試練の時に何を思う
それから村瀬が本郷大学に赴任してから初めての秋を迎えた。大学は魔界なのだから季節なんてありはしない。農業のように季節に合わせて仕事の内容が決まるのではなく、一般の社会で年度の始まりが四月で一年が365日だから、それに従うだけだ。
大体、七曜制なんてメソポタミア文明の遺物だ。それに伴ってハッピーマンデーという制度が出来たが、魔界の住人には迷惑なだけだった。
そんなある日、村瀬が一人に一つあてがわれた個室でくつろいでいると、ドアをノックする音が聞こえた。「どうぞ」と言うと、入室してきたのは沖田だった。魔界にあって人間臭が抜けない青年だ。
「折り入ってお願いがあるんですが……」
沖田はおずおずと申し出た。
「どうした?」
「昨日、朝倉先生のゼミで卒論の中間発表をする機会があったんです。それを見た朝倉先生は怒り出し「こんなものが論文と言えるか」と面と向かって言い出す始末でした。その理由は梅壺紫堂の本から引用してあったからなんです」
梅壺紫堂とはマスコミで活躍している高名な音楽評論家で、村瀬が崇敬する人物であった。
「それは厄介なことになったね」
「何がいけなかったんですか?」
「芸術の世界には大衆娯楽をバカにする風潮があるだろう。それと同じで、大学教授には自分たちが書いた学術書こそが高尚な本で、在野の評論家やジャーナリストが書いた一般書は低俗な駄文だとバカにする風潮があるのさ」
「そうだったんですか……。でも、このままでは大学院に入れなくなってしまいそうです。そこで先生の口添えで、弁解していただけませんか?」
「わかった。そうしよう」
気が進まなかったが、無下に断るわけにもいかなかった。
「ありがとうございます。それでは早い方がいいので明日にでもお願いします」
沖田が退室した直後、またもやるせない気分になった。
沖田は鹿島と違ってこの業界の慣わしを知らず、うまく立ち回れない。二十世紀末には魔界からやって来たと称するバンドが現れたが、それとは逆に魔界に迷い込んだ人間だ。あんなタイプの若者は大学院を修了しても佐和山や北沢のようにしかなれないのだろう。沖田の将来が気の毒に思えた。
それにしても理不尽な話だ。大学教授の中にも一般書に理解を示す人はいて、そこから引用してある例はざらにある。現に村瀬も最近書いた論文で梅壺紫堂の本から引用した。教授たちはお互いの論文を読み合わないから、村瀬が一般書から引用しても誰もとがめることはなかった。それが学生だけ禁止なのだ。これではまるで身分制度だ。
そう言えば、高校生の頃こんな場面に出くわしたことがある。
村瀬が通っていた高校では制服を正しく着ているかがわからなくなるという理由で、冬でもコートを着るのは禁止されていた。そんな中、ある教師がコートを着て歩いているのを見かけた生徒がこう尋ねた。
「どうして先生だけコートを着ていいんですか?」
「君も早く大人になりなさい」
彼はその問いに的確に回答した。校則なんて身分制度の一種にすぎない。大学には校則はなくても不文律はある。いや、どんな業界も同じか。
翌日の昼、村瀬は沖田を連れて研究室に行くことにした。作戦はこうだ。あらかじめアポを取ると、深刻な事態になったような印象を与えて朝倉の態度を硬化させるかもしれない。そこで世間話から始めてさりげなく本題に入り、一般書から引用することに理解を求めるのだ。
二人が研究室に入ると幸いにも朝倉の姿があった。他には北沢と二人の大学院生がいたが、朝倉は一人で何かの冊子を眺めている。これはチャンスだ。村瀬は作戦通り切り出した。
「こんにちは。涼しくなってきましたね」
「そうか。これ以上、寒くならないといいな。私は暖冬が過ごしやすいよ」
機嫌がよくはないが、悪いわけでもない。
「そろそろ四年生の人は卒論のラストスパートですね。近頃は卒論を書けず、留年する人が増えています。今年は全員卒業して欲しいですね」
「留年するなんて情けない話だね。これも自己責任か」
何が自己責任だ。学生が落ちこぼれるんじゃなくて、大学が学生を落ちこぼすんだろうと言いたかったが、今は反論する時ではない。
「ところで、先日、沖田君に不手際があったそうですね。聞くところによると一般書から引用したとか」
「そうだったね。近頃の若者は何を考えているのやら」
「そのことなんですが、一般書からも研究のヒントが見つかるかもしれません。今回は認めてやっていただけませんか?」
「だめだ。梅壺紫堂なんて大衆におもねった本を書いて印税を荒稼ぎしている通俗作家じゃないか。そんな本から引用するなんて、これから研究者を志す学生のすることか」
当初は一般書から引用することを認めてもらおうと思ったが、これ以上、議論するのは不利だ。そこで方向性を変え、こちらの非を認めた上で許しを請おうとした。
「一人前の研究者になるには時間がかかります。まだ駆け出しの学生には道理がわからないものです。今回は許してやっていただけないでしょうか」
「すみませんでした」
さっきから黙っていた沖田も頭を下げた。
「まあ、いいだろう。誰にでも過ちはある」
朝倉はそう言ったが、沖田の方を向いてこう問いただした。
「沖田君。君はなぜ通俗的な本に興味を持ったんだね?」
「村瀬先生の論文に引用してあったからです」
「そうか。そういうことか」
そういうこととは何だろう。二人が少し考えていると、朝倉はこう言い出した。
「学生に研究の何たるかを教える立場にある者が研究を逸脱するとは」
「研究を逸脱するとはどういうことですか?」
聞き返した村瀬に朝倉は厳しく言い放った。
「マスコミの低俗な談義を流入させるなど研究じゃない。そんな怠惰な姿勢で研究に臨むなど研究の逸脱もはなはだしい」
いつの間にか話がそれている。朝倉は沖田が一般書から引用したことをとがめていたはずが、被告が村瀬に切り替わった。村瀬もカチンと来たので、即座に言い返した。
「思索を深めているのは研究者だけではありません。在野の評論家だって立派な本を書いていますよ」
「そんな本は学術的な方法論に則っていない。ひどいのになるとフィクションやゴシップが混ざっているかもしれない。そんな本から引用するなど研究者の名折れだ」
「日本語では目的のためには卑怯なことをするのも辞さないのを手段を選ばないと言います。学問の発展のためなら手段を選ばず、何でも採り入れるべきではないのですか?」
「どんな学問にも伝統に裏付けられた正統な流儀がある。調和の取れた端正な研究の在り方を汚すわけにはいかないのだ」
朝倉が声を荒げると、室内に険悪な空気が流れた。これは穏便に収めるのが難しくなった。作戦は失敗した。そう思って村瀬は冷や汗をかいた。
それを察したのか、さっきからその場に居合わせて話を聞いているだけだった北沢がコーヒーカップを運んできた。
「これを飲んで落ち着いてください」
そう言って、カップを机に置いた。それで束の間ではあるが、空気が和らいだような気がした。
この研究室にコーヒーメーカーはない。インスタントのカフェオレだ。刑事ドラマでは刑事が私費でカツ丼をおごると、容疑者が「俺がやりました」と涙ながらに自白するのが定番のシーンだ。ここではカツ丼は人情の象徴だ。人情に触れるとき、かたくなな心は解ける。村瀬も朝倉も譲歩できない性格だ。それをこのカフェオレはどう解きほぐすのだろうか。
それを口に運ぶと、村瀬はむせ返りそうになった。強烈な苦みが走ったのだ。インスタントのカフェオレがなぜこんなに苦い? まるで人生の味だ。
この時、郷須都が苦いコーヒーを好んでいたのを思い出した。海千山千の郷須都なら、どんなピンチも切り抜けるだろう。郷須都がここにいたら、どう立ち回るのだろうか?
その直後、十秒ほど動きが止まった。十秒ほどしかたっていなかったが、村瀬には妙に長い時間がたったように感じられた。その十秒のうちに様々な思念が駆け巡った。どうすればいいのか? それ以前に何ができる? これ以上抗うべきなのか? 引き下がるならどう切り抜ける?
それが一陣の風のごとく通り過ぎると、突発的に次の行動に移った。後から思い起こせば軽はずみというしかなかったかもしれないが、こうなるしかない必然の流れだったような気がした。
村瀬はガタッと音を立てて急に椅子から立ち上がると、両手を机に突いて頭を下げた。
「実は私が沖田君にそそのかしたんです」
私という自称は特別なシチュエーションでしか使わなかった。しかし、今が特別なシチュエーションだった。
「沖田君は元々、通俗書に興味を持っていませんでした。それを私が自分の論文から引用するように指示したところ、通俗書から引用してあった部分が孫引きになったんです。全ての責任は私にあります」
村瀬は声を震わせながら偽りを吐露した。それに朝倉はこう返した。
「そうだったのか。だとしたら君は講師の立場を悪用したことになるね。この責任はどう取るつもりなんだ?」
「今後、通俗書からの引用は厳に慎むと誓います」
自由に研究するためには我流を貫くこともいとわなかった村瀬が初めて信念を曲げた。勇者が政敵に屈した瞬間だった。
「そうか。では、今回だけは許そう。せいぜい自分の行いをよく反省したまえ」
「寛大な措置をありがとうございます」
村瀬はそう言うと、研究室を出て行った。沖田もあいさつもそこそこにそれに続いた。その直後、朝倉がどんな顔をしているだろうかと想像した。不機嫌なままだろうか。それとも勝ち誇っているだろうか。いずれにしても、もう対抗する立場にはなかった。
数分間並んで歩いて、話しても研究室に聞こえない距離に達した所で沖田が口を開いた。
「さっきはすみませんでした。先生を巻き込んでしまって」
「これでいいんだ。俺は元々、自由に論文を書ける立場じゃない」
「しかし、不公平ですね。朝倉先生は平気で一般書から引用しているのに」
「そうなのか。あんなことを言う人が」
村瀬は怪訝な表情を浮かべた。
「でも、最新の論文を読んで、がらりと傾向が変わったのに驚きました。以前は前衛的なテーマで書いていたのに、今度はヘーゲルのテクストを扱ったオーソドックスな論文です。やっぱりベテランの教授は守備範囲が広いんですかね」
それは村瀬も読んだが、旧式の着想から抜け出せない論文に思えた。だが、自分が赴任する前に朝倉がどんな論文を書いていたのかは知らない。あのアナクロニズムの塊のような朝倉がそんな左翼的な論文を書いていたのか。どんな論文なんだろう。村瀬の中に疑念が渦巻き始めた。
その日、一日の仕事が終わると研究室に行った。無造作に積み重ねられた雑誌や書類の数々。しばらくそのままになっていたらしく、ほこりをかぶっているものもある。それは何を象徴するのだろう。
村瀬はほこりを払いながら、その中の一冊を手に取った。そして、その目次に載っている論文の題名を見てあっと驚いた。何とそれは村瀬がゴーストライターとして書いたものだったのだ。依頼人が厄介な人間関係に巻き込まれないようにするために、あのグループでは郷須都からは誰が依頼し、何という出版物に掲載されるのかは知らされないことになっていた。だから、その瞬間まで依頼人が朝倉だとは知らなかったのだ。
村瀬は研究室に置いてあった他の研究紀要やマスコミの雑誌を片っ端から調べ始め、バックナンバーを読み返してみた。これもだ。これもだ。村瀬が書いた論文は四点に上った。その瞬間、村瀬の中に渦巻いていた疑問は氷解した。
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