第2話 大家さんのお話

翌日の朝、大家さんに電話をかけた。あの子猫はまだ寝ている。疲労というか、不安がたまっていたのだろう。小さい体の中に必死に押さえ込んで、勇気を出して頑張って生きようとしていたのだ。


大家さんとは二年半もの間会話をしておらず、そのせいか少しだけ指先が震えた。緊張しているのだ、柄にもなく。もしかしたら俺のことなどとっくに忘れていて、連絡先からも消されているのではないかと不安が広がる。それを紛らわすように寝ている子猫の額を軽く撫でた。俺にお前の勇気を分けてくれよ。

不安と煩慮とは裏腹に、二回目のコールで電波はつながった。


「はい、大家です」

「もしもし、大家さんですか。柏木です」

「……柏木?も、もしかしてりっくん!?」

「ええ、はい。お久し振りです」


電話越しでも驚いているのが良く分かる。そりゃそうだ。二年半も連絡が途絶えていた人がいきなり連絡をよこすなんて、俺でも驚く。それにしても懐かしいな。りっくんか。五年前初めて会った時〝凛空だからりっくんね〟と強引に決められた呼び名。

当時はこの年にもなってその呼び名は子供っぽいなどと思っていたが、今はむしろ有難く思える。職場では名前すらまともに呼んでもらった覚えがないからな。単純とは言うなかれ名前を呼ばれるだけで、ここに俺はいるんだと実感できる。あぁ、気を抜いたら泣いてしまいそうだ。


「懐かしいわねぇ。私が旅行に出てからもう二年ぐらい経つのかな」

「正確には二年と半年ですね。というか大家さんの場合、旅行というより旅の方がしっくりきますよ」

「確かにそっちの方が良いわね。格好いいし」


別に格好良さは必要ないのではと心の中で突っ込む。この人は昔からよくふらっといなくなって、気がついたらそこにいるみたいな放浪癖があるのだ。それが重症化し、日本全国を旅するんだとかなんとか言い残してアパートを出ていった。正に現代の松尾芭蕉である。


「それで一体どういう要件かな?私に電話をかけるくらいだからよっぽどなんでしょう?」

「ええっと、単刀直入に聞きます。アパートで子猫を飼うのは大丈夫ですかね?」

「えぇ、別に何の問題もないわよ」

「あぁ、やっぱり無理ですよねってすみませんもう一度お願いします」

「だから、別に飼っても良いわよ。子猫ぐらい」


何と寛大なお人なのだろうかこの大家さん。近年ペット不可のアパートが増えてきているというのに二つ返事で許可を出してくれるなんて。本当に有難い。


「ありがとうございます!」


誠心誠意、心の底からお礼を言った。


「全くそんな問題なんて愚問よ、愚問。りっくんが飼いたいって言うんだもの。反対はしないわ」

それに、と一区切りして大家さんは続ける。


「それに、どうせりっくんの事だからその子猫拾ったんでしょう?もっと詳しく言うなら、会社をクビなって現実逃避をしているときに拾った子猫だったりするんじゃない?」

「……はい。全く持ってその通りです」


この人は超能力者か何かなのだろうかと、しばしば本当に思う時がある。今も五年前と変わらず俺の行動が筒抜けなのか、それとも大家さんが凄いのか。まぁ、普通に考えれば前者だろうな。自分では全く自覚がないのだが。それにしても、俺が会社をクビなったことを何故知っているのだろうか?


「あの、大家さん。何で俺がクビなったの知ってるんですか?」

「あぁそれね。課長の新富舞彩しんとみまいっていたでしょう?剣の舞の舞に彩色の彩って書くんだけど……」

「あぁ新富課長ですか。確かに入社したころからお世話になってますけど、大家さんと一体どんなつながりがあるんですか?」

「私と彼女は中学からの知り合いというか、腐れ縁なのよね。最近でも良く連絡取り合ってるんだけど、そしたら昨日大泣きしながらりっくんがクビになったことを言ってきてね。もう私ビックリしちゃってさ。上司の私は部下を守り切れなかった。謝罪しても遅いが一言詫びたい、って言ってたわ」


別に謝られることではない。ただ単純に俺の運が無かっただけなのだ。もしかしたら技術も足りていなかったのかもしれない。俺にも改善できた点はいくつもある。それを俺が見落としていただけの事であって、課長が気に病むようなことではないと思うのは、決して間違ってはいないだろう。


「そんなつながりがあったなんて意外ですね。でしたら俺は大丈夫ですって課長に伝えて下さい」

「了解りょーかい。それにしても舞彩が泣くなんてねぇ。よっぽどりっくん気に入られてたんだね」

「そうなんですかね?」

「うん絶対気に入られてるね。だって舞彩が泣くなんて珍しいもん」


新富課長が泣いている姿は確かに想像できない。会社でも一人で淡々と仕事をこなしていて、一言で例えるならメスのように鋭いとまでは言わなくとも、よく切れる日本刀のような感じだった。自分の敵はサクッと、一刀両断してしまいそうなイメージがある。多分心を開いてくれたらいい人なんだろうけど。


「まぁ舞彩の事は良いとして。私もあと半年ぐらいしたらそっちに戻って来れそうだから、その子猫帰ってきたら紹介してちょうだいね」

「分かりました。そういえば、今どこにいるんですか大家さん?」

「ここは青森ね。林檎が美味しいわよ」

「それは良いですね」

「持って帰って来るわよ。半年後を楽しみにしてなさい」


えぇ、では。と言い通話を切ろうと耳から離したら、あぁちょっと待ってと、慌てた声が聞こえてきた。

一体何だろう。言い忘れたことでもあったのだろうか?


「ちなみに私のアパート、あれから入居希望者とか増えたりした?」


少しだけ希望を持っているであろうその問いに俺は、今も昔もいませんよとだけ返した。

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