訪れた栄転
二日後、村瀬は非常勤講師を務めている西条大学に行った。非常勤講師の控室は広い部屋に大勢が収容され、その点でも専任講師とは待遇が違う。あたりを見渡すと数人の非常勤講師たちは皆、日々の生活に疲れているようで、暗い顔付きに見えた。
その中で村瀬は見慣れた顔を見つけた。
「おはようございます」
「あ……。おはよう」
村瀬の方から先に声をかけると定型的な反応が返ってきた。それは佐和山令子だった。帝都大学で美学を専攻し、村瀬より二学年上の先輩だった。佐和山は美学の出自だったが、学生の頃から表象文化論に興味を示し、両者の長所を採り入れ、それを融合させた新しい分野の草分けになりたいという野心を早くから表明していた。
だが、そういった研究は大道寺から疎まれ、そのためなかなか専任講師になれず、非常勤講師として日々の生活費を稼ぐことを余儀なくされていたのだ。
「なんだかこの生活にも慣れてきましたね。俺も非常勤講師が板に付いてきた様な気がします」
「そんなことを言ってたら日々の生活が楽しくならないわよ。私は毎朝、鏡に向かって念じるの。今日もいい日になあれってね」
それはあるアニメの次回予告のセリフなのだが、村瀬には通じなかったようだ。そんな呪文を唱えようとする気力があれば、日々の生活も活気付くのかもしれない。
しかし、次の瞬間には佐和山は元気を急落させて語った。
「ねえ、村瀬君。私たちっていつまで非常勤講師なんだろうね」
佐和山のシリアスな発言で、二人の間に漂う空気が変わった。
「私は既に専任講師になった人たちと比べて、自分が劣っているとは思わないけどね」
「専任講師に採用される日をひたすら待つしかないですよ。それしかできることはないし」
「スポーツの世界みたいに、実力さえあれば、のし上がっていければいいのにね」
研究者なら学歴や人脈が出世の条件だが、ゴーストライターなら実力でのし上がっていける世界だ。佐和山もゴーストライターをやればいいのだが、村瀬がゴーストライターをやっているのは口外してはいけないことだ。
「じゃあね。また来週会いましょう」
講義の時間が近づいたので、佐和山は立ち去った。
それから村瀬は自分の講義を行うために、だだっ広い教室に向かった。教室に入ると多くの学生が何やらもの憂げな表情を浮かべて、それでも一応前を向いていた。
講義の題目は音楽の近代化とバッハの精神性の関連性だ。バッハは音楽の父と呼ばれるが、それ以前に音楽がなかったわけではない。バッハがそう位置付けられるのは音楽が近代芸術に再編される過渡期に活動したからだ。それでは音楽が近代芸術に変貌する過程で、バッハの作品に込められた精神性はどのように形成されていったのか。バッハの初期から晩年までの作品を概観し、その形跡を探究する。そんな講義だ。
しかし、近頃の若者はもっと現代的な問題に興味を持つだろう。初めはもっと若者の興味を喚起する講義をしようと思ったが、非常勤講師の身分でそんなことは言っていられなかった。
講義中、つまらなそうに群れている学生たちを見てふと思った。ベテランの教授がそんなに豊かな学識を持ち合わせているなら自ら教壇に立って講義をすればいい。そうした方が勉強もおもしろくなるだろう。それでも給料が安い非常勤講師にやらせた方が大学の営利のためになる。これだから学生のモチベーションも上がらないのだ。結局、大学は純粋な教育機関ではないということなのだろう。
講義が終わって帰ろうとすると、掲示板の前を通りかかった。何気なく視線を送ると公募の張り紙がしてあった。「○○大学文学部専任講師、専門 西洋近代史学、条件 修士の学位を持っていること」とか何とか。
しかし、何のコネもなく本当に「公募」で採用しているケースがどれほどあるのだろう。そう思うと胸中が都会的な乾きに満たされた。
その日の仕事が終わると、電車に乗って帝都大学に向かった。今日は大学院生が自主的に行っている研究会に付き合う日だ。彼らが行っているのはカントの『判断力批判』の講読。カントのテクスト研究は百年以上前に美学が日本に上陸した時から行われている。当時から研究のテーマも方法論も変わっていないのだ。
校門をくぐると学生の頃から見慣れた景観が視界に入って来た。今さら何の親近感も感じず、研究室に入った。何かを象徴するようにくすんだ校舎と古びた机。それは一体何を意味するのだろう。
その中で一同の中の一人が
「それでは今日の研究会を始めます」
と宣言して研究会が始まった。
研究会が始まると村瀬は上の空でこんなことを考えていた。現代人は巨人の肩に乗っていると言われる。ある人が平らな所に土塁を築き、次の世代の人がさらにその上に土塁を積み重ねるということを経て文明は発展してきたのだ。
しかし、美学ではそうすることはできない。次の世代の人も先人の業績を継承できず、やはり何もない所に土塁を築くことを繰り返しているのだ。これでは整然とした理論体系は出来ないし、これまでどんな研究が行われ、どんな成果を挙げてきたのかも定かではない。だから美学はいつまでも進歩しないのだろう。
それに先哲のテクストにはそんなに価値のあることが書かれているのだろうか。プラトンやアリストテレスなら哲学的に優れたテクストを残したのかもしれないが、デリダやドゥルーズになると一流大学を卒業してエリートコースに進み、学界の重鎮になったから、もてはやされているだけではないだろうか。これが日本のドコヤラ大学卒のライターが書いたんだったら見向きもされないだろう。
学生たちはもっと目新しい研究をしようとは思わないのだろうか。例えば表象文化論のような。そんな学生がいないはずはない。村瀬にはこの研究会が表象文化論に興味を示していることをカムフラージュして、旧来の美学に心酔しているふりをするために行われているような気さえしてきた。
そんなことを考えていると、いつも通り研究会も終わった。今日も何の実りもなかったなと思いながらも、帰ろうとすると学生の一人が呼び止めた。
「村瀬さん。そう言えば、大道寺先生が話があると言っていましたよ」
「そうか。ありがとう」
小学校から高校までは卒業すると学校との縁はすっぱりと切れるが、大学では一生の付き合いになる。現に今も学生の頃の恩師から呼び出されるのだから。今日は何の用件だろう。重い足取りで大道寺の研究室に行った。
非常勤講師とは違って帝都大学の教授は一人に一つ研究室が与えられ、待遇も違う。うらやましいと思いながらドアを開けると、すぐに大道寺が椅子に座って悠然と構えていた。
「やあ、村瀬君。待っていたよ」
「わざわざ待ってくださるなんて光栄です」
「いや、大した労力じゃないしね。君の方こそ来てくれてありがとう」
二人とも互いに相手をねぎらうようなやり取りを交わしたが、大道寺は平凡な質問をした。
「君は非常勤講師になって何年になるのかな?」
「もう少しで三年です」
「そうか。長いような短いような期間だな。この業界はどこまでが学生でどこからが社会人なのか明確でないし、大学教授は給料をもらえる学生で社会人ではないという説もある。君は社会人になったという自覚はあるかね?」
「社会人なのかはわかりませんが、業界の空気にどっぷりと浸かって魔界の住人になったような気はします」
「そうか。我々は悪魔なのか」
大道寺は苦笑した。幾多の関門を乗り越えて海千山千の年季を積み重ねた大道寺こそ、まさに魔界の住人と呼ぶにふさわしいだろう。その後、少し間を置いて本題に入った。
「実は本郷大学の美学芸術学研究室の教授の一人が今年で定年になるんだ。そこで、その後釜に君を推薦しようと思うんだが、引き受けてくれるかな?」
その言葉を聞いて、村瀬の心中に何かの感慨が洪水のようにわき起こった。まさか専任講師のポストが舞い込んで来るなんて。
「もちろんです」
「じゃあ来年度から本郷大学で働くように取り計らっておこう。話はこれで終わりだ」
「ありがとうございます。この御恩には精一杯、報いる所存です」
そう言うと村瀬は厳かに退室した。その直後、実感がこみ上げて来た。やったぞ。ついに専任講師になれるんだ。非常勤講師に甘んじていた日々はこれで終わる。
帰宅する途中、大道寺の言葉を反芻すると村瀬の心中は言葉にならない感情で満たされた。街の景色も変わり、都会の雑踏を通り抜ける間、清涼感が吹き抜けた。空がより青く、街路樹の葉がより緑に鮮やかな色彩を放っていた。
村瀬はこれからの自分の行く末に想像をめぐらせた。夢にまで見た憧れの専任講師だ。これで好きな研究に打ち込める。これまではゴーストライターとして書きたい論文を書いていたが、これからは自分の名義で論文を書いて准教授、教授へとのし上がっていくのだ。村瀬は喜びにうち震えていた。
帰宅すると颯爽と玄関のドアを開けた。
「あら、お帰り」
雪奈はまだ知らないせいか、いつも通りの反応をした。
「喜べ。俺は専任講師になったぞ」
「え~。そうなの。おめでとう。やっと努力が報われたわね」
「お前と結婚する時はこんな浮き草稼業でいいのかと思ったけど、これで所帯を持つにふさわしい男になったな。やっと親戚にも顔向けできるよ」
「だったら私も人に自慢できるかもね。私もうれしいわ」
「お前も夫が教授になった方が誇らしいだろ」
「どうかな。ゴーストライターをやっているあなたも十分、生き生きしていたしね。叶えたい夢が過去のものになって、これからの目標がなくなると、人生もつまらないかもよ」
「これで終わりじゃないさ。これから准教授、教授と出世して、それからは一般向けの本も書いて論壇の寵児になって見せるよ」
「これからも夢をひたむきに追いかける人でいてね」
その夜、二人は高級なウイスキーで乾杯した。高層マンションの高い所から下方を見降ろすと、街は往来する車や点灯するネオンの光であふれていた。それを見ると何やらナルシスティックな気分がした。スパンコールのように星が輝いて夜空の色がなぜかシックに見えた。いつまでもふけないような格別な夜だった。
翌週、西条大学に行った。この大学にはネガティブな感情しか持っていなかったが、もう少しで縁が切れるとなると、なぜか親近感を感じた。そう思うと校舎や樹木の色も違って見えた。
控室に入るとすぐに佐和山の姿が視界に飛び込んで来た。苦楽をともにしてきた佐和山なら、専任講師になったことを告げると一緒に喜びを分かち合えるような気がして真っ先に報告した。
「俺、本郷大学の専任講師に採用されたんです。これも少しは佐和山さんのおかげのような気がします。今までありがとうございました」
「おめでとう。定年まで勤められるといいわね。私はその頃も非常勤講師のままかもしれないけどね」
そう言うと佐和山は寂しそうな微笑を浮かべた。続いて佐和山はため息混じりに言った。
「君にも先を越されちゃったかな」
「そんな。佐和山さんにもまだチャンスはありますよ」
「よく音楽の何とかコンクールで史上最年少で優勝なんてニュースが流れるでしょ。ああいうのを聞くと私はくだらないことに明け暮れてきたなって思うのよ。この歳で定職に就いていないしね」
「くだらないことだとは限りませんよ。いつか努力が実るかもしれないんですから」
「同じ所に留まるには常に走り続けなくてはならないのよ。私はそうできないからどんどん後ずさっているのかもね」
その言葉には村瀬も妙に納得した。自分も常に走り続けたけど、同じ所にしか留まれなかった。
「じゃあ今日はこれで。佐和山さんもいつか専任講師になってください」
そう言って佐和山と別れたが、佐和山の言葉はなぜか村瀬の心に引っかかった。まるで定年まで勤められない可能性があるかのような言い方だった。佐和山には他意はないのだろうが、その一言が何かを暗示しているようだった。
その翌日、本郷大学に勤めることになったことと、そのためゴーストライターをやめることを告げようと、郷須都を渋谷のハチ公前に呼び出した。暴力団や新興宗教は一度入ると出るのが難しい。すんなりとやめられるのだろうか。そんな不安が胸中を満たした。
都会を往来する人々は誰もが忙しそうに歩いている。いつまでも同じ所に立ち止まってはいられないんだなと思った。
本番を前に冷静に対処できるように郷須都より先に到着しようと三十分も前に来たのだが、さすがに早過ぎたようだ。
そんなことを考えていると、やがて郷須都が現れた。
「やあ、村瀬君。今日も地球は回っているね」
「ええ、そうですね……」
当たり前のことをユーモラスに語った郷須都に村瀬の緊張の糸もほぐれた。
「話があるなんて言ったけど、何だい?」
「取りあえず、いつもの所に行きましょう」
そう言って二人はいつもの喫茶店に移動した。
心の準備はしてきたつもりだったが、いざ切り出すとなると緊張してきた。村瀬は声がうわずらないように意を決して語り始めた。
「実は来年度から本郷大学に赴任することになったんです。それでゴーストライターをやめさせてもらえませんか?」
「そうか。名残惜しいねえ」
重大な一件を告げても郷須都は意外と平然としていた。
「そうか。名残惜しいねえ」
「あっさりとやめさせてくれるんですか?」
「そんなことで揺らぐようなら、このゴースト倶楽部は今までやって来られないよ。人材はもともと流動的だし、それ以前に大学教授が発表する論文なんてどうせ書いた人しか読まないんだから、内容が優れている必要はないんだ。君がいかに有能な人材でも手放すのが惜しいとは思わないよ」
このグループがゴースト倶楽部という名称だったこともこの時初めて知ったのだが、引き止めようとしない郷須都に村瀬も安堵した。
「一つ忠告しておくけど、自分の名義で論文を書いても一円にもならないよ。それでいいのかい?」
「少しでも自分の業績を積み上げたいんです」
「そうか。業績を積むための論文を書くつもりなのか。書ければいいんだけどねえ。どちらにしても、やろうとする君のガッツには敬服するよ」
まるで書けないみたいな言い方だ。郷須都が何を言いたいのかは村瀬にはわからなかった。
「そうですか。最後までありがとうございます。このグループに関われたことは俺の人生にとって無駄なことではありません。これもいい経験になりました。郷須都さんには感謝して、これからの人生を歩んでいきます」
「だったら僕も君の門出を祝うとしよう。だが、ノストラダムスじゃないが、僕も一つ予言をしよう。君はいつかゴースト倶楽部に帰って来るような気がするよ」
郷須都の言葉は余韻を残したが、そうならないようにと村瀬は心に念じた。そして店の外に出ると
「今までありがとうございました」
と最後のあいさつをして郷須都と別れた。
帰宅する途中、なぜか郷須都の予言が脳裏にリフレインした。どうして帰って来るんだと率直に思ったが、郷須都の言葉はなぜか説得力があるような気がした。それでもそんな邪念は振りほどいて、これからの人生に備えた。
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