明日に向かって仕込め
朝霧JAMの行われる朝霧アリーナは、標高900m近くに位置する広大な芝生の広がる自然公園だ。その標高のため、昼夜の寒暖の差が激しい。朝方には「朝霧」の名前の由来ともなっている霧が発生する事も珍しくない。
夜ともなれば、昼間の気温と打って変って冷え込み、その冷たく澄んだ空気の上には、満天の星空のカーテンが広がる。遮る建物や電線が全く無い夜空の星は、手を伸ばせば届きそうなほどに近く、燦然と輝いている。その星空の下、コータはひたすら謝っていた。
「ええ、すみません! 角煮は売り切れてまして。チキンライスだけならできるんですが……」
「申し訳ないです。いま、ちょっとバーテンが外してまして、ホットワインだけならご提供できますが……」
ツムギたちがトラブル対応に向かってからすぐ、コータは試しに1つカクテルを作ってみた。ジンとトニック・ウォーターを混ぜ合わせてカットライムを乗せるだけのジントニック。それをトビセに飲んで貰った所、びっくりするくらいおいしくないと言われ、早々に作るのを諦めたのだ。
既に夜の部の一組目のアーティストの演奏も終わり、時刻は20:00といったところ。メインステージで演奏するのも残り一組だけだった。流石にこの時間になると、ご飯ものを注文するお客はほぼいない。お酒を扱っていない店舗の中には、店を閉めている所もある。
「コーちゃん、ウチも閉めちゃわない? ホットワインと“ごめんなさい”しか無いんだし」
「うーん、夜はバーやるって申請した手前、そういうわけにもいかねーだろ。けどなあ……お客が来てもやる事ねーのは事実だしなあ。よし、ミナミとトビセは上がっていいよ。ヤスだけは念のため付き合ってくれ」
「うん。OK」
ヤスが頷き、ミナミとトビセはどうしようかと相談をしているようだった。
「そうだ、2人共、ステージ見ないなら温泉でも行ってきたらどうだ? 風呂施設は無いけど、温泉なら近くにいくつかあるからな。ミナミが場所分かるだろ?」
「温泉! ミナミちゃん、行ってみようか。あ、でもどうせならツムギちゃんとも一緒に入りたいし、少し待とうか」
「はい! どうせなら3人で行きましょう。フフフ……美人バーテンと新婚若妻と温泉。両手に花ですなあ。ヌフフフ」
コータがミナミとほっぺたの掴み合いをしているうちに、シンタとツムギが帰って来た。トビセは、早速温泉の件をツムギに話しているようだ。
「よう、トラブルは解決できたのか?」
「ああ、できたにはできたんだけどな。……コータ、ちょっといいか」
シンタは珍しく深刻そうな顔でコータをテント脇へと誘い、声をひそめて話す。
「実は、トラブル起こした客って、大久保さんだったんだわ」
「大久保さん!? って、あの市役所の?」
「ああ。大分酒も入ってたみたいでな。触ってないだの、冤罪だの、しまいにゃ俺は関係者だとかなんとか言って大騒ぎでな。なんとか諭して謝らせて、被害者の方にも納得しては貰ったんだけどな」
「マジか。何やってんだあの人は」
コータはあきれ果ててため息をついた。
「まったくだ。でな、その時あの人、ムギちゃんに妙な絡み方をしてたんだ。なんだか知らねえけど思わせぶりで、やけにギラギラした目で見ててな。お前も気を付けてやってくれ」
「なんだそりゃ。わかった。俺も気を付ける。シンタ、ありがとな」
シンタがコータの肩をポンと叩くと、相談がまとまったトビセたちがやって来た。
「小関、温泉行こうって話になったんだけど一緒に行かない? てか、車お願いしていい?」
「温泉? おーいいじゃん。コータ、店はもういいなら連れてくけど、大丈夫か?」
「ああ、今日はもう俺とヤスだけでいいや。ツムギ、折角だからお前も行ってこい。後でまた、明日の仕込みの手伝いだけしてもらいてーから、先に風呂済ましちゃっといてくれ」
「はい、じゃあ行ってきますね。ヤスさん、あとはお願いします」
「了解。お疲れ様ー」
コータとヤスの2人で店番をする事になったが、相変わらず客足は鈍かった。のんびりと閉店作業や片付けを行い、雑談をしながらたまにホットワインを出す程度だ。
「今日はこのまま終わりかな。ヤス、ありがとな」
「うん。割と心配してたけど、売れて良かったね。角煮丼とトムヤンクンなんて完売じゃん」
「それな。心底ホッとしてるわ。トム
「いやいや、北条氏政に感謝してよ」
「わかった。今度お礼言っとくわ。……にしても、チキンライスは結構廃棄になっちまったなあ」
コータは、クーラーボックスを開け、中に廃棄してあるチキンライスのパックを、残念そうに見つめている。
「それなんだけどさコータ君。チキンライス、結構オーダー入った時に出せない事あったじゃん」
「ああ。やっぱ、まとめて来られると対応できないんだよなあ」
「うん。それが歩留まりになっちゃってるみたいだったからね、たぶん、時間によって準備しておく数をもっと極端に変えた方がいいと思うんだ。そうすれば出せなかったり、廃棄する数も減らせると思う」
「おお? なんかアイデアあるのか?」
そんな雑談をしているところへ、ふらりと隣のテントから長田がやって来た。
「やあ、コータ君、今日はお疲れ様。そろそろ閉めるのかな」
「長田さん、お疲れ様です。はい、みっともない話ですが、売る物が無くなってしまって……自信が無くて弱気の発注したのも災いして、大失敗しました」
「いやいや、それでも完売するというのは大変な事だよ。おめでとう。じゃあ、明日の仕込みも頑張らないといけないね。これから家に戻ってやるのかい?」
「いえ、実はここから5分もしない所にある、デカいキッチンのある施設を大久保さんが紹介してくれまして、そこでやるつもりです」
コータの説明に、長田は怪訝そうに首をひねった。
「大久保さんが? 我々が近くの市の施設のキッチンを使わせて欲しいと頼んだ時は、よくわからない事ばかり言って、結局使わせてもらえなかったんだがね。どうもあの人のやり方には困ったものだね」
「そうだったんですか。すみません、なんだかウチだけズルしてるみたいで」
「いやいや、コータ君が謝る事じゃ無いよ。むしろ、今回のフェスで大久保さんが初めて良い仕事をしたくらいだ。遠慮する事ない。どんどん使って明日もうまい飯を提供しようじゃないか。じゃあ、私はこれで」
「はい! お疲れ様でした。明日もよろしくお願いします」
コータは長田に向かって頭を下げる。時計を見ると、夜の21:00を過ぎていた。ステージでは、初日トリのアーティストのパフォーマンスが佳境に入り、皆が楽しそうに踊っている。
「ねえ、コータ君、この後仕込みに行くんだよね」
「ああ、そろそろ行こうかと思ってる。トリが終わるのが22:00か。そうなると、ドリンク目当てのお客が増えそうだけど、来てもらって対応できないのも悪いしな」
「じゃあ、僕もそれ手伝おうか。コータ君、昨日も寝てないんでしょ? 少しでも早く終わらせちゃおうよ」
「いいのか? 正直助かるわ。んじゃ、行くとするか」
コータは店舗テントの幕を締め、いくつかの食缶とクーラーボックスをワゴンに乗せて駐車場へと向かった。その道中では、スタッフがたき火の準備をしている。
「うわ、たき火。いいね、ああいうの」
「ああ。ちょっとした名物らしいな。あの周りにベンチ置いて、皆で暖採りながらドリンク飲むんだよ。朝霧JAMはオールナイトで盛り上がるフェスじゃあないけど、こういうところでまったりできるのがいいよな。ツムギの話じゃ、他の夏フェスに参加した人同士が、ばったりたき火で再会して、その年のフェス談議に花を咲かすなんて事もあるらしいぜ」
「へえ、そうなんだ。じゃあさ、明日終わったらさ、皆でたき火囲んで飲みたいね」
「あー、いいなそれ。キャンプエリアの方でもデカいキャンプファイアやるみたいだしな。よし、そうするか」
そんな話をしながらヤスとコータは駐車場へ向かい、車に食缶を積み込んでキッチンへと出発した。
◇ ◇ ◇
「うっわ、何この白い塊!」
キッチン内では、角煮丼の入っていた食缶を開けたヤスが驚いて声を上げていた。コックスーツとキッチンシューズに着替えてきたコータが、その声を聞いて得意げに笑う。
「フフフ。見てしまったかヤス。それが豚の背脂、ラードだよ」
「うわー、こんなに入ってるんだ。フタみたいになってるじゃん」
「ああ。豚の脂は割と低い温度で溶け出すけど、冷めればすぐに固まるからな。朝霧の夜じゃなおさらだ。ホイ、手洗ってこれ着けて」
コータはヤスに調理用のビニール手袋を投げて渡した。少し長めの肘程まであるタイプの物だ。
「ありがとう。やっぱ衛生管理のため?」
「それもあるけど、まあ、やってみればわかるさ。んじゃ、早速始めるか。まずは煮る時間のかかる角煮から切るか!」
2人は冷蔵庫に保管してあった豚バラブロックを取り出し、手分けして切り分ける。2日目の分量は、半日分だけ作ればいい初日と比べ、単純計算で倍近くになる。相変わらず豚の脂は分厚く、すぐに包丁や手袋がベタベタになる。
「凄い! コータ君! すぐに包丁が切れなくなるよ! 戦国時代、刀で人を斬る時には3人くらい切ると脂肪が付着してまともに切れなくなったって言うけど、本当かもしれないね!」
「包丁の切れ味が落ちてはしゃぐ奴始めて見たわ。洗い流しながらやってみてくれ」
「うん、わかった」
ヤスは包丁を持って脇のシンクへと向かい、蛇口をひねった。
「あ! 待ったヤス! 洗う時は水じゃなくて……ああ、遅かったか」
「なにこれ! 余計ベタベタして真っ白になるんだけど!」
水洗いした包丁では、冷たい水に触れた脂が固まり、うっすらと白くなって付着してしまっている。同じように脂の付いていた手袋も、真っ白くなっている。
「悪い、冷えるとそうなるんだ。だからお湯で洗い流しながらやるんだけど、先に言っときゃよかったな。あ、あとヤス、足元気を付けろよ。冷えた脂が落ちてると、キッチンシューズでも履いてなけりゃ……」
「うわっ!」
コータが言った傍から、ヤスは足を滑らせて態勢を崩した。慌ててコータが駆け寄り体を支える。
「履いてなけりゃ滑るって、これも先に言っとくべきだったな。悪い悪い」
「びっくりした。助かったよ。こんないろんな角ある所で転んだら危ないもんね」
「包丁持ってる時なんて特にな。んじゃ、続けるか。手袋は新しいの使ってくれ」
若干のトラブルはあったものの。その後は順調に作業を続けた。豚バラを切り分けて焼き固め、寸胴に入れて下茹でを行う。ヤスは卵の殻に穴を開けて鍋に放り込んで火を点け、コータはジップロックを熱湯消毒してむね肉に切れ目を入れる。さらに、ゆで卵をあげるボウルを用意して氷を入れていると、キッチンにツムギがやって来た。風呂上がりの上気した顔なのに、割烹着にキッチンシューズという出で立ちが、なんだか妙な取り合わせだ。
「温泉頂いてきました。気持ち良かったー。ヤスさん、ありがとうございます。後は私が手伝いますので、ヤスさんも温泉行ってきちゃって下さい。車でシンタさんも待ってますので」
「そうなの? じゃあ、行ってこようかな。コータ君、大丈夫?」
「おう、角煮を煮始められたからあとは問題ねえ。ありがとな。助かったよ」
「うん、じゃあ行ってくる」
コータがツムギに仕込みの状況を説明していると、後ろからドアを開ける音と共に、「うわっ」というヤスの声と、尻もちをつくような音が聞こえて来た。
「なんだよヤス、今度は本当に転んだのかよ。気をつけねーと滑るって……」
振り返ったコータはそこで言葉を止めた。尻もちをついているヤスの目の前には、ドアを開けて不気味に微笑んでいる大男の姿があった。
「誰だ? シンタか? いや……大久保さん?」
その姿はまぎれもない、市役所職員、大久保の物だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます