深水葵 夏 06
合唱コンクール当日、葵のクラスはどのクラスよりも堂々としたソロによって、学年優勝を成し遂げた。あずきの歌声は全校生徒を魅了した。
放課後、知らないアドレスからメールが届いた。
――校門にいる。
それが菫からのメールだとは予想がついた。教室の片隅で何か言いたげなあずきに笑みだけを残して、葵は校門へ急いだ。
校門の前には一台の黒の車が止まっていた。
葵が姿を見せると、ドアが開き菫が下りてきた。菫は彼女が通っている学校の制服姿だった。
「久しぶり」
菫が言った。
うん、と葵も言った。
数秒の見つめ合いがあった後、菫が吐き捨てるように言った。
「葵。アンタが悪い訳じゃないのは分かってるのよ」
瞬間、菫の中に浮かんだ感情が葵には分かった。
それは蛍のような妖光。
冷たく燃えたぎった憎悪だった。「でも、私はアンタが許せない」
「うん」
「幸せになるなら勝手に一人でなりなさいよ。わざわざ見せつけるような下品な真似せずに」
うん、とやっぱり葵は頷いた。
「今日がアンタにとって大切な日なんだろうってのも、なんか分かったわ。区切りだったのよね」
さすが同士。以前の運命共同体。よく分かっている。
「アンタと私の立場が違ったら、もしかしたら私もアンタをこういう場に呼んだのかも知れないわ」
そうかも知れない。
そして、その時に葵が抱くだろう感情は、全身の骨が軋むほどの嫉妬。まさに今、目の前にいる菫からそれを感じる。
「葵。私はアンタが許せない。あの家にいたアンタなら分かるでしょ? 今、私がどんな日々を送っているか?」
「うん」
「アンタは今日、私をここに呼ぶことで何かを得るんでしょうね。そして、これからアンタは私が到底手に入れられない、温かくて柔らかい幸せを手にしていくんでしょうね」
その通りだと思う。
葵はこれから望まずとも幸せになっていく。満たされた素晴しいものを手にしていく。太陽を怖れなくなったように、母のように声を出して笑うかも知れない。
もう葵はそれを否定する理由を持ち得ない。
「深水葵。覚えておきなさい。
アンタが幸せになる度に、私がアンタを不幸にしてやるのよ。逃げられると思わないことね」
望むところだった。
葵は菫と契約したかった。
菫はあの家にいる以上、損なわれ続ける。
誰も責めることも出来ず、ただ苦しい日々を送るだろう。葵はそれを知っていることを無視できなかった。
だから、どんな形でも良い。
あずきと友達になる前に、本当に幸せになってしまう前に葵は菫と強い繋がりを、契約を得ておきたかった。
それが蛍のような妖光。憎悪であっても問題は些末なことだった。
これから葵に訪れるだろう途方もない幸福をそのまま受け入れるなんて、葵には耐えられない。真っ暗な洞窟に数日、閉じ込められた人が光ある場所に出る時、目をタオルで覆うようなことを、葵は求めた。
光はあずき。
目を覆う闇が菫。
葵は自分を心底嫌な人間だと思った。
ただ幸せになることに怯え、ただ不幸になることも拒否し、こんな回りくどい契約を取りつけた。
「菫」
と葵が言った。
「なに?」
「今日は来てくれてありがとう」
ふん、と菫は鼻を鳴らし「葵。アンタの隣には地獄があるし、アンタは地獄の住民よ。どこまで行ってもね」と言った。
うん。そうかも知れない。
でも、菫。
あなたが私の隣を歩く以上、地獄の横には光があると分からない、あなたじゃないよね?
最後の最後、菫が葵に背を向けるほんの刹那、彼女が僅かに笑ったような気がした。
教室に戻ると田中あずきが自分の席で文庫本を読んでいた。
葵の顔を見ると、僅かに顔を上げ、ぎこちない笑みを作った。
「お待たせ、あずきちゃん」
と葵は言った。
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