはくるりと振り向いて、後ろに手を組んだ。可愛らしい所作だった。辺りが暗いせいか、ミダの目が大きく見えた。
「ニィネは私を邪魔に思ってる。だから私に殺人罪で捕まってほしいの。でも私はニィネを愛しているわ。ニィネのいちばん近くにいるから、邪魔に思ってもそれは仕方ないの。そういうものよ。だけれど私は邪魔に思われてもニィネの思う通りに動いてあげたい。愛しているわニィネ、健やかなるときも、病めるときも、私、ミダは、ニィネを愛することをここに贄を捧げ誓います」
私に詰め寄りながら一気に話したミダは開ききった瞳孔を隠そうともせず、後ろ手に持っていた刃物で私の胸を思い切り刺した。
ミダが立ち去っていく。動かなくなりゆく手で取り出したスマートフォンで、私はタスキ保護官のアドレスにメールを送ろうとしていた。ガレナと例の女学生の件。しかしながら、件名を打つことすらなく、私は命を手放してしまった。
ふと思う。私の一生とは、即ち浪費そのものだったのではないだろうか。
なぜならば、私は尽くしてきたあらゆる他人に知られることなく、ただここで死んでいくのだから。きっと誰も私を思い出さない。きっと誰も、私の行動を望んでなんかいなかった。痛みはどうでもよかった。ミダに刺された私の胸は、もう生きていたくないと言った。
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