同じく咲かぬ桜 中
神崎律はポスターを見上げていた。
アパートに帰って死んだようになって眠る。起きるのは朝九時前後で、カーテンの隙間から朝の光が射し込んでいる。キッチンに放置されていたミネラルウォーターを飲み干し、煙草に手が伸びた。中身は空だった。
神崎は苛ついたようにケースを振って、ゴミ箱に放る。完全にニコチン中毒だ。
「煙草……」
眠気の覚めない口から出た言葉。眠ろうかどうか考えたが、どちらにしろ今日は仕事はない。因みに冷蔵庫の中も何もない。
着替えて家を出た。さくら祭とは言うものの、桜の蕾はまだ固い気温。眠気を誘う温度に欠伸を噛み締め、家の目の前にあるパン屋で朝ごはんを買った。
コンビニでサラダを買って、店を出る。駅の向こうでさくら祭が行われるらしく、駅前も装飾が派手になっていた。神崎は飲み会のことを考えながら歩いていると、ちょうど横を通った女性が前から来る男とぶつかって、持っていた荷物を下に落とす。男がそれを見下して舌打ちをして行ってしまう、という一部始終を見た神崎はその男を見届けてから、しゃがんで荷物を集めた。
「どうもありがとう」
その女性はとても妖艶だった。神崎は一瞬で夜の仕事をしている人間だと感じる。神崎よりも年上だと思われるが、とても綺麗な女性。世に言う美魔女のような。
落ちたのは生のオレンジやカットフルーツ。店で出すものだろうか。
「半分運びます」
「ええ、悪いわよ」
「でも両手塞がってたら、また落としても拾えない」
神崎は彼女の片手に持っていた袋を持ち上げる。彼女はそれ以上は断らずに笑んだだけだった。
「じゃあお願いしようかな」
二人で大通りを歩く。その先にある繁華街に入ったところのビルの中に、彼女の目的地はあった。クラブ エトワール。
「私のお店なの」
彼女は店の扉を開けて中に入ると、神崎を入れてくれた。
「本当にありがとう。お茶でも飲んで行って」
「そんな、いいです」
「あら、少しは話相手になってくれても良いんじゃない?」
神崎から荷物を受け取り、カウンターになっている場所へ案内した。前の上司とキャバクラへ行ったことはあったが、クラブに来たことはなかったな、と思い返す。がらんとした店内からその違いを見てとれるわけもなく、神崎はスツールに腰かけて、お茶が出てくるのを待った。
「あなた、もしかして水商売してた? なんかこっち側の匂いがする」
「いや、前は金融事務所の雑務を」
この前も同じ話を園柄とした。コースターとグラスに注がれたウーロン茶がカウンターに置かれる。
「ああ、グレーな商売ってことね。私はナツノっていうの、よろしくね」
「神崎律です。どうも」
「神崎さん、ひとつ忠告してあげる」
ストローからウーロン茶を飲んでいる神崎の鼻先に指がちょんと触れる。ナツノが妖艶に微笑んだ。
「知らない人に、簡単について行っちゃだめよ」
「……ナツノさんって、あたしの母親になんか似てます」
外見も声色も全く似ていないが、その佇まいが似ていると神崎は感じた。
「お母さんと一緒に住んでるの?」
「亡くなったので、一人暮らしです」
「頑張ってるのね。今のうちに良い男捕まえて早く結婚しなさいな。期を逃すと私みたいに店持っちゃうわよ」
ナツノはお道化たように言ったが、神崎は苦笑しか出来なかった。良い男が周りに全くいないからだ。
更衣室から出てエプロンを持って休憩室の前を通ろうとした。
「私、神崎さんが親睦会来るなら行かないでーす」
「ちょっと柳さん」
店長の咎めるような声が聞こえる。神崎はぴたりと足を止めた。休憩室の扉が開いていたからだ。
「店長、あの人に甘すぎません? 殆ど土日出てないし、仕事できるって言ったって、深夜なんて殆ど仕事ないんですからね」
「学生さんが出られない平日分の深夜を出てくれてるから土日は休みにしてるんだよ。それにディナーの忙しい時間に入ってもちゃんと連携取れてるでしょ」
柳の文句にきちんと正論を返す店長。ますます通りにくくなってしまった。
神崎は戻って煙草でも吸おうかと思考が働く。面倒なことからは背中を見せて走って逃げよう、という現実逃避。
「それ、店長の贔屓目で見てないって言えます? 神崎さんが美人だからってフィルターがないって証明できるんですか?」
「ちょっと、柳やめなよ」
「園柄だって神崎さんが入ってきた途端にべったりじゃん」
「シフト被ることが多いから話すのが多くなるのは当たり前」
「神崎さんが入ってから深夜になること多くなったでしょう」
「深夜バイトが就職で辞めちゃったから、園柄くんには入れるときに入ってもらってるんだよ。学生さんは授業があるから無理にとは言えないから。神崎さんが入ったから変わったってことじゃない」
沈黙が降りる。とても空気が重い。神崎はこの道を走り抜けようかと考え始めた。どっちにしろ、タイムカードを通しに出ないといけないのだ。それに、こんなに空気が重くなっているのは神崎が心配するところではなかった。
「でも、私は神崎さんが来るなら今日の集まりはパスです」
「好きにすれば良いよ」
付き合ってられるか、と園柄が休憩室を出た。
あ、と思ったのは神崎も同じだった。視線が合って、数度瞬き。園柄がゆっくりと休憩室の扉を閉める。
「……今の」
「あたし、親睦会パスするから。店長に言っといて、よろしく」
「神崎さんがそうしなくても、」
「そういう集まり、苦手なんだよね。前の職場でも飲み会とか無かったから」
園柄にそう言って、神崎は早足でそこを通る。無事タイムカードを通せたことに安堵して、キッチンに入った。
店を閉めて、裏通りから出る。ビールケースが積まれており、それを倒さないようにと静かに歩いた。神崎は表に出て駅の方へ向かう。
面倒だな、と心臓の淵からそれが漏れてきた。
高校の時バイトをしていたときも、前の職場でもこんな面倒な事態になったことは無かった。出来るだけ避けて通ってきたということもあるが、環境に恵まれていたこともあるように思う。前に住んでいた街で神崎の母親は有名なストリッパーだった。その一人娘の神崎も有名だったわけだ。そういう意味から、目立っていたのは自他共に意識していた。そしてそこに気遣いと価値観の一致があったように思う。
しかし、新入りのこの街では何も通らない。
「帰るんですか?」
斜め後ろからかかった言葉に振り向く。七尾が私服を着て立っていた。今日はバーテンの仕事はないらしい。
「さっき、駅の向こうで喫茶店のメンバー見ましたけど。飲み会じゃないんですか?」
「パスした」
「神崎さん、飲み会嫌いなんですか?」
「嫌われてるから、あたし」
心が黒く覆われる。闇からは結局逃げられない。神崎はそのことをよく知っていた。
七尾はそれを見ている。いつかもこんなことがあったと思い出していた。
「美味しい手羽先がつまみに出るところ知ってるんですよ。行きません?」
「何時だと思ってんだよ。帰って寝る」
「確か五時までやってます」
「聞けよ人の話」
神崎の肩に掛かっている鞄のショルダーストラップを掴み、七尾が引っ張る。
その後ろ姿を柳が見ていた。
「園柄、あの人誰?」
深夜シフト終わりの人間を混じえて、二次会をどこにするかという話が店の前でなされていた。園柄が柳の指差す方を向くと、神崎の姿がある。
「神崎さん」
「の隣に立ってるオトコ」
「あー、上で働いてるバーテンじゃない?」
目敏いな、と園柄は鼻で笑いそうになる。そして次に飛んでくる質問が分かる。自分がしたからだ。
「神崎さんの彼氏?」
「違うって本人は言ってたけど」
ふうん、と柳が返事をする。神崎と七尾は親しそうに何かを話して、駅の方へと消えて行った。
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