【7/追憶-thorn-】

「今日も来てくれたのね! ありがとう!」

 ティーシャは心の底から嬉しそうに微笑んだ。

 金髪の少女がティーシャのもとを訪れ始めてから、気づけば一ヶ月が経とうとしていた。

 ティーシャは初めて金髪の少女を家にあげた日から、彼女たちはティーシャ曰く友達になったのだという。金髪の少女はいまいち実感がわかなかったが、ティーシャは彼女といる時とても楽しそうだったから、悪くはないと思っていた。

 妙に心地良いような、安心感のある一ヶ月はあっという間に過ぎ去ろうとしている。

 ティーシャはあれから、よく金髪の少女を食事に誘った。金髪の少女は毎回喜んでその招待に応じていた。

 金髪の少女の空腹感が満たされることはないものの、空っぽだった心は満たされているような気がしていた。たとえどれだけ空腹感を感じようとも、心が満たされているならばそれで良いと思って

 もしも、この空腹感を抑えられないというなら、きっとティーシャを傷つけてしまうから。

 けれど、今は——。

「今日はお庭で遊びましょう! 今の季節は、たくさんお花が咲いていて綺麗なのよ。今日はとっても天気が良いから楽しいに違いないわ」

 ティーシャは急かすように、金髪の少女の手を引いて庭のある方向へと連れて行った。金髪の少女はかつてないほどの空腹感、飢餓感をかろうじて押さえ込みながら、おぼつかない足取りでティーシャに連れてかれていた。

 金髪の少女は空腹のせいで、酷い頭痛と目眩に悩まされている。この不快感が消えるならば、何をしても良いと段々と思い始めていた。それがたとえ、ティーシャを傷つける結果となっても。

 極度の空腹と不快感のせいで、金髪の少女は正常な判断ができなくなって来ているのだった。

「さあ、着いたわ!」

 ティーシャは嬉しそうにそう告げた。金髪の少女は重い頭を上げ、目の前に広がる光景を見た。そこにあるのは、一面の花畑。赤、青、黄色、白……。一面に咲き誇り、咲き乱れる美しい花々。イーニッドは、ぼうっとそれらの花に見惚れた。

「綺麗でしょう? 我が家の自慢なの」

 ティーシャは誇らしげに軽く胸を反らし、微笑んで見せた。金髪の少女も彼女に微笑みかけようとしたが、うまく笑えず、頰がひきつってしまった。

 ティーシャは金髪の少女の異変に気付いたのか、表情を曇らせて心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。

「大丈夫……、具合、悪いの?」

「うん……まあ」

 かすかに頷く金髪の少女に、ティーシャは優しげに言った。

「まあ、それなら家に帰った方が良いわ。無理させてごめんなさい」

「嫌……!」

 突然金髪の少女は、幼い子供が駄々をこねるように大きく首を横に左右に振った。ティーシャは驚いた様子で少女を見つめた。金髪の少女がここまで激しく感情をあらわにしたのを、今まで見たことがなかったからだ。

「家には……、帰りたくない」

「そ、そう。だったら日陰で休んでいればいいわ。ティーシャは花冠を作っているから」

 金髪の少女はふらつきながらも、日陰にたどり着き、そこに腰を下ろした。

 ティーシャは花畑から、薔薇、セージ、白百合などの花をいくつか摘み、金髪の少女が休んでいる日陰のところに来て、少女の隣に座った。

 地面に一旦詰んだ花を置き、それから何輪かを手に取り、器用に編み始めた。しかし、その中の一輪の薔薇の棘が彼女の指に深く突き刺さった。

「……痛っ!」

 ティーシャは反射的に編みかけの花冠から手を離した。傷口からぷっくりと血が盛り上がり、そして滴り落ちた。

 金髪の少女は何かに取り憑かれたかのように、ティーシャの傷口を凝視した。滴り落ちる血から目を話すことができない。かすかな血の香りが彼女を酷く酔わせた。

 ティーシャは少しだけ、恥ずかしそうな照れ笑いを浮かべる。

「まあ、怪我をしてしまったわ。でもこんなの全然大したことないの。ちょっと待っていて。今、包帯を——」

 がしっと、唐突に金髪の少女がティーシャの手首を掴んだ。それは、彼女の細い指や手が出している力とは思えないほどに、力強く。ティーシャの手首が軋む音を立ててしまいそうなほどに。

「な、何? どうしたの?」

 ティーシャは困惑気味に金髪の少女を見た。その瞬間、ティーシャは恐怖を感じ身を震わせた。それは肺腑を直接舐めまわされる様な恐怖だった。

 金髪の少女の目はありえない程見開かれ、瞬きせずに一点——ティーシャの傷口から溢れ出た血を——見つめている。その目はまるで飢えた獣の様。

 金髪の少女は掴んでいた手首をそのままぐっと自分の方へ引き寄せた。そして血で濡れた指先を口に含む。

 ぬらりと濡れた柔らかい、軟体生物の様な何かがティーシャの指先に触れた。それは血を舐めとり、口腔のさらに奥へと流し込む。ティーシャは恐怖で声も出ないし、体を動かすことすらもできなかった。

 金髪の少女は突然、薔薇の棘でできた傷口を抉る様に犬歯を突き立てた。激痛が電流の様に走る。その時になってようやくティーシャは悲鳴をあげた。

 その悲鳴で我に帰ったかの様に、金髪の少女ははっとティーシャの方を見た。

 その瞬間に金髪の少女の力が緩んだので、ティーシャは彼女の口内から指を引き抜き、勢いよくに立ち上がり二、三歩後ずさった。

 金髪の少女は呆然とした様子で、ティーシャを見つめた。自分が今しがたした、一体何をしたのか理解が追いついていないように見える。

「化け物! 貴方、吸血鬼だったのね!?」

「ち、違……私は……!」

 慌ててティーシャに近寄った金髪の少女だったが、ティーシャは彼女を拒絶するように睨みつけた。

「化け物め。近づかないでよ、気持ち悪い。ティーシャをたぶらかしたんだわ。あなたなんか、友達じゃない。すぐ、ドーテを呼んでくるんだから、あんたの命はそれまでよ!」

 ティーシャは金髪の少女に背を向け、庭を出ようとした。そのまま外に出てドーテを呼びに行くつもりなのだろう。

 金髪の少女は「待って!」と呼び止めようとしたが、声を出すことができなかった。身体も動かせない。

 ああ、どうして。金髪の少女は静かに涙を流した。

 金髪の少女は生きていたいとは思わなかった。生きている実感を持てなかった。ティーシャと出会うまでは。彼女と出会ってから、白黒の彼女の世界が色づいた。生きたいと、そう思った。

 ティーシャにとったら自分と一緒にいることは、日常の、ほんの一部なのだろう。けれど、それでも構わなかった。

 苦しい日々の中でも、ティーシャのことを思えば耐えられた。どんな苦痛も受け入れられた。ティーシャと居られるほんの少しの時間が、金髪の少女にとっては生きていられる、生きていると実感できる時間だった。

 しかし、今たった一つの、彼女にとっての生きる意味は失われた。少女自身の手で壊してしまった。一度壊れたものは決して元には戻らない。時間は巻き戻らない。ただ呆然とその残骸を見つめることしか、彼女はできない。

 少女は首筋の頸動脈に親指の爪をあてがった。生きている理由などこの世のどこにも存在しない。彼女は指に力を込めた。

 が、次の瞬間力を緩めた。目の前の光景を、何が起こったのかわからないと言った様子で唖然と見つめる。

 庭を出ようとしたティーシャが突然静止したのだ。そして次の瞬間、ティーシャは糸の切れたマリオネットの様にその場に崩れ落ちた。ティーシャを見下ろす様な位置に、人影がある。

 イーニッドはよろめきながらティーシャに駆け寄った。彼女のそばまで膝をつく。ティーシャは背中を赤く染め、その場で倒れていた。目は驚愕に見開かれ、手脚は弛緩し、唇の端から血が一筋、つうっと流れ落ちた。

 ティーシャは死んでいた。

「どう……して?」

「イーニッド様」

 頭上から声がした。金髪の少女——イーニッドは緩慢な動作で顔を上げる。そこにいたのはくすんだ金髪と藍色の瞳の、片手に短剣を持った女だった。

「クロエ……」

「イーニッド様、良かったです」

「クロエが……、殺した、の? どうして……」

 信じられない様子でクロエを見つめるイーニッドに、彼女は優しく語りかけた。

「申し訳ありませんイーニッド様、実は私、イーニッド様がこちらの人間と会うとき、毎回物陰に潜んで見守って居たのです。貴方様が毎日決まった時刻におでかけなさるので、心配になりまして」

「でも、どうして……ティーシャを……」

 イーニッドはティーシャの死体に目を落とした。まだ温かい、けれど明らかにもう生きてはいないと一眼でわかる、死体に。

「ティーシャ? ……ああ、その人間の名ですか。決まっているじゃありませんか。その者はイーニッド様の正体に気づき、貴方様を深く傷つけ、そしてドーテを呼ぼうとしたからです」

 呆然としているイーニッドに、クロエは「大丈夫ですか?」と手を差し伸べた。イーニッドは焦点の合わない目でクロエを見上げた。手は、取らなかった。

「ティーシャ……ティーシャ……」

 イーニッドは再び、ティーシャに目を落とし、そしてうわ言のように彼女の名を呼び続けた。

 それから右手を伸ばし、見開かれているティーシャの瞼を閉じようとした。が、クロエがそれをイーニッドの手首をつかむことによって、止めた。

「その者にその様な価値はありません。貴女様にそんなことをしてもらえる様な、価値など」

「でも……」

 イーニッドは言葉を切って、もう一度、一筋涙を流してから続けた。

「こんな、こんなの、私が殺した様な、ものじゃ……」

「いいえ。イーニッド様は何も悪くないのです。貴方様には何の罪もない。イーニッド様を傷つけたのはこの者。この者を殺したのは私。貴方様は誰も殺してはいないし、誰も傷つけてもいない」

 クロエはイーニッドの痩せ細った身体をぎゅっと、優しく、そして強く抱きしめた。イーニッドはただ、クロエの暖かい体温に抱かれていた。そうすることしかできなかった。

「さあ、帰りましょう。ここにとどまり続ける意味も理由もありません」

 クロエはイーニッドから腕を離すと、立ち上がって手を握った。イーニッドは虚ろな目でクロエを見返し、問うた。

「帰る……? どこ、へ……?」

「それは……、リトス家、です……」 

 クロエは非常に言いにくそうにそう呟き、イーニッドから目をそらした。イーニッドは握られている手にかすかに力を込めた。

「……あそこは、私たちの帰るべき場所、なの……?」

「……イーニッド様、貴方様のことは、私が守ります」

 クロエは優しい手つきで、イーニッドの頬に触れてその涙を拭った。そして彼女に跪く。

「私が、必ず。そしてあの地獄の様な日々から、連れ出してみせます。だからどうか……、その時を待っていてください」

 イーニッドは表情の抜け落ちた顔で頷いた。




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