同盟締結

「それは違うよ。村瀬君」

 大道寺啓示は言い渡した。

「しかし、近いうちに表象文化論の時代が来ます。これが先進的な学問なんです」

「それはマスコミの間でもてはやされているだけだろう。大学がそれに迎合する必要はないんだよ」

「俺は大学も外の世界に開かれた存在であるべきだと思っています」

「仮にそうだとしても先人の業績をないがしろにしていいことにはならない。どんな学問もそれを継承する者がいなければ、失伝してしまうんだ。例えばヴァイオリンがそうだ。三百年も前に作られたヴァイオリンが今でもストラディバリウスと呼ばれ、法外な大金で取引されているのは、現代の職人がそれ以上のものを作れないからだ。つまり、いかに優れた業績を挙げても、それを後世に残すことができなければ、学問は進歩するどころか劣化することもあるんだ。先人の業績を謙虚に引き継ぎ、次の世代に託すのが研究者の使命なんじゃないかね?」

「しかし、社会の要請に応えなければ、美学もかつてスコラ哲学が陥ったように学僧にしか理解できない学問のための学問に成り下がってしまいます。今、時代は新しい潮流を求めているんです」

「青臭い理想論だな。若者がそんな思想に染まってしまうのも仕方ないか。だが、君も私と同じくらいの年頃になれば、そんな発想からは自ずと脱却できるよ」

 そう言ってコーヒーを一口すすった。

「いいかね。表象文化論なんぞはマスコミにおもねった道化だ。学問は大衆娯楽じゃない。時代から超然としたものなんだ。一過性の流行に流される必要はないんだよ」

 大道寺が厳然と断定すると、それっきり村瀬も二の句が継げなかった。

 村瀬は最高学府として名高い帝都大学で美学を専攻した。美学とは美・芸術・感性的認識の特質や構造に関わる問題を哲学的に考察する学問で、ヨーロッパのテクストを解読するのが主流だが、広義には音楽・美術・演劇などを扱うこともある。いずれの場合も哲学や芸術は人間の精神が込められた結晶であり、作者や作品に込められた精神性を解明することが学問の王道だった。

 それに対して二十世紀末になると、その延長線上に新しい学派が生まれた。それは芸術が及ぼす意味作用を作者や作品に閉じ込めるのではなく、それが生産・消費される生きたコンテクストに置き戻し、関係性の空間の生成と構造を考察することによって、従来の古い枠組みでは捉えきれない多様な問題系に光を当てることを目指した。そして、狭義の芸術だけではなくサブカルチャーも含めたあらゆるジャンルのメディアを横断し、従来の学問の領域を越えた新しい分野を開拓してきた。

 この新しい学派は表象文化論という名称を好んで名乗り、その斬新さをマスコミにアピールしてきた。それは目新しいことに興味を持つ若者を魅了し、たちまち有力な派閥を形成した。

 だが、それと同時にその急進性は保守的な学派から反発を受けた。それによると表象文化論は大衆受けをねらったプロパガンダだ、美学の伝統をないがしろにするものだと。それまで築いてきた学説や方法論が別のものに置き換えられることが忌避されたのだ。

 美学か、表象文化論か。次の時代の芸術論をリードするのはどちらなのか。避けられない命題が現代社会に提示された。

 ここで苦境に立たされたのが研究者を志す若者だ。いつの時代にも若者は目新しいことに興味を示すもので、多くの大学で表象文化論の研究をしたいと言う若者が層を成して現れた。村瀬もその一人だったが、大道寺のような保守派の教授からは受け入れられず、重鎮の反感を買うと一生、研究者になれなくなる恐れがあった。そこで村瀬もうわべでは従来の美学の研究をするふりをするしかなかった。


 こうして村瀬は研究者への道を歩み始めたが、自立しなければならない現実に直面した。もう学生ではない。これまで仕送りをしてくれた両親も社会人なんだからと打ち切りを宣告した。これからは大学の非常勤講師として生活費を稼がなければならない。その頃は雪奈との結婚も意識し始めた。そのために大学の非常勤講師以外にも職を確保しようと思った。

 そこで村瀬はある予備校を訪れた。実はここで二年前までアルバイト講師をしていた。当時は高給で雇ってもらえたから喜んでいたが、研究に専念したいからと二年前にやめたのだ。

 建物の外観や内装は二年前と変わらなかったが、なぜか流れる空気の色が変わったような気がした。一人の職員が面接に応じたが、定型的なやりとりを交わした後

「今の時代、予備校は斜陽産業ですからねえ」

 と無情に言い放った。それを聞いて、村瀬は時代の流れと自分の甘さを痛感した。今や大学も予備校も一流大学を卒業したからといって厚遇される時代ではないのだ。

「結果は後日、連絡します」

 職員はそう言い渡したが、これはだめだろうと察知した。

 高校生の頃は優等生と周囲にもてはやされたが、もう人生が下降線に入った。あとは坂道を転がり落ちるだけなのだろうか。この身分では雪奈とも結婚できないな。

 そんなことを思いながら重い足取りで帰ろうとすると、背後から声が聞こえた。

「あれ? 村瀬じゃないか。青木だよ」

 振り返ると見覚えのある顔があった。以前この予備校で講師をしていた青木だ。大学は違うが、同じ場所で働く者同士で気が合って旧知の仲だった。

「今はどうしてるんだ?」

「この予備校の常勤講師さ。教員免許も持っているけど、予備校講師の方が気楽な商売だからな」

 青木は外国語学部で英語を専攻していた。二流の大学を卒業しても英語の専門なら常勤講師になれるのか。それに引き換え、美学は金にならない学問だ。何のために研究しているんだろうと思った。

「俺は大学の非常勤講師になってワーキングプアに収まろうとしているよ。研究者なんてそんなものかもしれないけどな。どこで間違えたのかな」

「世の中、要領よく立ち回る方法はいくらでもあるさ。俺の知り合いに実入りのいい仕事を仲介してくれる人がいるんだ。お前にぴったりの仕事だよ。仕事がないなら紹介してやろうか?」

「何の仕事だ?」

「今はそばに人がいるから言えないよ。俺はこれから授業があるから、もう行くな。それじゃ」

 そう言って青木は立ち去った。そばに人がいる状況で言えない仕事って何だろう。非合法な仕事だろうか。


 その日の夕方、アパートの一室に帰るとコンビニで買った弁当を電子レンジで温めた。完了するまで二分かかる。雪奈と結婚したら二人で夕食を取るようになるだろうけど、いつのことだろうか。二分間は長くはないが、今の村瀬にはそれだけでもやるせない時間に思えた。

 その時、電話が鳴った。こんな日でも電話の着信音は騒々しい。受話器を取ると、声の主はこう告げた。

「僕は郷須都雷太。君の輝かしい未来へのチケットを握る男だ」

 まるで事前に用意した台本の一節を読み上げたような文句だ。誰かわからず戸惑っていると、向こうから素性を明かした。

「君のことは青木君から紹介してもらったよ。君のような俊英にふさわしい仕事を提供しよう」 

 郷須都はそう言ってほくそ笑んだ。電話で会話しているのだから顔が見えないが、明らかにそうとわかる口調だった。今日、青木が言った知り合いとはこの男か。それにしても、この名前は何だ。どう見ても偽名だ。

「まだ、どんな仕事か聞いていないし、引き受けるとは言っていません」

「そうだろう。そこで一度会って話をしてみないか。明後日の三時、渋谷のハチ公前で待つ。都合が悪ければ他の日でもいいけど、どうかな?」

 村瀬は答えに窮した。これはいかがわしい仕事に違いない。しかし、いかがわしい仕事なら、それだけ報酬も高いはずだ。それにハチ公前で会うだけなら身辺に危険が及ぶこともあるまい。そう思って一度だけ話を聞いてみようという気になった。

「わかりました。お待ちしています」

「了解。出会える時を楽しみにしよう。君の未来へ乾杯!」

 最後まで芝居がかった言葉を残して郷須都は電話を切った。

 その直後、疑問と好奇心が入り混じった感情がわいてきた。この男は何者だろう。自分にふさわしい仕事とは何だろうか。危険な仕事という予感はしたが、それが一介の野心家である自分の天分を駆り立てた。明後日、意外な経験をすることになるだろう。そこには何が待っているのだろうか。

 先ほどまでの暗い気分は吹き飛んだ。電子レンジからピーと電子音が鳴ったのに気付かないほどだった。


 明後日、村瀬はハチ公前で待っていた。東京で生まれ育った村瀬にはなじみの場所だったが、ふとこんなことを思った。

 ハチ公は帰る見込みのない主人を十年も待ち続けた。もうあきらめようとは思わなかったのだろうか。あきらめる決心がつかなかったのだろうか。空しく待ち続けるハチ公の姿は、大成するとは限らないのに未練がましく期待している自分に重なった。

 ぼんやりと遠くの方に目をやると、視界に一人の男が映った。彼はこちらに近づき、輪郭は次第に大きくなってくる。そして、目の前で立ち止まると口を開いた。

「村瀬君だね?」

 そう声をかけた男はスーツを着こなしていたが、顔がてかてかと脂ぎって紳士的とは言えない風貌だった。時代劇に出て来る高利貸しが現代にいるという印象だった。

「僕が郷須都雷太だ。君のような同志に会えてうれしいよ。今日は僕たちの出会いの記念日だ」

 と言われても、また同志になった覚えはないのだが。村瀬がリアクションに困っていると、郷須都は

「場所を変えようか。落ち着いてゆっくり話そう」

 と言って歩き出した。

 休日なら人混みでごった返している渋谷も平日の午後なら急ぎ足で歩ける。数分ほど歩くと、郷須都は桃園という看板の前で立ち止まった。

「この喫茶店はモモゾノと読むんだが、僕はトウエンと呼んでいる。『三国志演義』に出て来る桃園の誓いを連想してしまったからね。だから、ここを利用することにしたんだ」

 店内は若者が集うおしゃれな内装というイメージではなかった。そう感じるのは郷須都が隣にいるからだろうか。

 適当な所に着席すると、村瀬の方から先に口を開いた。

「それで何の仕事を紹介してくれるんですか? 青木は俺にぴったりの仕事と言いましたけど」

「大学教授が発表する論文のゴーストライターをやってみないか?」

「えっ……」

 村瀬は絶句した。大学教授もゴーストライターを雇っているのか。そう言えば、他人の論文を横領したり盗作したりするケースはざらにある。ありえない話じゃない。

「大学教授なんて実力がある者がなる職業じゃない。その一方で、実力があるのに教授になれず非常勤講師で食いつないでいる若者が圧倒的に多い。せっかく優秀な人材がいるのにもったいないと思わないか? こうするのが社会のためなんだよ」

「しかし、そんなことをしても自分の業績に加えられません。苦労して書いた論文を金に換えるだけとは……」

 村瀬は最後まで言い切らないうちに言葉を濁した。そんな答えを予想したのか、郷須都は牧師が諭すように語った。

「君は帝都大学を卒業したんだ。一流大学卒なら大企業に正社員として終身雇用されることもできる。それを捨ててまで、どうして研究者の道を選んだんだ?」

「目的はありません。純粋に研究が好きでやっているんです。これがライフワークなんです」

「模範的な精神だな。だが、君はやりたい研究をやる立場にあるのかな?」

 郷須都は見透かしたように本当のことを言い当てた。

「教授になれば、自分のやりたいことを自由に研究できるはずです」

「しかし、教授なんて狭き門だよ。仮に教授になれたとしても二十年ほど先の話だ。それに教授になれたら御の字で、下手をすれば一生、非常勤講師で終わる可能性もある。そんなに我慢するより、今すぐにやりたいことをやろうと思わないか?」

 村瀬は一瞬のうちに自問した。俺は名声のために教授になりたいんじゃない。自由に研究したいからだ。それは手を伸ばせば、今すぐにつかみ取れる。残された人生があと五十年しかないのに、二十年も待ち続けるのか。それとも東京砂漠の砂塵の中で朽ち果てていくのか。違う。俺はハチ公のようになりたくはない。

 そう思うと村瀬の中で好奇心がうずうずとわいてきた。熱血という言葉があるが、物理的に血液の温度が高くなるわけではない。だが、この時だけは本当に体内の温度が上がった気がして熱に浮かされた。血湧き肉躍る興奮。内側から自分を破る衝動。それが村瀬を突き動かしていた。

 三十秒ほどしかたっていなかったが、たったそれだけの間に考えは熟した。

「ええ。やりましょう」

 力強く答えた村瀬の言葉は生気に満ちていた。

「今日から僕たちは志をともにする仲間だ。この桃園で同盟を結ぼうじゃないか。我ら生まれた日は違えども死す時は同じ日を願う。と言いたいところだけど、僕は妖怪だから寿命が五百歳ぐらいあるんだ。君と同じ日には死ねないねえ」

 郷須都はそう言って笑い出した。

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