第17話
――記憶の一部を取り戻しかけたベティ。
彼女が落ち着くまで、しばらくの時間を要した。
落ち着いた頃に、おじさんが薬草で作ったスープを出してくれて今は眠っている。
(ヘイズ、ねぇ……)
グリューネバルトの屋敷、その中庭。ボクの膝で眠るベティの髪を撫でる。
300年前、魔法時代末期におけるドラコ・ストーカーの機能。
それを聞いたときは素直にゾクゾクしていた。
けど、あんな風に震え、脂汗を流していた彼女を見ていると思う。
――記憶なんて、取り戻さなくていいんじゃないか、と。
「クリスティーナ、ここに居たのですね」
「……失礼を承知で少しお静かに。フラウフリーデ殿下」
唇に人差し指を当てながら、ベティを指さす。
「ああ、眠っているのですね」
ボクの隣に腰を下ろしながら、小声でささやくフラウフリーデ殿下。
「ええ、少し前に寝かしつけたばかりなんですよ、フラウフリーデ殿下」
「ふふっ、前にも言いましたでしょう? クリスティーナ。
私のことは”フラウ”で構いません。歳も近いじゃありませんか」
……っ、貴族の令嬢様を略称で呼べ、だなんて。
「じゃ、じゃあ、ボクのことはクリスと呼んでくださいよ」
「ふふ、クリスティーナと呼ばれるのは好みじゃありませんのでしたね。
ですからって、そんな愛らしい名前を隠す必要もないでしょう?」
群青色の瞳が、ボクを見つめている。
この人は、最初にボクが”クリス・ウィングフィールド”と名乗ったことを根に持っているのだ。おかげで毎回クリスティーナと呼んでくる。
「けれども分かりましたよ、クリス♪ さぁ、分かりますね?」
「っ……ふ、フラウ。これで良いですか?」
「よろしい。それでベティに頼みがあるのだけれど、起こしても構わないかしら?」
――ダメだ。落ち着かせたとはいえ、このタイミングで起こせば、また悪い記憶を思い出すかもしれない。
もう少し、ベティを眠らせていてあげなきゃいけない。
「ダメです」
「どうして?」
……言いたくないなぁ、これ。
フラウフリーデ・グリューネバルトという人は、この1週間、なんどもベティちゃんの記憶について確認してきた。
情報を求めている。そんな相手に今朝のことを話せば、根ほり葉ほり聞き始めかねない。
「そう、ですね……」
けど、無理だな。会話運びに失敗した。
ここまで追い込まれてから、逃げ切るのは不可能だ。
「……記憶が、戻りかけたんです」
「ほう? けれどあまり喜ばしい記憶では、無いようですね」
――さて、どう説明する? 何を話す?
300年前のドラコ・ストーカーについて知っていること?
それは、些事だろう。じゃあ、ここは……。
「竜魔法王ヘイズに、支配されていた、と」
フラウ殿下が、息を呑む。
この反応、まず間違いなく心当たりがあるんだ。
「竜魔法王ヘイズって・・・・・あの?」
「あの……?」
あの、ってなんだ? フラウ殿下にとっては常識なのだろうか。
「クリスさん、慈悲王様が”最初に倒した相手”の名前、覚えています?」
「……えーっと、慈悲王はまず、アトル海岸に、王国を築いていた暴君の魔法王を倒して、」
――ああ、そうだ! そいつだ! その名が”ヘイズ”だ!
「ふふ、博識なクリスさんでも、ど忘れするんですね?」
「……面目ありません。どうにもそのころの資料が少なくて」
「でしたら、歌劇を見るのがよろしいかと。正しさはともかくとして、忘れられなくなりますよ――」
――慈悲王ベアトリクスが倒した最初の敵、竜魔法王ヘイズ・グラントのことを。
「けれど、不思議ですね。ベティは、ヘイズに支配されていると言ったのですか?」
「ええ、そして”それは違う。倒された”のだとも言っていました」
竜魔法王ヘイズ・グラント、それは慈悲王ベアトリクス最初の敵。
つまり、ベアトリクスが慈悲王として君臨し始めた初期の初期。
ベティが思い出しかけた記憶は、150年近く続いた慈悲王時代の初期のものということになる。
「まぁ、それ自体は歴史通りですね」
「ええ、でも、まるでそれを”知っている”みたいに、話していました」
おかしな話だ。ベティちゃんの眠っていた”海上霊廟”は、慈悲王ベアトリクスが自らの墓として用意したもの。
ベティちゃんがいったい何者か?というところに不明な点はあっても、彼女が慈悲王時代末期の人であることは間違いない。
それなのに初期の記憶を思い出しかけたのは、いったいどういうことなんだ?
「……奇妙ですね。本当に」
「ええ、それに思い出しかけた途端、震え始めたんです。
だから今は起こしたくない」
ボクの言葉に頷いてくれるフラウ殿下。
けれど、そこからベティちゃんが目覚めてしまうまで、それほどの時間はありませんでした。
せっかくフラウ殿下がゆっくりと待ってくれて、本当に穏やかな時間が流れていたのに。
「……ごめん、寝ちゃってた、かな?」
「良いんだ。おはよう、ベティ」
ベティの黄金色の瞳が、フラウ殿下を捉える。
そして、ベティの右手が、ボクの腕を掴む。
――ああ、やっぱりか。怯えているんだよな、ベティは。
このフラウ殿下という人に。
「おはようございます、ベティ。
寝起きのところ失礼ですが、私のお願い、聞いていただけませんか?」
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