第12話 11

 ベッドの上にいた。私の家のベッドだ。

 ベッドの上、二人きり、下着姿で座っていた。

 ドキドキしなかったというと、嘘になる。だけど彼の顔を見ると否応にもこれから死ぬんだという気分に戻される。

 注射器を取り出して、液体で満たしていく。彼がそれを見て少しおびえた表情をした。

「少し、寒いね」

 私はそんなことしか言えなかった。

 注射器は透明な液体でいっぱいになった。少し青っぽい光を放って、液体は輝く。

 続いてもう一つの注射器に薬を入れていく。

「これはね、バクロフェン。筋弛緩剤の中でも遅効性なの」

「ゆっくり死ねるってこと?」

「そうだね。ゆっくりゆっくり、痛みもなく、ね」

 彼の表情が穏やかになる。

「最後には塩化カリウムで心臓を止めて、おしまい」

 注射器に薬を入れ終えると、私の分の注射器を彼に渡す。

「乾杯」

 私たちは注射器を、割れないように慎重にキスさせる。ちりん、と。季節外れの風鈴みたいな音を鳴らして。

「ここ、ここだよ」

 私は腕の静脈を指差す。先に彼が私の静脈に、薬を注射する。

 彼は慎重に押子(プランジャ)を押していく。彼の顔には一緒に死んでくれる人がいる安心感とこれから死ぬんだという虚無感が見える。

「ありがとう。上手だったよ」

 代わって彼の腕を掴んで、針を彼の肌に刺していく。

「痛くない?」

 彼は無言で頷いた。

「ありがとう。僕と死んでくれて。……ありがとう。僕を殺してくれて」

 終わると彼はそう言って、そのあとは沈黙がベッドの上を支配した。

「体に力が入らなくなってきたよ」

 彼の言葉には力がなくなっていた。そのまま彼はベッドに倒れる。

「……ごめんね。私は本当にあなたが好き」

 私はそのまま倒れて彼にキスをした。

 嘘をついた。彼に投与したものはバクロフェンじゃなかった。

 クロルプロマジン。最も古い向精神薬の一つで、意志を減衰させる。しかし、私にとっては副作用こそ大事だった。

 アドレナリン反転。脳内麻薬とも呼ばれるアドレナリンにはα作用とβ作用がある。血圧を高め、興奮作用が強いαに対して、βはバランスを取るために血圧を下げる作用が働く。

 アドレナリンはクロルプロマジン投与時の絶対禁忌である。クロルプロマジンにはα作用を遮断する効果があるからだ。

 私達は再び唇を重ねる。私の舌は彼の舌を執拗に追いかけ回し、それはもう、どうにも止められなかった。

「私はね、君が死にたいって言った時、死ぬならこの人と一緒に死にたいって思ったの」

「純夏……」

 彼の顔を見る。すっかり青ざめている。それを確認した私は体を彼の体に絡ませる。

 性的興奮によって彼の脳内からはアドレナリンが分泌される。しかしクロルプロマジンによって本来の作用が失われ、β作用、血圧を下げる作用ばかりが働く。

 彼がエクスタシーを抱けば抱くほど、彼の肉体は低血圧で死に近づくのだ。

 私の重ねる唇が、這わせる舌が、胸が、くびれが、恥丘が、脚が、彼を死に追いやるのだ。

「スミカ……」

「ごめんね。ごめんね」

 罪悪感のブラックコーヒーが嗜虐心のミルクによって薄められていく。文字通りそれはスイートで。 

 彼の鼓動はもう聞こえないほどに弱い。目からは光は消え、肌はみるみる青白くなっていく。

 それでも、私は彼を殺す(あいする)のをやめない。

「藤村くん。ごめんね」

「スミカ…… ありがとう」

 彼は最後にそう言って完全に動かなくなった。彼は最後まで私を信じてくれたのだ。

「貴方と死にたいと思ったのは本当だよ。でも、それ以上に貴方を自分のものにしたい、とも思っちゃったんだ」

 反応なし。聞こえてない。本当の気持ち。独白。

 結局、独占欲が私を動かした。

 彼は私の本当の気持ちを知らずに屍になるのだ。

 それでいいかな、と思う。そうじゃないと罪悪感が生まれるから。

 動かなくなった彼から離れ、ナイフと瓶詰めのクリームを取り出す。

 理由のない感情は若干暴走気味だ。

 彼の肌に少しづつ傷をつけて、そこにクリームを染み込ませていく。

 私は彼を裏切って、薬と肢体で自分のものにした。


          ◇

 

 私が彼を裏切ったように、彼も私を裏切っていたのだ。

 夜の闇の中、銀色のブレスレッドはわずかな光を反射して輝く。それを眺めながら、感傷に浸っていた。

 彼は茜に援助交際を強要していて、それでもって自分だけ死にたいなんて、都合のいいことを言っていたのだ。

 彼にとって、私はただの気休めを与える存在にすぎなかったという事実が、強く胸を締め付ける。

 それに対して怒りはある。だけど今や動かない彼を見ていると哀れに、愛おしく思えるのだ。

 そして、私は少なからず茜に嫉妬していた。だけど此の期に及んでも彼女は幼馴染なのだ。彼女の顔を思い浮かべると彼に対する、失望、軽蔑、そして憎悪が湧き上がる。

 茜を哀れと思うなら、藤村くんが憎く思える。藤村くんを哀れと思うなら、茜に嫉妬してしまう。

 そんな両立しない感傷を抱えて、私は一睡もすることなく朝を迎え、彼を見ることもなく、学校に向かった。

 私は、唯一無二の幼馴染に、最後に確認しなくてはいけなかった。

 たとえ、それが友情を引き裂くものであっても。

 たとえ、彼との『二人きり』を失うとしても。

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