青春の記憶

 それから少したってお盆を迎えた。俊夫は横浜出身だが、千恵の実家は広島にある。帰省する時は沙樹を連れて行くこともあったが、今年は受験生だからと東京に残して一人で帰省した。

 今回はもう一つ、十二年ぶりに行われる高校の同窓会に行くという目的もある。高校生の時は高校生活は人生の通過点にすぎないと思っていたが、自分が高校の教師になると、かけがえのない時期のような感覚もわかるような気がした。

 そして、それは青春のほろ苦い記憶も宿していた。広島へ向かう新幹線の中で千恵は高校生の時のことを回想していた。


「東大に行きなさい。せっかく成績が優秀なのに、それを生かさないなんてもったいないよ」

 千恵の母親は諭した。

「それはわかっているけど……」

 千恵は口ごもった。当時、千恵は大学を卒業した後は大学院に進み、ゆくゆくは研究者になりたいと公言していた。そのためには東大に進学することがはるかに有利な選択肢なのは間違いなかった。そして、千恵の成績なら合格は有望と思われていたのだ。

 それでも千恵をためらわせていた要因は一つ。当時、付き合っていた西村隆の存在だ。隆は家庭の事情もあって高卒で就職することに決まっていたのだ。

「隆君のことね」

 母親は千恵の心境をずばりと言い当てた。

「広島に残っても隆君と結婚して一生養ってもらえるわけじゃないのよ。高校生の恋愛なんていつか終わるわ。今は自分の進路を冷静に考えなさい」

 理屈ではわかっていても、それで自分の精神を埋め尽くせず、答えを求めて心は虚空をさまよった。結局、千恵に最後の決断をさせるのは隆以外になかった。隆はどう思っているんだろう。やはり、広島に残っていつまでも一緒にいて欲しいのだろうか。


 ある日の放課後、千恵と隆は学校の近くの公園のベンチに並んで腰かけ、風に吹かれていた。あたりを見渡すと小さな子供たちがブランコやすべり台で遊んでいる。いつか人生の岐路に立たされることに気付かないように。

「ねえ、隆……。私どうすればいいのかな」

「自分の気持ちに正直に従えばいいよ。自分の人生なんだからな」

「あなたはどうして欲しいの?」

「俺がこうして欲しいと言ったら、そうしてくれるのか?」

「それは……」

 千恵は絶句した。東京に行くか、広島に残るか。千恵の心は振り子のように揺れていた。千恵の中には引き止めて欲しいという微かな期待があった。もし隆が引き止めてくれたら、そっちの方に傾いたかもしれない。でも、実際のところはどうなんだろうか。

「俺も東京に行って欲しいよ。いつまでもそばにいて欲しいという気持ちもあるけど、そうすれば俺がそれ以上の幸せを保証できるわけじゃないしな。お前の将来をここに縛り付けようとは思わないね。それよりは東京で夢を叶えて欲しいよ」

 両親も教師も隆でさえも東京行きを望んでいる。ためらっているのは千恵だけだった。引き止めようとする人はいない。周りの人が応援してくれる中で、自分のわがままでがっかりさせてはいけないような気がした。自ずと東京行きに心がおもむいた。固く決意したというよりは、そちらの方に流れていった。


 合格通知が届く日は母親と二人でリビングでそわそわしながら待っていた。もちろん合格することを願っていたが、落ちたら東京行きが一年遅れる。そうすることで結論を出すのを遅らせたいという気持ちもどこかであった。

 やがて郵便受けに何かが差し込まれる物音がした。

「千恵。届いたみたいよ」

 母親が興奮気味に声を上げたが、千恵はその瞬間どきりとした。期待と不安が入り混じった気分で母親が差し出した封筒を開いた。そこには合格者の受験番号が列挙してある。それを目で追った。

「どうなの?」

 母親は急かす。

「あるよ」

「これで東大生よ~!」

 母親は大喜びした。それとは逆に千恵には強い感情はなかった。これまでの終わりでもこれからの始まりでもあったが、その時はどちらも感じなかった。透明な存在になって全てが自分を通り過ぎていくようだった。

 その日の夕方、千恵は自転車に乗って隆の家に行った。電話すればすむことだが、直接会って伝えたい気がしたのだ。いつもは自転車を降りると心地よい疲労感が残るが、その日は心が虚ろで何も感じなかった。

 玄関でインターホンを押したが、反応はなかった。どうやら誰もいないようだ。こんな時はただ待つしかない。千恵は夕暮れの風に吹かれながら気持ちを落ち着かせていた。夕焼けの空の色が心に染み込んでいった。

 しばらく待っていると、沈みかけた夕陽が道路に長い影を伸ばした。隆が一人で帰って来たのだ。千恵は声を出そうとしたが、無言になって軽くうつむいた。すると隆の方から先に尋ねた。

「今日は合格通知が届く日だったな。どうだった?」

「受かったよ」

「そうか。よかったな。これで花の都に進出だ」

「本当に喜んでくれるの?」

「もちろんだよ。合格したんだからな」

 その朗らかな声は千恵の心とはうらはらに喜んでいる様子だった。

「寂しいとは思わないの?」

「いつかこうなる気がしていたよ。それぞれの人生はこれからなんだしな」

「そう……」

 そう言うと再びうつむいた。その時はそれ以上会話が続かなかった。


 そして、高校の卒業式の日。多くの生徒が去って夕暮れになった頃、千恵と隆は暮れなずむ夕陽を浴びながら中庭の桜の木の下に立っていた。今は満開の桜の花もやがては散る。そのことに千恵は人生のはかなさを感じていた。

「この桜ももうすぐ散るのね」

「そうだけど、来年の春を迎えると同じ花を咲かせるよ」

「でも、全く同じものが蘇るんじゃないわ。いつまでも同じことは続かないのね」

 千恵の言葉はその場に余韻を残した。

「それでも何かが存在していたことはなくならないよ」

 隆はその余韻に意味ありげな言葉を添えた。

「どういうこと?」

「百人一首に「滝の音は絶えて久しくなりぬれど名こそ流れてなほ聞こえけれ」という和歌があるだろ。何かがなくなっても、その名声はいつまでも残り続けるんだ。それは観光名所だけじゃない。昭和という時代も終わったけど、いろんな出来事が語り継がれるんだ。だから俺たちが出会ったこともなくならないよ」

「そう……。あなたの中では一区切り付いたのね」

「これまでの時代が終わらなければ、新しい時代は訪れないんだ。今はお互いの人生の新しい門出の時期なんだよ」

「私たちの恋が終わるのに、あなたは素直に祝福できるの?」

「この恋は消え去るんじゃない。これからもお互いの人生の中で輝き続けるんだ。それぞれの人生を歩むことになっても心の中ではお前を一生愛し続けるよ。同じ時代に生まれてめぐり会えたこと。それが俺の誇りさ。だから最後は笑って別れよう」

 隆がそう言うと千恵もこくりとうなずいた。

「じゃあ、これでお別れね」

 そう告げると、千恵は隆に背を向けて歩き出した。もう戻れないことはわかっていた。けれど、これは新しい世界の入り口なんだ。そう自分に言い聞かせて高鳴る想いを鎮めようとした。

「さよなら、隆。さよなら、私の青春」

 心の中でそう念じながら。


 こうして千恵は東大に進学したのだが、それからの道程は順風満帆ではなかった。東大を卒業しても研究者のポストをねらうライバルは星の数ほどいる。非常勤講師をいくつか掛け持ちしてステップアップをねらったが、なかなか専任講師にはなれなかったのだ。

 そのうち知人から頼まれて高校の非常勤講師もやった。その高校で俊夫と出会った。新米の千恵を指導するような立場で、いつの間にか親しい間柄になっていた。

 プロポーズされた時はどうしようか迷った。結婚したら、もう好きなように生きることはできない。ましてや子供が生まれたら、母親として家庭の一員になる。非常勤講師を転々としている身分でブランクを作ったら、もう研究者にはなれなくなるだろう。

 それでも、そちらの方に気持ちが傾いた。走り続けることに疲れ、どこかに落ち着きたい気がしたのだ。これまで興味がなかった幸せの形になぜか憧れる自分がいた。

 そして、研究者になる夢をあきらめ、高校の教師になる道を選んだ。

 恋を取るか、夢を取るか。あの時、岐路に立たされた千恵は夢を取る方を選んだが、それも叶わなかった。でも、他の人生もある。恋も夢も失ったけど、これからは平穏な人生を歩もう。そう決めて青春の日々に別れを告げた。

 今の生活をあの頃の自分が知ったら、どう思うだろうか。過去に戻って対面したら、正直に話せるだろうか。

 そんなセンチメンタルな感傷が心の中を逡巡している間に新幹線は広島駅に着いた。

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