邪心の将 ~転生天使リンカネル~

アワユキ

起、目覚めと目覚め

 いつもどおりの朝。身支度を整え、家を出る。朝の少しひんやりした空気が心地いい。

 俺の名前は村田甲斐。どこにでもいるごく普通の男子高校生だ。体格は中肉中背。運動も勉強もまあそこそこ。顔は平均より少し上くらい、だと思いたい。

 家を出てすぐに、俺は立ち止まる。あまり時間に余裕はないが、待ち人がまだ来ていないのだからしょうがない。


 スマホで時間を確認しながらぼんやりと待っていると、お隣の家の玄関が開いた。

「おはよう」

「今日も無事、朝を迎えることができたか……」

 顔に手をかざしながら朝日を仰ぐ、黒髪ツインテールのおかしな小娘。お隣の六道さんの娘、凛奈だ。俺とは同い年の、まあ幼馴染というやつだ。

「この平和な国で何言ってんだお前は」

 何を想定してるんだよ。

「何を言っている、と言いたいのはこちらの方だぞ子羊よ。近年ますます邪悪の樹クリフォトの闇が勢力を伸ばし続け、生命の樹セフィロトの葉もざわめいている。これはまさしく審判の日ディエスイレが近づいていることの証左であり……」

 ちらりとこちらを一瞥し、またおかしな妄言を垂れ流し始める。そう、この娘、高校生にもなって未だに絶賛中二病罹患中なのだ。

「子羊はやめろって。それより、早く行かないと遅刻するぞ。お前ただでさえ先生達からの評判悪いんだから」

 何故か知らないが、こいつは人のことを子羊と呼ぶ。まあそういうキャラづくりなんだろうけど。

「フッ……児戯とはいえ、やつらの目を欺くには学生という身分は都合がいい。気は進まないが行くとするか……」

 そんなちっこいナリでかっこつけてもサマにならないぞ。ていうか単に学校行きたくないだけじゃねえか。



「……お前、何やってんだよ。早く教室入れって」

 なんとか遅刻を免れ、今は教室の前の廊下。凛奈は壁にピタリと背をつけ、周囲の様子をうかがっている。

「馬鹿者め。いつやつらの手の者が宿敵であるこの私、転生天使の命を狙って襲ってくるともわからん。警戒はいくらしてもしすぎるということはないのだ」

 やつらが何か知らないけど、今のところはお前のほうがよっぽど危ないやつだよ。

 こいつの設定では、自分は天使の生まれ変わりであり、いつか現れる人類の敵とやらと戦うために天から人間界に遣わされたのだそうだ。

 凛奈は気が済むまで安全確認を行ってから、勢いよく教室に転がりこみ、そのまま素早く自分の席につく。こういう時のクラスメイト達の反応は大きく分けてふたつだ。またやってるよ、と笑って見ているやつと、またやってるよ……と呆れ気味に見ているやつだ。


「六道さんさあ、いつまでそんな子供みたいなことしてるわけ?」

 クラスの女子の一人、矢幡が凛奈に突っかかる。矢幡は凛奈の突飛な行動が気に入らないらしく、度々こうして絡むことがある。

「ふぅ……子羊にはわかるまいな。崇高な使命を帯びた者の労苦というものは……」

「チッ、だからそういうのがさあ……」

「まあまあ、その辺でいいだろ矢幡。こいつが変なのはいつものことだし」

 なおも詰め寄ろうとする矢幡と凛奈の間に割って入る。凛奈はいつもこんな調子で悪目立ちするため、他人との間にいざこざが起きることも珍しくない。問題が大きくならないようにこうやってとりなすのも、幼馴染の俺の役目だ。

「村田……ナイト気取りもいいけど、あんたがそうやって甘やかすのも悪いんじゃないの?」

「いや、俺は別にそういうつもりじゃ……」

「はあ……もういい。確かにあんたの言う通り、こんな幼稚なお遊びにいちいち腹立てるのも馬鹿らしいわね」

 捨て台詞を残して、矢幡が自分の席に戻っていく。まったく、感じの悪いやつだ。まあ、とはいえ……。

「凛奈、お前ももうちょっと大人しく、っつうか、人に合わせるとかしろよな」

「所詮、人と天使とは異なる存在。相容れぬものなのだろうな……」

 窓の外を眺めながら、凛奈が呟く。……何たそがれてんだよ。少しはこっちの話を聞け。


 流石に授業の間は凛奈も大人しい。頬杖を突きながら、退屈そうに教師の言葉を聞き流している。

「なんか、急に雲が出てきたな……」

 小声で呟く。窓の外を見ると、急に天気が悪くなってきているのに気づいた。分厚い黒雲が太陽を隠し、昼の空が薄闇に包まれていく。

「馬鹿な……! 早すぎる……! 未だ神々の果実アンブローシャは熟していないというのに……!」

 隣の席の凛奈はぶつぶつと何事か呟いている。大人しくしてたと思ったらまたこいつは……。

「どうした? 腹でも痛いのか?」

「くっ……まずい! こうしてはいられん!!」

 俺の言葉にも答えず、凛奈は突然席を立って教室を飛び出した。

「おい、どこ行くんだ!?」

 慌てて俺も後を追う。

「お前達! 授業中だぞ!!」

 教師の怒鳴り声を背中で聞きながら、廊下に走り出る。


「はあ……はあ……お前、いきなり何してんだよ……」

 凛奈を追って辿り着いたのは、学校の屋上だ。立ち入り禁止になってはいるが、老朽化した扉の鍵は力をこめれば簡単に開くようになっている。

「これは、やはり……!」

 当の本人は、何か真剣な表情で空を睨みつけている。雲はますます厚く垂れこめ、激しい風と共に雷鳴まで聞こえてきた。

「おい、聞いてんのか? 雷まで鳴ってきたし、さっさと中に戻ろうぜ……」

「強大な邪心波動イヴィルパルスが、遥か近しき極めて遠けき、亜空アカーシャの封印を貫き、境界面破断イデアブレイクが起こる……!」

「また何言って……うわっ!」

 突然、一際大きな雷鳴が轟いた。

 雷鳴は断続的に鳴り続け、空を覆う黒雲の中心で稲光が激しく瞬く。

「お、おい、なんかマジでやばそうだぞ……」

 それでも、凛奈は空を睨んだまま動こうとしない。

 放電はいよいよ激しさを増し、呼応するように巻き起こったいくつもの竜巻が、灰色に染まった町で荒れ狂う。


 そしてついに、それが姿を現した。

「黒い、太陽……?」

 そうとしか形容ができない。異常の中心、巨大な黒雲の渦の中から現れたもの。それは、暗黒の球体だ。凝縮された夜の闇とでも言えばいいのか、見ているだけで吸いこまれてしまいそうな、異様な存在感を放ちながらゆっくりと降りてくる。

「ついに、ついに現れたか、邪心皇帝……!」


 空から現れた球体は、ある程度降下したところで宙に静止した。

 すると、その表面がバラバラとほどけ、無数の蠢く影に変わる。

「まずい、邪影ファントム共が……!」


 影は次々と地上に降り立ち、周囲にあるものを手当たり次第に襲い始めた。街路樹、自動車、住宅、影に呑まれたそれらは、錆びつき、腐り落ち、ぼろぼろと崩れ去っていく。

「ひ、人が……!」

 学校の前の通りを歩いていた通行人が、影に呑まれる。

 ほんの一瞬、影が去った後には、一抱えほどの灰の山だけが残されていた。


「な、なんなんだよ、これ……」

 ありえない、こんなことは。常識の外にある出来事に、理解が追いつかない。

「そ、そうだ。凛奈!」

 凛奈の存在が、パニックに陥ろうとする俺の頭をギリギリで現実に繋ぎ止めた。

「逃げるぞ! とりあえず、校舎の中に避難しよう!」

 あんなもの相手に意味があるのかはわからないが、こんな場所にいるよりは屋内のほうがまだマシだろう。

「お前一人で逃げるがよい、子羊。私には、やらねばならんことがある」

「馬鹿! こんな時まで……」

 叱ろうとした言葉が途中で止まる。なにか、違う。いつもの凛奈と……。


「力が……解放されていく。私の魂が、私の中の天使の力が、『敵』を感じ取ったせいか」

 光。まばゆい光の粒が、凛奈の足元から立ち上り、彼女の周囲を舞い始める。

「天の輪、地の脈、海のはて、すべての理が、見える……」

 光はどんどん強くなる。もう目も開けていられないほどだ。

「世を形作る無尽無辺の理力アエテュルよ。我が命に従い、結実せよ! 天身!!」

 光が、爆発した。


「りん、な……?」

 光が晴れる。そこに、立っていたのは……。

「凛奈ではない。私は、転生天使、リンカネル」

 清廉さを象徴するような、まばゆいほどの純白の衣装、綺麗な黒色だった髪は、輝くような金髪へと変わっている。何より目を引くのは、その背中から生えた一対の翼と、頭上に浮かぶ金色の光の輪だ。

「天、使……」


 その存在に気づいたのか、空で渦巻いていた影達が彼女めがけて殺到する。

「来るか、邪影共!」

 迎え撃つように、凛奈……いや、リンカネルが、空へと舞い上がった。

天輪剣ソードオブヘイロウ!!」

 彼女の手に、光の剣が現れる。

「はああぁぁ!!」

 一閃。剣が宙に白い弧を描くと、彼女に襲いかかろうとしていた影達がまとめて消し飛んだ。

「す、すげえ……」

 しかし、影は次から次へと現れる。

「来い! まとめて底界タルタロスへと送り返してやる!」

 リンカネルは影を引き連れるように、屋上から飛び去った。

「凛奈……!」

 俺は慌てて屋内へと戻り、階段を駆け下りる。何ができるわけでもない。それでも、そうせざるを得なかった。理屈じゃない。天使だろうとなんだろうと、あいつは俺の幼馴染だ。ほうってはおけない!


 全力で走り続け、ようやく正面玄関にまで辿り着いた。当のリンカネルは、校庭の真ん中で無数の影と大立ち回りを演じていた。

灼光フォトンバースト!!」

 リンカネルの手の平から放たれた一条の光が、影の群れに風穴を開けた。怯んだ影達は、彼女を遠巻きに囲いながら隙をうかがっている。

「りん……!」

 叫ぼうとして、思いとどまる。今、あいつに声をかけて、俺はどうしたいんだ? 一緒に逃げよう? 馬鹿な。あいつには戦う力がある。非力な俺なんかと一緒に逃げる意味なんてない。

 その間も、彼女は次々に影を消し去っていく。


「きゃあああぁ!」

 突如、女の叫び声が響き渡る。リンカネルのものではない。声のほうを見ると、校庭の隅で一人の女生徒が影に襲われている。よく見ればそれは、クラスメイトの矢幡だ。学校から逃げ出そうとでもしたのだろうか。

「くっ!」

 今まさに矢幡を呑みこもうとする影目がけて、リンカネルが飛び出した。

 凄まじい速度で飛んだリンカネルは自らの体を光の矢と変えて、矢幡を襲おうとしていた影を貫いた。大穴を開けられた黒い影は、霧のように消え去っていく。

「あ、うぁ……」

「立て、子羊! 立って校舎の中へと逃げろ! 簡易的だが、あそこは私が張った結界で守られている。邪影程度ならしばらくは……」

「ひぃぃぃ!!」

「馬鹿者! そっちは……!」

 錯乱した矢幡が走り出したのは校舎とは反対、校門の方向だ。そして、そっちには……。

「あ……」

 あっという間に、影が矢幡を取り囲む。

「や、助け……!」

 今度は、リンカネルが飛び出す暇もなかった。一瞬で、その姿が見えなくなる。


「これは……!」

 さっきの通行人の時とは何かが違う。あの時はあっという間に影が去り、後には灰だけが残されていた。しかし、今は影が獲物を咀嚼するように不気味に蠕動している。

 不定形の蠢く影に、徐々に輪郭が与えられていく。

 影が収束し、現れた姿は……暗黒の人型だ。

邪心兵ファントノイド……! 邪心に囚われたか!」

「グルルルァァ!!」

 黒い人型――リンカネルが邪心兵と呼んだ怪物が、獣のような声を上げる。その顔にあるのは、血の色をした大きな一つ目と、布を無理やり引き裂いたような歪な形の口だけ。影でできた体は完全には安定していないようで、時折霧のように揺らいでいる。


「哀れな……。せめて、苦しませずに葬ってやろう!」

「アアァァァ!」

 剣を構えるリンカネルに、邪心兵が突撃する。黒色の腕が突如限界を超えて伸び、槍のように突き出された。

「ふっ!」

 しかし、リンカネルはなんなく回避。光の刃が伸びきった腕を半ばから切断する。

「グッ、ゲェ!」

 邪心兵が苦悶の声を上げる。切り落とされた腕は、地に落ちるやいなやあっという間に霧散した。

 しかし、失ったはずの腕はみるみるうちに元通り再生していく。

「やはり、この程度では駄目か。――なら!」

 今度は、リンカネルが邪心兵に向かって踏みこんだ。

「グアアァ!」

 相手は再び腕を伸ばして迎撃する。

「それは通じんというに!」

 リンカネルは速度を緩めずにスレスレでかわし、すれ違いざまにこれを切り落とした。

「うおぉっ!」

 そのまま肉迫。両脚をまとめて薙ぎ払う。

「灼光!!」

 脚を失い態勢を崩した邪心兵に、強烈な光の一撃。頭部を消し飛ばす。

「まだ!」

 手足と頭を失ったにもかかわらず、邪心兵はまだ息があるらしい。失った部位が、見る間に再生されていく。再生しつつある邪心兵を残し、リンカネルは宙に舞い上がった。

「廻れ、天輪剣!」

 彼女の手を離れた光の剣が、その頭上で大きな円を描くように回り始める。

 凄まじい勢いで加速し続ける剣の軌跡が、空に光の輪を作り出す。

「墜ちろ!! 破邪雷霆剣カラドボルグ!!!」

 轟音、閃光。空の輪から放たれた光の柱が、地上目がけて叩きつけられる。


 断末魔の叫びを上げる暇すら与えられず、邪心兵は跡形もなく消え去った。

「ふう……」

 地上に降りたリンカネルがひとつ、息を吐いた。

「フフフ……邪心兵ごときに手こずるとは、どうやらまだ本調子ではないようですね、リンカネル……」

 どこから現れたのか、いつの間にか人影がリンカネルのすぐ近くに立っていた。

「貴様……! 邪心皇帝イヴィロード!!」

 人影、いや、その姿は影そのものだ。闇を塗りこめたような漆黒のマントを纏った影。目深に被ったフードから覗くのは、わだかまる闇。そこには目も口もありはしない。はためくマントの下にある体も、ゆらゆらと陽炎のようにゆらめくだけで、実体を感じさせない。

「な、なんだあいつは……」

 何の力もない俺にすらわかる。遠くからその姿を見ているだけで、全身に悪寒が走る、異様な存在感。あいつに比べれば、影達やさっきの邪心兵なんかはただの有象無象だと感じられる。

「一万年の眠りで、さしもの天使様も寝ぼけてしまったかな……?」 

「のこのこと私の前に出てくるとは……! 再び亜空の果て、冷たく暗き大寒獄マハパドマへと叩き返してくれよう!!」

 言い放つと、リンカネルは勢いよく斬りかかった。邪心皇帝は避けることすらせず、袈裟懸けに両断される。

「そう熱くなるな、リンカネル……。今日はただ、挨拶をしに来ただけなのだよ」

 にもかかわらず、邪心皇帝は涼しげに言葉を続ける。真っ二つにされたはずのその体には傷ひとつついていない。

「かくいう私も、お前達が丹念に施してくれた封印を破壊するのにいささか疲弊していてね。しばらくは人間達の邪心を食らって英気を養わさせてもらうとするよ」

「ふざけたことを!」

 リンカネルは怒りに任せて更に斬りかかるが、邪心皇帝はひらりひらりと流れるような動きでかわし続ける。

「折角の一万年ぶりの再会だ。決着をつけるのは、互いに万全を期してからにしようではないか。それでは、また、会おう……」

 そう言い残すと、霧のように消えてしまった。

「逃がすか!!」

「あ、り、凛奈!」

 飛び去ろうとするリンカネルの背中に、思い切って声をかける。

「ん? なんだ、まだいたのか子羊。ここは既に伏魔殿パンデモニアム。邪心皇帝の狩場と化している。校舎の中に隠れているがよい。先ほどの、哀れな娘のようになりたくなければな」

 口早にそう告げると、リンカネルは空高く飛び去った。向かう先には、無尽蔵とも思えるほどの影の群れが彼女を待ち受けている。

 俺はただ、彼女が戦う空をいつまでも、馬鹿みたいに見上げ続けていた。


 そして、この日が、俺が六道凛奈という少女と会った最後の日だった。

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