竜王の花嫁たち
桜月黎
序章
暗闇を抜けると──そこはおっぱいだった。
***
真っ暗で右も左も上も下もよくわからない空間を、落ちているとも進んでいるとも言える漠然とした移動する感覚だけがあった。
それはどのくらい続いただろうか。
長かったようにも短かかったようにも思える曖昧なひと時はしかし、唐突に終わりを迎えた。
最初に目に入ったのは、白く艶やかな何かと、薄紅色のアクセントが二つだった。
次の瞬間にはまた何も見えなくなってしまったが、代わりに極上の柔らかさと心地よいぬくもりが顔全体を包み込んでいた。
俺は瞬時に理解した──これは、おっぱいだと!
そして同時に悟った──ここが、天国だとっ!!
ワッ! と大きな歓声が上がる。
そのことに、俺はなんら不思議を感じなかった。
それはそうだろう。
この真の極楽へ辿り着いて、悦びに打ちひしがれない方がおかしいのだから。
己の顔を包むモノを両手で掴み、じっくりと感触を確かめる。同時に肺よ弾けろとばかりに、ゆっくり大きく息を吸い込んだ。もちろん鼻から。
「ひぅっ」
何か聞こえた気がしたがそれに意識を裂くことはかなわなかった。
植物由来と思われる甘やかさに、仄かに汗が混じり合った独特の香りが俺の脳みそをビシバシ刺激していたからだ。
『色香』というものに具体的な例があるのなら、きっとこれのことを指すのだろうと、胸に深く深く刻み付けた。
ここまで来ればもう、意識せずとも次にとるべき行動は決まっていた。
目の前にあるであろう柔肌にそっと舌を這わせ──
「ふんっ!」
あごを打ち抜く強烈な衝撃!
痛みを感じるだとか、断末魔を上げるだとかそういう暇すら許さず、その一撃は俺の意識を刈り取ったのだった。
おっぱいを抜けると──そこはまた暗闇だった。
***
「……はっ! おっぱいっ!!」
「第一声がソレなのは、呆れるべきか頼もしく思うべきか、判断に迷いますね……」
「ぬ、その声は」
聞きなれた声のする方へ目を向けると、そこには見慣れた少女が端然とたたずんでいた。
「おぉ、俺の愛しい愛しい賢明なる妹、
「……私にそれが無いかのような物言いについては後で追及するとして、出来れば『ここはどこだ?』とかそういうセリフが聞きたかったです」
「そんなことより、俺のおっぱいはっ!?」
そう、そんなことより、おっぱいだ!
「自分の胸に手を当ててみては?」
ペタペタ。
ふむ、我ながらなかなかに逞しい胸板だ。鍛えてるからな! モテるために! って違う、これじゃない! 綺真め、だましたなっ!
憤懣やるかたない、という視線で見つめ返すと、綺真はこめかみに右手の指をあてて頭痛をこらえるように瞑目しながら、空いた左手を俺の背後へ促すように掲げて言った。
「私の愛しい愛しい
一も二もなく振り返る俺。
妹のおっぱいなど知り尽くしているのだから間違うはずもないのだっ!
はたして、そこに居たのは長く麗しい黒髪を持つ美少女だった。
少女のあどけなさと女性としての美しさを見事に併せ持った美貌。
雪のように白い肌。
夜空色の瞳。
身に着けているものは病院の手術衣みたいな、布一枚を合わせただけのような簡易で飾り気のない服一枚きりだが、逆にそのシンプルさが素材の味を活かしてるっ! エロ美しい!
そして何より、そう何より特筆すべきはその胸!
でかい。でもでかすぎじゃない!
必要最大限とでもいうべき大きさに、はりつやかたちも最高だ。夢と希望がこれでもかと詰まっている証左と言えよう。
──これだっ!
俺の探し求めていた桃源郷は十中八九この娘のおっぱいだ。
だがしかし! ここで焦ってはいけない。
なぜなら十中八九ということは、一割から二割の確率で勘違いの可能性もあるからだ。
そのわずかな不明を埋めるためには、さらにその感触と匂いを確認せねばなるまい。より正確な検証をするためには先ほどと同じようにその神なる谷間へ深く顔をうずめる必要がある。
兵は拙速を尊ぶという。見て、考えて埋まらぬならば即検証だ。
俺の優秀すぎる頭脳は、振り返って少女を目視してからこの結論に至るまでに一秒の半分すら時間を必要としなかったっ!!
「とうっ──ぐげごっ!?」
「ひっ」
ドゴッ!!!
三つの音と声はほぼ同時に、大胸……じゃなくて、概ね上記の順番で響いた。
バネ仕掛けのように跳び出した俺を、襟首を引っ張って引き戻しその勢いのままドたまカチ割らんばかりの肘鉄を炸裂させてくれたのが愛すべき我が妹たる綺真で、一部始終を目の当たりにして恐怖に声を引きつらせたのが俺の
気道を潰された息苦しさと、後頭部から目玉を貫かれたかのような強烈な打撃による痛みっ! 今回は不幸にも気を失わなかったせいでヤバイッ! 超痛い!!
脳の大事な部分に致命的なダメージを受けたのか知らんが身体が思うように動かず、猛烈な痛みにのたうち回ることすらできない。
もはや俺、虫の息である。いっそ殺せっ!
しかし加害者たる我が妹様は露程の気遣いを見せる素振りもなく、むしろあろうことか、屠殺した豚を扱う精肉所の職員だってもう少し優しかろうと思えるほどの無造作な手つきで俺をベッドへ仰向けに転がし、更には下腹部あたりに跨るようにしてマウントポジションを取りやがった。
兄を兄とも思わぬ所業、実にけしからん!
しかし慣れ親しんだ重みと温もりのおかげで少し元気が戻ってきたぜ!
「妹よ! なぜ邪魔をするのか。俺は今、
「んぅ……」
己のなすべきことを熱く語って聞かせようとした俺の口は無慈悲にも、強制的に塞がれてしまった!
口内を暴れまわる絶妙な舌使いに、俺は意識が朦朧となっていくのを止められない! 窒息しかけている、とも言う。
たっぷり三十秒くらいかかって、ようやく俺は新鮮な酸素を得る権利を取り戻した。
「ぷはぁ! はぁ……はぁ……」
「ふむ、どうです愚兄さま。少しは冷静になりましたか?」
馬乗りになったまま舌なめずりしつつ、冷たい目で見降ろしてくる我が妹。
「はい」
俺は従順になるよりほかなかった。
至上存在であるはずの兄すら手玉に取る愛しき妹は、まさに暴君と言って差し支えないのである。
情けないことに兄である俺は、圧政に屈するしかなかったのだ……っ!
「では改めて、現状について何かコメントをどうぞ」
言われて周囲を観察する。
石造りの壁に囲まれた、そこそこ広い部屋だ。こうして俺が寝かされているベッドがあることから寝室として使われている部屋であろうことはわかる。
病院や医務室を想像しなかったのはベッドが異様に大きく豪華なことと、これ一つしかないから。
明かり取りの広い窓は木の戸が開かれている。どうやらガラスははまっていないらしく涼やかな風が入り込んできていた。
腰の上には相変わらずの妹、綺真。
ベッドの傍らには唖然と、微量の恐怖を混ぜた表情の黒髪巨乳美少女。
なるほど、わかったぞ。
「……すまん、俺は今どこで何をやっているのか、さっぱりわからん」
俺は正直に答えた。俺は嘘や方便が大層苦手なのである。
「よろしい、正解です。御兄さま」
笑顔で言って、ようやく綺真は俺の上から退いてくれた。
そのままで会話も難なので、俺も上体を起こした。まだ頭部のダメージが残っているのか立ち上がるほどの力は出ない。
「さて御兄さま。何もわからないことが分かったようなので、現状を整理しましょうか」
綺真はその、常から怜悧で美しい顔を一層引き締め、俺ではなく傍らに立つ美少女に向けて言ったのだった。
「御兄さまはこの辺境にある竜の小国に、次代の竜王として召喚されたのです。そうですね?」
「──その通りです、綺真様。そしてご主人様、お会いできて光栄です」
答えた黒髪美少女に目を向けると、彼女はその場に跪き、熱のこもったような目と声で俺に言ってくれた。
「ご主人様への供物、ファリャ・カスティーヨ。この身この命はこれより貴方様のものです」
俺はこの時、強く自分の立場というものを意識したのだ。──そう。
こうして上から見ると、その極上の胸の谷間には一層の陰影が刻まれ、格別であると。
こうして巨乳美少女を、上位(物理)から眺められるという立場に、俺はいるのだとっ!
俺が厳かに黙っている理由がその神なる渓谷に熱い使命感に満ちた目を向けているからであるということに気づいた綺真によって速やかに粛清されるまでのわずかな時間は、とても充実したものであった。
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