ツガイメギツネ

さし田 マガ

第1話 女、学生、二十一歳

 服を買いに来ているわけではなさそうだ。けれどこのビルには服屋しかない。びんたをするようにハンガーをめくり、トルソーに裸体を晒すよう強いて自分の試着を申し出る横暴は、このビルに居る限り、間違いなく正しい。それが最早フォーマルとも言うべき振舞いだ。

 インフォーマルは、風呂場の窓にとまった油蝉の鳴き声にも似ているその喧騒を、ただ歩くあの女だ。どこかしらのフロアで、紫色をしたローヒールのパンプスによる硬質な音を立てている。その音もまた油蝉の鳴き声に似た破擦音に蝕まれていく。

 彼女を見かけるといつも想像する。サソリになって、骨の浮き出た足首から這い上がっていくうちに徐々に感触が柔らかさを帯び、また骨を乗り越えるとスカートで周りが見えなくなってまるで夜のような雰囲気が訪れ、毒針を突き刺したときに初めて彼女の本性が見えるような気がしていた。

 そしてとうとうその時が来たように思えたのだ。彼女は服を買いに来ているわけではなさそうだ。他の客らと同様に、眼鏡の奥の瞳は生命活動を誇示するように煌めいている。しかしながら、エスカレーターに乗って明かりが減った途端、その瞳は役割を放棄するように半開きに据わったのである。面倒くさい、鬱陶しい。口の動かない彼女の溜息が、そう発音したも同然であった。

「あの、落としましたよ、お姉さん」

 じろりと彼女が振り向いた。緩いウェーブの彼女の髪が迷惑そうに揺れる。厳かなまでに緩慢なひとときだった。こちらに向けられるのは、上へ登っていくエスカレーターの下から見上げるには丁度いい、彼女の黒いワンショルダーバッグ越しの、上からの目線だった。こちらの嘘など見抜いているし、その上でこちらがこれから提示する要求に乗ってもいいし、更にそうなっても何の悔いもないと、彼女は次のたった一言で語った。

「そちらも何か落とされませんでした?」

 形式ばかりに、えっ、と慌てた素振りをして、振り返ってみせた。しかしながらこの隙に全力疾走すれば充分、彼女は人ごみに紛れられる。頭のいいひとだ。仕方なく私は下に続くエスカレーターの段差を見ている。彼女の人生において、ただの変な女学生としてでも関われて幸せだった。

 案の定、賑わう売り場に対して人の少なすぎるエスカレーターには、何も落ちていなかった。そして振り向けば彼女はいなくなっていた。残っているのは、上段でエスカレーターを上っていく、私が置いておいた五百円玉だ。彼女が落としたことにするつもりだった。無様に腰をかがめて拾う。スーツの胸にある内ポケットに戻しておいた。

 段々と、これ以上変な学生になるのも癪になってきた。私の人生における彼女は、走馬灯の映画の中で一厘の分量にも満たず死んでいった、顔かたちと性格が愛らしいだけのキャラクターだったのだ。名前すら宛がわれないに違いない。

 そのような彼女の死に際はさぞ孤独なものだろう。あのような女が、神を気取って、多くの弟子に囲まれた時に足を拭ってやるとは到底思えないのだから、腐食した木目の天井を見ながら、そして劣化した思い出の中の私を思い出しながら、死んでいくに違いないのだ。

 記憶の汚れを落とそうとパンプスで床を蹴ろうとした。その瞬間を悲鳴がつんざいた。私にだけ聴こえるような、ささやかで厭らしい悲鳴だ。そちらへ足を向ける。やっぱりだ。黒い服、雑に染められた派手な原色の髪色をした麻呂眉の男のすぐ横で、現代日本におけるハロウィンと中世貴族のつもりのゴシックを混ぜ合わせた服の魔女が、壁に貼られたメイクの濃い、ピアスだらけの男たちを指差して全力で笛を吹くような声をあげている。あの魔女が契約したのはそこの麻呂眉男なのだろうか。その魔女が、膝上まで来る編み上げられたレザーブーツを脱がされるところを思い描く。ゆくゆく魔女のほうはそのまま別の麻呂眉と契約しそうだし、麻呂眉のほうは麻呂眉のほうで、捧げられる処女という処女を喰らっている癖に、互いにそれを責め立て、契約を終えるのだろう。

「ちょっと」

 油蝉の喧騒の中でも、自分宛の言葉というものは脊髄を射抜いてきた。なるほど不意討ちであれば一言で人を殺せるのかもしれない。そうは言っても今日日では、頭のいい者から死んでいく。頭だけでない、どこかしらいい所を持っている者から死んでいく。

「そこから上のフロアは立ち入り禁止だよ」

 面倒くさそうな声で、面倒くさそうな存在感をした、中年の警備員が声をかけてきた。前を見れば確かに、いつの間にか相当高い階まで上ってきていたエスカレーターの前に、つがいの赤いポールが手をつなぎあって通せんぼをしている。そんな子供の悪戯のような通せんぼは蹴り破ってやりたかったが、屈強な男性の警備員まで蹴飛ばす勇気も理由も私にはなかった。すごすごと、すいません、と、すまない気持ちを雑に崩した、もはや謝っているのかも判らない言葉を投げた。

 もういちどポールの通せんぼを見た。フロアを貸し切った輩がいるらしい。周りを眺めると、確かに人が多い。全員が、最上階への抜け駆けをしようとしたと、私を見ている。とても嫌な気分になった。私はお前たちの趣味趣向など知ったことではないし、その思いを略奪するつもりもない。だからその無遠慮な、敵を見る眼差しをそらしてほしい。

 しかしながら、私が興味を惹かれざるを得ないフレーズが聞こえてきた。ミカ。そこの小太りの女は今、確かにミカと言った。私はその女に詰め寄った。就職活動用の飾り気のないパンプスで、逃がさないと言うように女を壁際に追い詰める。隣にいたニーハイソックスの女の連れが呆然と私と女を見ている。女はエスカレーター側部のガラス張りの壁まで後ずさって、逃げ場がないことを知ると強気に私を睨んだ。そして震える声で言う。なんでしょうか。

「ミカって、言いましたよね」

 私の声も無様に震えた。女は無言で息を詰めている。

「ミカが上の階にいるんですか」

 女はまだ答えない。

「ガレナも来ているんですか」

 女が連れと顔を見合わせる。

「あの、ミカさんのファンのかたなら、下で整理券を配っているので、あの、明日のトークライブが……」

 気の利く連れだ。怯えた風に遠慮がちに私に教えてくれる。私はありがとうとだけ残して下に降りかけた。そこでふっと思い立ち、振り返ってその連れに、胸の体温でぬるくなった先程の五百円玉を渡した。

「チップで」

 周り全体が呆気に取られていた。それでもよかった。私はガレナにどうしても会いたい。芸能界に君臨する獣人アイドルのミカ、その弟の、あまり知られてはいないガレナ。ミカはガレナの話をほとんどしないし、ガレナもミカのように有名になろうとは思っていない。だが、私はガレナについて知らなければならない。大学で『ツガイメギツネ』の生態について研究しているし、次のレポートの締め切りが間近なのだ。タイトルは、『ツガイメギツネによる殺人について』。

 ミカもガレナもツガイメギツネだ。おおよそ二十歳を超えることのない、ヒトと比較すると短命な、ヒトのなりをしている、キツネの耳と尾のついた動物だ。

 ミカとガレナが行動を共にすることは珍しい。ツガイメギツネは基本的に一緒に行動するのだが、ミカとガレナはどうやら意識して別々に行動している。そのミカをレポートの題材にしてもよかったのかもしれないが、私が思うに、黒はガレナだ。劣等感を抱く人格ほど、殺人に鋭敏だ。

 今回ミカがこのビルに来ることを、私は知らなかった。私もまた、ミカと接触することを避けていた。私はガレナが黒だと踏んでいる。それをミカに悟られては、ガレナに接触できない。握手会やトークライブには行ったことがない。あくまで本命はガレナなのだ。それにミカは、芸能関係の仕事をしていることもあり、接触自体が意味をなさないだろう、とある変なファンのひとりだと済まされてしまうだけだ。私はガレナに、人を殺したいと思ったことがあるのかどうか、訊かなければならない。

 となると、今日は、ガレナが一緒に来ているはずだ。ミカは人を好む。トークライブの前とはいえ、フロアを貸し切って悠々と買い物をするタイプではない。ミカはもっと、好奇の視線を受けることを好む。珍しい白い毛並みで生まれてきてしまったミカは、好奇を利用して、のし上がってきた。一方ガレナは、同じ白い毛並みでも、目立たぬよう目立たぬようにと好奇から逃げ、生きてきた。ミカが人を払ったということは、それは珍しく共に行動する、十七の誕生日を迎えたガレナのためなのではないか?

 ご来店中の皆様にご案内いたします。変ににやついたような独特のアナウンスが流れ、油蝉のようだった喧騒が一瞬やんだ。油蝉たちが何かを待っていることを語っている沈黙だった。

 そこからは酷い有様だった。警備員に守られながらミカがにこにこしてエスカレーターを降りていく。黙りこくっていた油蝉どもが一斉に喚きだして、嫌な気分になった。人波が暑い。騒ぎが終わるまで遠巻きにその醜さを眺めることにした。しかしながら、いつまで経ってもガレナが降りてこない。私の読み違いで、ミカは気まぐれによりフロアを貸し切って、買い物を楽しんでいたとでもいうのだろうか。

 しばらく待った。営業時間の終わりを告げるアナウンスまで待った。ミカを見終えた人間たちが騒ぎながらエスカレーターを降りていった。一方私はまるでマネキンの真似をしているようだ、通り過ぎる人々は一瞬私を邪魔そうに見て、避けていく。とうとう警備員がこちらに来た。しかしその奥にあの女がいた。今日はたくさんの女がいた。けれどその中でも私が重きを置いている女だ。紫のパンプスで、人がはけたエスカレーターを、ガレナと共に降りてくる。こちらをじっと睨んで、オートマティックに降りていく床の上で、彼女が私を見た。先程と同じ、上からの視線だった。けれど今度は、あの時の無関心な視線に反して、殺意にも似た嫌悪を感じた。退け。視線がそう言っていた。彼女は今、私がこのビルに居ることを許していないのだろう。

 女はガレナに目配せをし、私のほうに歩いてきた。ガレナは心配そうにこちらを紫の瞳と白いまつげで盗み見ながら、しんとした夏の夜のエスカレーターを降りていく。女はとても魅力的だった。紫のパンプスが硬質な音を立てる。浅くスリットの入ったグレーのスーツを脚の僅かな肉で割り開きながら、こちらへ来る。

 女はただ言った。閉店時間ですので。ただそれだけだった。私は何度もその言葉を反芻した。閉店時間ですので。完全文は何だ。閉店時間ですので。省略された文章が、私を引っ掻く。痛痒い。生意気な声。見下した目線。紫のパンプスには爪先に僅かな傷がある。冷汗がこめかみを伝うことすら鈍い感覚だった。私はお辞儀をしているのだった。何の言葉も相応しくなかった。

 何秒堪え切ったか、顔を上げると、女はいなくなっていた。代わりに警備員が、閉店ですよと言った。女に比べて随分とすっきりした文章だった。女は、閉店時間ですので、と、私に言う筋合いはないのだった。女はこの店に関係がない。私があの女を追いかけていたのは、あの女が常にガレナの傍についているからなのだ。だからこそ、あの女が省略した文章を知らなければならない。そう思ってさえいれば、堂々と彼女を追いかけることができた。彼女が魅力的なことは、私は自身に対して無視し続けなければならなかった。そうでなければ、何か大変なことをしでかしてしまいそうだった。

 すごすごと私もエスカレーターを降りる。ガレナはおろか、紫パンプスの女にももう追いつけないだろう。それでもよかった。紫パンプスの傷を眺めていた一瞬のリプレイングは、何にも代えがたい幸福のひとときだった。口元がにやにやとしているのが自分でもわかる。あの女の紫のパンプスには傷がある。

 ファッションビルを出ると、本物の油蝉の音がした。街路樹で喚いているのだろうか。生殖のために、なりふりを構わず叫び散らす様は嫌いになれない。普段はやかましくて嫌いかもしれない。今の私はとても機嫌がいいのだ。そんな中、私は呼び止められた。

「あの、さっきのお姉さんですよね?」

 見ると、小太りの女とニーハイソックスの女がいた。先程、ミカの話をしていた二人組だ。

「なんでしょう」

 普段ならば無視していたが返事をした。今の私は機嫌がいい。ちょっとした信号無視の車くらいは許せるだろうか。

「さっきの五百円、ありがとうございました。これ、二つ買うとおまけしてくれるパン屋さんのなんです。ひとつ召し上がりませんか」

 小太りの女が顔色を窺うように、チョコレートクロワッサンを差し出している。確か一個三百二十円のクロワッサンだ。女たちの夕食の足しになったということだろう。小太りの女がますます太らないよう、もらうことにした。それに今、私は自分でわかるほど気が大きくなっている。

「ありがとう」

 受け取ると、ニーハイソックスが情報を付け足した。ミカもここのパン屋さんが好きなんですよ。

「あと、マネージャーのナズナさんが、ガレナにも買っていってあげることもあるみたいです。ガレナにはちょっとでも会えましたか? さっきお姉さん、ガレナって言っていて、気になっていたんです。今しがた、ガレナがちょっと見えたんですよ」

 小太りの女が警戒を解いたようにへらへら、べらべらと喋った。やけに声が高い女だ。私は紫パンプスの声を忘れないよう何度も反芻した。閉店時間ですので。

「ナズナさんって、紫のパンプスを履いている?」

「パンプスの色は……ちょっとわからないですけれど、今日はグレーのスーツでしたよ。ぴっちりしていて、できる秘書みたいな」

 心のささくれ立ちに化粧水を塗るようだった。小太りの女がナズナの話をするのはたまらなく不愉快だったが、ナズナという名前を知ったことや賞賛の言葉は心地が良い。ナズナ。ガレナを追いかけているうちに自然と目にする機会の多かった、美しい人。本性の見えない、不思議な人。それは職業柄なのか、彼女の性格なのか、私は彼女を何も知らない、私は彼女のすべてを知りたい。

 二人とは、SNSのアカウントを交換して別れた。ひとり暮らしの自宅に帰ってからチョコレートの溶けかかったクロワッサンを食べた。紫パンプスの女を思い出して食べれば美味しかった。ガレナを思い出してかじれば、味がしなくなった。私はガレナに嫉妬しているのであった。紫パンプスの女の傍で、いつもいつも、このクロワッサンを食べているのだ。あまつさえ買いに行かせているとしたら、憎々しくて仕方ない。私は書きかけのレポートの積まれたファイルの小山を見た。ツガイメギツネによる殺人について。皆、私のレポートのタイトルを笑うけれど、気にならないのだろうか。人格のある命が、愛され可愛がられているだけで満足するなどという都合のいい話を信じるのか。それは、その人格を軽んじていることに他ならない。

 時間は二十三時を回っていた。考えがさえる時間帯だ。ニーハイソックスの女が言っていた。明日のミカはトークライブだ。ならば、ガレナは独りで『学校』へ通うのではないか?

 ツガイメギツネと人間の共存関係は、学校システムが主軸である。人間はツガイメギツネに一定の土地を与える。キツネたちはそこを学校とし、日々通学する。

 そして、人間はツガイメギツネの『保護官』を設ける。恐らくナズナは保護官だ。ツガイメギツネの安全を約束し、人間とキツネたちをつなぐ架け橋である。この都会では、キツネたちを悪いことに、例えば狩って皮をはいだり、閉じ込めて飼おうとしたり、非人道的な実験をしようとしたり、そういうことに使おうとする輩がいる。そういった悪の手からキツネたちを守る職業である。

 そういった、学校、保護官の存在により、人間とツガイメギツネは良好な関係を築いている。警備が薄いということだ。明日の朝、ガレナの学校に、大学のレポートの参考にしたいと電話でアポイントメントをとってしまえば、簡単にガレナを捕まえられるだろう。

 今まで現実感のなかったナズナに今日触れてしまって、何かがおかしくなっていた。ガレナを追いかけているうちに知った、美しい人だ。美しさは私を狂わせた。それも全部ガレナのせいだ。発端はガレナなのだから、ガレナが責任を取るべきだ。そんなことを考えながら、浅い眠りで孤独を味わった。

 そして翌朝、予想通り、学校には簡単にアポイントメントがとれた。学校に向かうと、二匹のキツネの出迎えがあった。学校には統率者が居るものだ。そういった立場のキツネなのだろう。電話口と同じ声で、ようこそいらっしゃいました、とにこやかに微笑んでいる。

「本日、つがいで登校していないのは一匹だけなのですが、そのキツネで問題ありませんか?」

「はい、お忙しいところお時間をいただきましてありがとうございます」

 私もにっこり笑ってみせた。キツネたちは無邪気にけらけらと、大丈夫ですよ、と笑った。

「今日は、保護官のかたはいらっしゃらないんですか?」

 私の問いに、キツネはほんの少しの不信感を持ったようだった。困ったように、おりますが、と言葉を濁す。

「では、なにとぞ面談にご同席くださいませんでしょうか。私の質問に、答えない権利もあると分かったほうが、お互いやりやすいでしょうから」

「ああ、申し訳ないのですが、保護官には我々は意見できないのです。お伝えしてみますが、ご意向に沿えない場合もございますことをご了承くださいませ」

「いえいえ、気にしませんよ。差し出たことを申し訳ありませんね。ありがとうございます」

 ナズナに会いたかったのだが、そううまくは行かない。

 このキツネたちはいい統率者なのだろう。丁寧で明るい雰囲気だ。自然とひとの心を安らがせる。私も緊張が緩む。どんな段取りで話を進めようかを歩きながら考えた。保護官は恐らく、私を見張るだろう。同席しないのならば、それはいい保護官だ。形だけ傍にいて、真のところは何もできない保護官よりずっといい。ここのツガイメギツネは愛されているに違いない。少しの羨望がある。出自のみで愛されるのは、どんな気分だろう。

 温和な雰囲気で学校の教室に通される。今日は機械の授業のようだ。キツネたちが二人一組で、パソコンを操作している。その中から、ガレナが白いショートヘアの奥の遠慮がちな紫の瞳で、こんにちは、と私のほうに来た。

「ガレナと言いま……」

「人を殺したいと思ったことはありますか?」

 答えはいらない。沸き立つ憎しみに駆られた。昨日からずっとこの時を待っていた。お前が。お前がナズナをこき使っていいわけがない。お前が居なければナズナは危険な仕事をしなくてもいい。これからナズナが死んだらお前のせいだ。ナズナが死んだら私も死ぬから私が死んでもお前のせいだ。ナズナを寄越せ。私はポケットの中の眉ぞり用カミソリでガレナに切りかかった。ガレナが驚いている。発砲音があった。保護官だ。私の手が撃ち抜かれる。警備服を着た保護官がドアの外から私を狙っている。しかしナズナではない。男だ。腕っぷしでは敵いそうにない。もうガレナを殺めるのは難しいだろう。ナズナが来ているのならば心中も考えたが、ナズナは居ないようだ。ならば尋問されるのも御免だ。私のこの想いは訊かれて答えられるものではない。私は無事な左手で血だまりの中のカミソリを取り直し、自分の首の脈を掻き切った。

 キツネたちが混乱して騒いでいる。最期まで自分が本当に死んでいるとは思わなかった。何も手にできない人生だった。何を手にしていれば、自分は満足して死んで行けただろう。地位だろうか、名誉だろうか、あの紫のパンプスの女だろうか。

 それに、私は何に殺されたのだろうか。紛れもなく人の手で手を撃ち抜かれていた。しかしながら、私を殺したのはガレナだ。私は間違いなくガレナに殺された。

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