ノクターン
レッスンの日になってしまった。
発表会に近づくとレッスンは週に二回になる。バックにはもちろん、ノクターンとそれとは別に運指用の楽譜も持ってきた。
響くんに言われた通り、まずは基本に忠実に、平たく弾いてみる。やはり先生はそれがお好みだったようで 「佳音ちゃんなら上手く行くと思っていたのよ」とべた褒めだった。しかし、わたしの思うところは違う。
「あの、1度、好きに弾いてもいいですか?」
先生はさっきのが完璧だと思っていたらしく、びっくりしたけれど、「まぁ、いいわよ」と言った。
深呼吸した。
このピアノは何度も弾いたのに、知らない他人顔だ。わたしが弾くのは、わたしだけのピアノ。そして、わたしだけのテンポのピアノ。誰にも真似出来ない、わたしだけの音。
そっと指先に神経を入れて、固くなりすぎないようにふわっと入る。みんなが聞いたことがあるのはここの部分だ。この緩やかな今日の入りはちょっとゆっくりその後音階が上がっていく時はちょっとテンポも上がるように。でも、後から追いかける子を置いては行かず、待っている。……
本来、あまり揺らすことなく弾いていく曲を、極端に近く揺らす。
思ったように先生はいい顔はしなかった。
「さっきの方がずっと上手かったわよ」
「はい……発表会ではあちらで弾きますから」
「まぁ、誰でも自分の曲にしてみたくなるものよ。一度は通る道、かな?」
先生の言葉は好意的だった。
「佳音」
「嘘、こんな時間まで待っててくれたの?」
「もう1台を借りて、練習してたよ」
「びっくりしたなぁ、もう!」
気がつくと、わたしたちの背後には先生の家のフェンスに一重の白い原種バラが満開だった。
二人の家は逆方向なので、帰るに帰りづらい。すると彼が、
「送るよ。自転車引っ張って帰っても平気?」
「平気……少しくらい遅くなっても発表会、近いことわかってるから」
「じゃあ、歩いて帰るか」
いつものように言葉が出ない。響も何も言わない。
「……どうだった? わたしの2番」
「うん、オレにはあれは弾けないな。悔しい」
「冗談!」
「本当だよ、あんなに恍惚とした佳音……すごい集中だったよな」
「……聴いてただけじゃなくて、見てたの?」
「うん、全部」
全部……?
「発表会終わったらさ、佳音、オレとつき合おう」
「? どうしてそうなったの?」
響は自転車のスタンドを下ろして、わたしもなんとなくスタンドを下ろした。
「オレは……うまく言えないけど、佳音みたいな女の子を探してたと思う。ピアノが弾けるってだけじゃなくて、自分の考えを持って弾ける子」
「……わたし、でも多分、音大に進学させてもらえないよ」
「いいんだよ、心の中はわかってるから」
なんだか初めてなので、不器用に二人で手を繋いであたふたする。……響はピアノの練習しながら、そんなこと、考えてたのか……。不純、とかじゃなくて、それでもあれだけ弾けるんだからすごい。恋なんてしたら、わたしの音はブレまくってしまう。
「わたしも、つき合うなら響がいい。わたしがピアノやめても、わたしのために弾いてくれる?」
「オレが鬼コーチになって、教えるから大丈夫だよ」
「そっか」
「そうだよ」
発表会の日になった。
やはりプログラムは響がノクターンの1番を弾いて、わたしが2番。
響の演奏はまさに心に訴えかけるものだった。引き終わって戻ってくる時、出待ちのわたしに、
「自分の納得いくもの、弾けよ」
と言われる。
響は自分の胸ポケットに誰かが差した先染めのピンクの薔薇を、わたしの耳の上当たりにそっと、そして揺るぎなく差してくれた。
「ありがとう」
「どういたしまして。バトンタッチ。薔薇の苦くて青い香りは今しか出せない音だよ」
アナウンスが流れ、あの光の中に飛び出してお辞儀をする。お客様の姿はライトのせいでシルエットさえあやふやだ。
椅子の高さの調節が済んでいたようなので座り、ハイヒールを履いた靴がペダルに届くように今度は前後に調節する。耳元のバラが、「離れていても見ているよ」と囁く。象牙色の、かわいらしい鍵盤はリハではとても軽くていい音で響いてくれた。
さあ、息を吸って、右手の1音目から、そっと夢の世界に入っていこう。
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