少年少女吸血鬼譚

鴉羽 都雨

【序章/絡まった鎖】

「なんで人間の書いた本を読むのかって言われても……。人間に興味があるから。それ以外に理由はないよ」

 少年は答えた。

 彼の名はフレイ。フレイは白鳥のように白くやや長めの髪を一つにまとめ、エメラルドの瞳を持っていた。白いブラウスにダブルボタンのベスト、黒いボトムスを着用している。

 蝋人形のように白い手や顔が、暗い室内で幽鬼のようにぼうっと浮かび上がっている。

 フレイは本棚を整理しながら、同じ部屋の中にいる一人の少女に返答した様子だった。

 少女は椅子に腰掛け、フレイの言葉に耳を傾けていた。

 彼女は漆黒のドレスを身にまとい、頭に白百合の髪飾りをつけており、折れてしまいそうなほど細い首には、赤い石がはめ込まれた首飾りをしている。

 肩口で切りそろえられている、淡い色合いの金髪。血で染めたように赤い瞳。肌は病的なまでに白く、不健康そうに見える。

 少女――イーニッドはフレイの言葉に対して、理解しがたそうに首をかしげた。

「……どうして? 人間の街に行きたいほど興味があるだなんて……」

 イーニッドはそう言いたかったが、黙った。

 思ったことをあまり口にしないのは、彼女にとってはいつものことだった。代わりに奇妙なものを見る目で、フレイを見る。

 といってもイーニッドの感情表現の幅は驚くほど狭いので、フレイはイーニッドの視線にこもっている感情を読み取ることはできない様子だった。

 二人がいるのは『図書室』である。『図書室』は、円柱状の形をした天井の高い部屋だ。壁が全て本棚になっており、なかにはぎっしりと隙間なく分厚い本がつめこまれている。

 ざっと見ただけで、その数は数千にものぼりそうだ。それらは、古いものから新しいものまであるようだった。

 そして本棚に入りきらなかった本は、いくつもの山に分けられて床にうず高くつまれている。

 部屋の中央には円形のテーブルと椅子が数脚置いてあり、そのうちの一つにイーニッドが腰かけている。

 イーニッドは少しだけ思考してから、口を開いた。

「……フレイは、やっぱり人間との共存、和解を諦めていないんだね」

 イーニッドは淡々と言った。彼女の声音は氷のように冷たく、刃物のように鋭く尖っており、どこかつっけんどんな印象を受ける。

 しかし別段イーニッドが不機嫌だったりするわけではない。元々のイーニッドの声質なのである。

「ああ、そうだよ。僕らと人間はきっと共存できる。そのはずなんだ」

「そう……かな。でも人間からしたら、自分たちのことを捕食対象とする存在とは、仲良くしたくないんじゃ、ないかな…………」

 イーニッドの言葉に対して、フレイは少しだけ間を置いてから答える。

 本棚の整理は終わったらしく、今度は床に積み上げられた大量の本の整理を始めた。

「そうだね。そうかもしれない」

 イーニッドは自分の言葉が肯定されるとは思っていなかったらしく、少しだけいつもの無表情を崩し、戸惑ったような表情を浮かべた。

「けれど僕は、それでも何か手があるんじゃないかと思っているよ。共存できない、和解できない、仲良くできないと決めつけるのは、それは単なる思考停止だ。もっと……」

 フレイはそこで言葉を切り、少し悲しげな色を瞳に浮かた。

「もっと知るべきなんだ、みんな。お互いのことを」

「フレイは、知っているの? 人間のこと」

「ああ。ここにはたくさんの、人間が書いた本がある。僕とイーニッドとシェール以外は読もうとしないけれどね。シェールは基本的に娯楽小説しか、読まないけれど……。人間の歴史や、人間の考えに触れると、いろいろなことが見えてくるんだ」

 フレイは整理している本の、表紙を愛おしげに撫でた。イーニッドはそんなフレイをぼうっと眺める。

「……いろいろな、こと……? 例えば?」

「そうだね。大きく一つを挙げるとするなら、僕らと人間は考え方が、とてもよく似ているということかな。本を読んでいるとわかるんだ。だから、僕らと人間との本質的な差というのは、実は小さいんじゃないかと思っている。けれど、互いに偏見を持ち合っているから、僕らと人間は違うのだと思ってしまっているから、なかなか分かり合うことができないんだと思う」

「…………フレイは、あの『戦争』のこと、忘れたわけでは、ないんだよね……?」

 ――『戦争』

 正確には、『戦争』というのは通称で、当時は『吸血鬼狩り』と呼ばれていたがその本質は名前の通り、人間による吸血鬼の大量虐殺である。

 『戦争』は数ヶ月の間、多くの人間と多くの吸血鬼の命を失いながら続いた。

 『戦争』以前から吸血鬼を狩ることを、生業とする者たちがいた。人々は彼らをドーテと呼び、慕い、敬っていた。

 何故、彼らがドーテと呼ばれるのは定かではないが、一般的には最初に吸血鬼を狩る集団の創設者の名前からとったと言われている。他にも様々な説があるが割愛する。

 彼らの仕事は、吸血鬼だと断定されたものを殺すことだった。しかしそれは、一度に数人で、多くても数十人というところだった。

 だから『戦争』の時のように、一度の大量虐殺は前例がなかった。もちろん、それには訳がある。

 『戦争』が起こる一ヶ月ほど前のことだ。

 とある吸血鬼がイルミリという街で、住人ほぼ全てを虐殺し、吸血するという事件が発生した。(のちにこの事件は、イルミリ大量虐殺(場合によっては『虐殺』ではなく『吸血』とも)事件と呼ばれるようになる。これは歴史に大きく名を残す事件となった)

 事件を起こした吸血鬼はドーテの奮闘も虚しく、ドーテを殺害したのち逃走し、それ以来姿をくらましている。

 その吸血鬼はそれ以外に事件を起こしたことがなく、(あるのかもしれないが、その吸血鬼によるものと、断定できるものは今の所ない)目撃者はすでに死んでしまったので、その正体は謎に包まれたままである。

 その事件があった直後から、各地で吸血鬼による事件が多発したのだ。おそらくイルミリ大量虐殺事件を知った、他の吸血鬼が刺激を受けて、起こしたのだろう。

 その事件の数は、イルミリ大量虐殺事件が起きる前の実に十倍と言われている。

 ドーテたちは、これまでにないほど吸血鬼を危険視した。

 彼らは話し合った末、ある結論を出した。簡単なことである。彼らの意見は一致していた。

 すなわち『危険分子は取り除いてしまえ』ということだ。

 今までは吸血鬼と断定できたものだけを殺してきた。しかし、今回は緊急事態だ。このまま事件がさらに起こり続ければ、人間の存在が危険にさらされる。

 イルミリ大量虐殺事件から、起こり続けた事件は吸血鬼による革命なのだ。

 ドーテたちは吸血鬼だと断定できなくても、怪しい者たちはすぐさま殺してきた。

 最初はドーテのみが吸血鬼と思しき者を殺してきたが、吸血鬼に恐怖を抱くそれ以外の人間たちも、だんだんと大量虐殺に参加するようになった。武器を手に取り、怪しいものは殺した。

 しかし、吸血鬼もただ一方的に人間に殺されているばかりではなかった。

 彼らもまた、武器を手に取り、自分を殺そうとする人間も、殺そうとしていない人間も殺し続けた。

 『戦争』が続いた数ヶ月もの間、道には人間と吸血鬼の幾つもの死体が積み木のように積み上がっていたという。

 吸血鬼のものと思われる死体は、どれも切り刻まれていたり、何度も刃物で刺された跡があったりと、無残なものばかりだった。

 それは、人間が吸血鬼に対して、嫌悪や恐怖といった感情を抱いていたというのもあるが、それだけではない。

 これにはちゃんとした理由があるのだ。

 吸血鬼は人間と比べ、治癒力や生命力が桁外れて強い。普通、人間が死ぬような傷を負っても、吸血鬼は死なない時がある。

 腕や脚を切断されても止血をすれば、数日で元どおりになる。心臓を刃物で突き刺しても、同じく止血すれば生き残ることもある。

 さすがに首を切断されれば死ぬが、ちょっとやそっとのことじゃ彼らは死なないのだ。だから人間なら致命傷にあたる傷を、いくつも負わせないといけないのだ。

 多くの人間は吸血鬼を殺害する際、複数人で足を切断したりして、まずは彼らの動きを鈍らせることを優先する。それから体を切り刻んだり、滅多刺しにしたりして吸血鬼を完全に殺す。

 ――結果的に『戦争』で負けたのは、吸血鬼だった。

 戦争によってほとんどの吸血鬼が死滅したと言われている。おそらくまだ、生き残りは少数いるだろうが、彼らは息を潜めて隠れ住んでいる。

 しかし何故吸血鬼は負けたのだろうか? 

 吸血鬼は人間と比べて優れているのは治癒力や生命力だけではない。身体能力も人間の何倍もある。

 そんな彼らがなぜ負けてしまったのか。

 諸説があるが、最も有力な説としては『人間と比べて圧倒的に数が少なかった』というものだ。

 つまりいくら個々が強くても、数で圧倒的な差がついてしまっていたら、負けてしまうのだ。

 イーニッドやフレイ、その他数人の生き残った吸血鬼たちは人里離れた樹海の中の『館』にひっそりと隠れ住んでいる。

 月に何度か、『食糧調達』担当の吸血鬼が人間の住む街に降りて数人の人間を殺し、血を抜き取って保存し、日々それを摂取して細々と命を繋いでいる。

「まさか。忘れたりするものか。『戦争』を経験した者で、忘れている奴なんていないよ。もしそんな奴がいるなら会ってみたいぐらいだ」

 イーニッドは全くその通りだと思った。彼女もまた、あの惨劇をいくら忘れたくても、忘れることができないのだ。

 脳裏の片隅にその光景が焼き付いて離れてはくれない。片時も。

「それでも、それでも、なの? それでも……和解を、望むの?」

いつも通りの淡々とした口調だったが、イーニッドの言葉からはフレイの思想に対する、理解しがたいという考えが読み取れた。あの惨劇を作り出した人間を、彼女はどうしたって許容できないのだろう。

「だからこそ、だよ。だからこそ、僕は――」

「そんなこと、できるわけないだろ」

 フレイの言葉を、遮る声がした。

 それはイーニッドの声ではない。イーニッドは人の発言を遮ってまで、自分の意見を通せるほど意志が強くはない。

 フレイの発言を遮ったのは、『図書室』の入り口に立っている少年だった。少年――ジャックはフレイに瓜二つの容姿をしている。

 白鳥のように白い髪。エメラルドの瞳。蝋人形の様に白い肢体。それら全てが鏡写しにしたかの様にそっくりだ。

 ただ表情や声音、身に纏う雰囲気は、あまり似ているとは言えない。対極に位置するといってもいいかもしれない。

 フレイは柔和そうな笑みに、優しげな雰囲気を纏い、穏やかな声音で話している。

 一方ジャックは、怒気を帯びた表情に、不機嫌そうな雰囲気をまとい、刺々しい声音で話しているのだ。

 ジャックはぎろりとフレイを睨む。フレイは軽く肩をすくめてから立ち上がり、ジャックを正面から見据えた。

「できるわけない、だって? じゃあ聞くけどさジャック。何か一つでも、和解のためにやってみたの? やっていないでしょう? やってもいないのに、そういうのを言うのはやめた方が良いよ。無能を晒け出している様なものだからさ」   

 ジャックは苛々とした様子で、床をかかとで踏み鳴らした。不機嫌さの度合いは、フレイの言動によって徐々に上がっているようだ。

「は? そんな当たり前のこと、何かするまでもないだろ。無理だって言うのは初めから決まってる。お前一人にできることなんて何もないんだ」

「そう頭ごなしに否定しないでよ、頭固いなあ」

 フレイはため息をつきながら言った。ジャックは苛ついた様に舌打ちをしながら、すこしだけ距離を詰めた。

「お前、頭がどうかしてるんじゃないか? よくそんなこと言ってられるよな。頭お花畑のレベル超えているだろ。貴様のその両目はお飾りなのか? よくもまあ、ペラペラペラペラペラできもしない理想掲げられるよな片腹痛いぜ」

 ジャックはツカツカと足音を響かせて、フレイのすぐ近くまで歩み寄った。

 二人の距離は数十センチ、どちらかが手を伸ばせば相手に手が届く距離だ。ジャックは右手を素早い動作で伸ばして、フレイの胸ぐらを掴み、自分の方へ引き寄せた。

 二人の距離は相手の吐く息が顔にかかるぐらいである。

「なんだよジャック」

フレイは彼にしてはやや珍しくどこか軽蔑した、冷たい声でそう問うた。

「お前、『戦争』のこと忘れてないって言ったよな。忘れてないなら、どうしてそんなことが言える? どうしてッ」

 ジャックの声は震えていた。

 彼は、理不尽な現実をかつて目にした時に感じた身を焦がす様な怒り、どうしたって抗うことができないのだという無力感、それらがないまぜになったあの、形容しがたい感情を思い出しているのだろう。

 声を荒げ、叫ぶ様にフレイを詰問する。

「あいつら、あいつら人間のせいで! 姉貴もレイアも死んだんだぞ! そのことをお前は忘れたのかっ!? 和解だって? 人間を許せって言うのか!? 許せるわけないだろう、許してたまるか! 和解なんてできるわけない!! お前も目の前で見ただろうがッ! なんでそんなこと言えるんだ馬鹿じゃないのか!」

 ジャックはフレイを襟首を掴んだまま片手で持ち上げると、本の山に向かって力任せに投げ飛ばした。フレイはなすすべもなく背中から倒れ、本の山は音を立てて崩れた。

 ジャックの叫び声は半分泣いている様であり、全てを吐き散らすかの様な悲痛さが含まれていた。

 フレイはよろめきながら立ち上がる。そしてすっと顔を上げて、ジャックを睨んだ。

 射抜く様な目だった。そして今度は彼が叫んだ。

 それは悲しげで、痛みをこらえている様な叫び声だった。

「分かってるんだよそれくらいっ! 分かっていて言ってるんだよ! でも、でもそうやっていがみ合って殺し合ったらまた誰かが悲しむだろうがッ! 僕らはそれを十分経験している、また誰かが死ぬのを黙って見てろって言うのか!? なあジャック、お前みたいなやつがいるからいつまで経ったて、殺し合いや争いが終わらないんだろう!? どうしてわからないんだ! それくらい分かれよ!」

 フレイは一気にジャックとの距離を詰め、仕返しとばかりに彼の頰を力一杯殴った。

 ジャックは二、三歩よろめくがすぐに体勢を立て直し、蹴りを放った。が、フレイはそれを身を翻してかわす。二人の喧嘩は終わりそうにない。

 イーニッドは二人を止めるすべを考えたが、思いつかず、ただ黙って二人を眺めていることしかできなかった。

 誰にも収束をつけることは不可能と思われた二人の争いだが、それは唐突に幕を降ろすこととなった。

「——お二方、そこまでにしましょうか」

 突如として二人の間にくすんだ金髪の、メイド服を着た背の高い女——クロエが現れ、二人の仲裁人となった。

 クロエは殴りかかるジャックの拳を片手で制し、踏み出したフレイの右足を片足で踏みつけていた。

 たったそれだけの最低限の動作で二人の喧嘩は終わったのだ。

 しかも彼女の右手にはトレイがあり、その上にティーカップが置いてあるのだが、中の飲み物は一滴も溢れていない。どころか、波すら立っていない。

 そのまま数秒間、時が止まったかの様に動かなかった三名だが、先に動いたのはジャックだった。

 彼は小さく舌打ちをすると足早に図書室を出て言った。クロエは、フレイの足を踏みつけている自分自身の足を退ける。

「喧嘩は良くありませんよ。ほら見てください、本の山が崩れてしまっているではありませんか」

 クロエがそう指摘すると、フレイは気の抜けた様な笑みをこぼし、

「あはは、本当だ。やりすぎちゃったかもね」

 そう呟きながら、散らばっている本をもう一度積み直し始めた。

「大きな音がしたと思ったら……。どうしたの?」

 ジャックと入れ替わる様にしてやってきたのは、シェールだった。

 青みがかった灰色の髪の毛を短く切りそろえている。大きな円形の琥珀色の目を好奇心旺盛さを表す様に、クルクルと動かす。少しサイズの大きい純白のブラウスに、短めのボトムスとコルセットを身につけていた。

「まあ、ちょっと色々あってね」

「そっかー、色々あったならしょうがないね」

 シェールは何故か納得した様に、何度か相槌を打った。

 それからきょろきょろと周りを見渡して、「あっ!」と声をあげ、まっすぐにテーブル向かって走り出すシェール。

「クロさんの入れた紅茶だぁあああ! このティーカップ使うのクロさんだけだからそうでしょ僕にもちょうだうがぁ!」

 しかし、シェールは途中で足元にある本につまずき、転び、顔面をしたたかに打ってしまった。「痛ぁ!」

「あ、足元にある本に気をつけてね」

「遅いよそれ先に言ってよレイくん!」

 「いたたたた」と呟きつつ、シェールは涙目で顔をさすりながら立ち上がった。顔全体が少し赤くなってしまっている。

 シェールは、それから不思議そうに首をかしげ、大げさに瞬きをした。

「あれれ? なんで本がこんなに散らかっているの? いつもはもうちょっと整理されているよね?」

「まあ、ちょっと色々あってね」

「そっかー、色々あったならしょうがないね」

 シェールは納得した様に再び頷いた。それから何かを思い出したように、「そうそう」と言った。

「僕、レイくんに本を返しに来たんだー。忘れるところだったよ」

 シェールは抱えていた本をフレイに差し出した。フレイは「ああ、そういえばずっと前に貸したままだったね」と呟きながら本を受け取る。それから近くにあった書物の山の上に置いた。

「どう、面白かった?」

「うん! 特にこのシーンが——」

 楽しそうに本談義を始める二人を尻目に、イーニッドは別のことを考えていた。

 彼女が考えているのははフレイの掲げる理想についてである。

 人間との和解だなんて、本当にできるのだろうか。彼女はそんな疑問を抱いていた。

 共存なんてできるのだろうか。

 イーニッドは人間について、フレイのように共存しようだとか、ジョックの様にひどく憎んでいるだとか、そういう風には思っていない。イーニッドは人間をひどく恐れ、怖がっている。

 そんな人間と共存するなど、彼女にとっては理解しがたいのだ。

 イーニッドの脳裏には、過去にとある人物に言われたある言葉が浮かび上がっていた。

『化け物め。近づかないでよ、気持ち悪い。※※※※※をたぶらかしたんだわ。あなたなんか、※※じゃない』

「………ばけ、もの……。私は、私、たちは人間にとって……化物……」

 イーニッドは何かに取り憑かれた様に、何かに怯える様にぶつぶつと呟く。

 細い身体を小刻みに震わせ、右手で赤い首飾りをぎゅっと握りしめてながら。

「イーニッド、様? イーニッド様? 大丈夫ですか? どうかされたのですか、イーニッド様!?」

 異変に気付いたクロエがイーニッドに駆け寄り、彼女の震えている肩を両手で掴んだ。イーニッドはびくっと肩を震わせ、クロエを拒絶するように勢いよく立ち上がった。

「だ、大丈夫、だから……。私は、私は、化け物……なんかじゃない、違うから……」

 イーニッドは踵を返して走り出す。

 『図書室』の扉に体当たりする様にして、廊下に出た。

 背後から彼女を呼び止める、フレイやシェール、クロエの声が聞こえたが気にせず走る。頰は上気し、手足が意味もなく痙攣し、動悸がおさまらない。

 それでもなんとか、手足を互い違いに前に出して走る。

「イーニッド様! イーニッド様!? お待ちください!」

 背後から彼女を呼び止めるクロエの声がするが、無視して走り続けた。何故走っているのか、理由がわからないまま走り続けた。

 ただ何かから逃げなといけない様な気がしていた。

 イーニッドは自分自身を追いかけてくる足音を聞いた。

 おそらくクロエだろう。イーニッドは一瞬だけ躊躇したのち、角を曲がった後、窓から飛び降りた。

 そう高くないところから飛び降りたので、足を軽くひねった程度で済んだ。

 イーニッドはそのまま走り、樹海の奥の方へと進んでいく。辺りは闇に包まれていた。 

 樹海の木々の密度は高いため、月の光も星の光も、ここには届かない。ただ濃密な闇が広がるばかりである。

 イーニッドはあてもなく走り続けた。ひねってしまった右足が痛かったが、それでも走り続けた。頭が何か見えない力に押さえつけられ、歪んでしまったかの様に痛い。

 彼女は地面に深く根をはる、木の根に足を取られて前方に思い切り転んでしまった。

 反射的に地面に着いた手に擦り傷ができ血が滲む。転んだ拍子で長いドレスの裾が破れてしまった。

 イーニッドはのろのろと立ちあがって、近くにある木にしなだれかかる様に寄り、そのまま座り込んだ。もう走る気力は残されていない。

 このまま消えてしまえばいいのに。

 イーニッドはそう思ったが、彼女の意に反して消えることは叶わない。イーニッドは疲れ果てて目を閉じた。

「イーニッド様! どこにいるのですイーニッド様ぁ!」

 クロエの声がざわざわと木々の揺れる音に混ざって、聞こえてきた。声がだんだんと大きくなっていく。

「イーニッド様! ここにいたのですね! あぁ、良かった……」

 イーニッドは自分自身の両手を温かく包み込む様な感触を覚え、ゆっくりと目を開けた。目の前には彼女の手を、強く優しく握っているクロエがいた。

 クロエは脱力した様に地面に膝をつき、ぽろぽろと涙を流していた。彼女の髪はほつれ、メイド服の裾も汚れてしまっている。

 イーニッドはしばらくそんなクロエを見つめていたが、やがて震える唇を小さく開いた。

「クロエ……、怖いの」

 イーニッドは冷たいその手に僅かに力を込めた。

「……忘れて……忘れてしまいたいのに、些細な言葉がきっかけで、全て、思い出して、しまうの。あの雨の日のことも、あの凍えるような日のことも……。あの苦しかった日々のことも。まるで、複雑に絡まった鎖をたぐり寄せるみたいに……」

 クロエは一瞬躊躇したのち、イーニッドのか細い身体を優しく包み込むように抱きしめた。イーニッドは抵抗せずただされるがまま、クロエの腕の中でその体温を感じていた。

「大丈夫。大丈夫、ですから。もう二度と貴女様に怖い思いはさせません。させるものですか。私が守ります。けれど」

  クロエはイーニッドの柔らかな髪を優しく撫で、微笑んだ。

「今のように、何か恐ろしい思いに囚われてしまうこともあるでしょう。その時は、どうか私に全てを吐き出してください。私は貴女様の全てを受け止めますから」

 イーニッドはクロエの優しさに、幾ばくかの申し訳なさを感じたものの、それを隠して「ありがとう」と小さく感謝の言葉を述べた。

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