馬鹿とカノン進行

アスカ

馬鹿とカノン進行

「しゃくらにゃぁ~ん、ただいまちゅっちゅしゅるぅぅ!」

 その脱力しきった声を聞いた瞬間、全身の毛が逆立つほどぞっとした。

 おそるおそるリビングから玄関をのぞいてみると、顔を綻ばせた女が立っていた。まるで幽霊みたいだ。

 うっかり、その女と目が合ってしまった。

 その、甘ったるいミルクみたいにとろけた瞳でじっと見つめられると、やんのかごらぁ、と凄む気もなくしてしまう。明らかに喧嘩を売っている目ではないからだ。

 馬鹿だ。馬鹿が帰ってきた!

 何が『しゃくらにゃん』だ。俺は『さくら』だ。自分で命名した猫の名前くらいちゃんと呼べ。

 そんなことを思っていたら、持っていたバッグを放り投げて、安アパートの廊下をあっという間に走ってきた馬鹿に抱きかかえられていた。

 そしてこの馬鹿女は『ただいまちゅっちゅ』をした。

 いわゆる、ただいまのキス、というやつだ。

 馬鹿みたいに口をすぼめた女にがっしり脇を捕まえられたまま、強制的に鼻を吸われる。

 キスというのは、人間にとっての求愛行動――のうちのひとつらしい。

 うええ、吐きそうだ。この馬鹿に求愛されてるのか、俺は。考えただけでも毛玉が出る。

 とかなんとか思っていたら、やっと床に下ろしてくれた。馬鹿からの解放。跳んではねて喜びたい。

「あぁん……しゃくらにゃんの体毛ぉ~」

 馬鹿女がアホみたいな甘い声でそう言った。交尾中の雌か、お前は。

 服についた俺の毛を一本一本取りながら、なぜかじっくり眺めたり匂いを嗅いだりしている。

 このまま放っておいたらその内俺の毛を食べ始めそうだったので、飯をくれ、と鳴いてやる。

「んあぁ、ごはん? うんうん、まっててぇ~」

 とろけた声でそう言って、とぼとぼと台所へと歩いて行く。放り投げたバッグのことなんて忘れてしまったらしい。まあ、俺の知ったことではないが。

 脳みそが溶けてしまったような声で鼻歌を歌いながら、皿にキャットフードを盛るこの女だが、外ではそれなりに『いい子』で通っているらしい。

 信じられないことだが。

 たぶん、彼女が毎日通っているという『仕事場』というのは、馬鹿の吹き溜まりみたいなものなのだろう。じゃなければどうしてこの馬鹿がいい子と呼ばれるのだ。

「さくらにゃん、ごはんだよぉ~」

 馬鹿が皿を持って戻ってきた。

 少し足取りがしっかりしてきたような気がする。俺の名前もちゃんと呼んでくれた。にゃんは余計だが、まあいいとしよう。

 ちょっとは頭もしっかりしてきたみたいだし、今日もなんとかこの馬鹿は生き物として生きていけそうだ。

 少なくとも粗大ゴミにはならなさそうだから、たぶん安心だろう。

 ならば、それを早くよこせ。

 足にすりついてみたり、鳴き声を上げてみたり、飛びついてみたりする。アホらしい行動だが、この馬鹿はそうでもしないとわかってくれないのだから仕方がない。

 アホらしい、ということ以外にも、あまりそういうことをしたくない理由がある。

 この馬鹿女、足に体をこすりつける度にだらしない声を上げやがるのだ。

 んん~とか、ああ~とか、要はうめき声だ。それもとびきり情けないやつだ。

 全く、こいつと同じ地球上に生きる生き物だということが恥ずかしくなってくる。

「ほら~ごはんだよぉ~」

 ようやく、皿を床に置いてくれた。台所から俺の小屋までの距離が、果てしなく長く思える。

 どうして小屋を台所のすぐ横にしなかったのか。

 わざわざ少し離れたベッドの隣にする必要なんてこれっぽっちもなかったろうに。

 おかげで今日もこの馬鹿の寝言をすぐそばで聞く羽目になる。

「おいちぃ~?」

 馬鹿がベッドに座り込みながら、そう言った。

 もちろん、答えることはしない。そんな義理もないし、理由もないし、こんな脳みそが無くなったようなやつと受け答えでもしようものなら馬鹿が移る。

 何より俺の言葉はこいつには通じない。通じたことがない。馬鹿だから。

 でもおいしいかどうかと聞かれれば、おいしい。

 というか、キャットフードがまずかったことはない。なかなか評価に値する味だと思う。

「はぁ……疲れた」

 不意に、しばらく静かだった馬鹿がそうつぶやいた。

 ものすごくしっかりした口調だった。さきほどまでの馬鹿さ加減が嘘みたいだ。

 驚いて少し振り返ると、彼女は天井を見つめていた。

 いや、見つめていたのは天井ではないのかもしれない。天井にある何かかもしれないし、俺には見えない何かかもしれない。

 あるいは――これが一番ありえるとおもうのだが、何も見ていないのかもしれない。

 やれやれ、と思う。

 わかっている。こいつがこんなに馬鹿なのは、仕事のせいだ。

 こいつが仕事を楽しんでいないのはよく知っている。結構な量のストレスをためているはずだ。

 じゃあどうして楽しくもない仕事をしに毎日出かけているかというと、やっぱりこいつが生来の馬鹿だからだ。馬鹿でアホだからだ。救いようがない。

 そして俺が迷惑を被る。

 やれやれとあくびをして、自分の飯を平らげた。

 馬鹿はだらだらと食事をして、風呂に入って、そして寝た。馬鹿らしく、大口を開けていびきまでかいている。

 そもそもこのどうしようもない馬鹿が、飲食店になんかで誰かのためになるようなことをやろうというほうが無理なのだ。

 そんなクソッタレなことは、できる人に任せておけばいい。

 ちらりと、顔を上げて馬鹿の机を見る。そこには、ノートと辞書が埃を被っていた。

 それらを見る度に、胸糞が悪くなる。小説家になると言って専門学校まで通ったのに、お店で奉仕する必要なんてなかったのだ。間違っている。絶対に。

 もうずっと、彼女が小説を書いている姿を見ていない。

 こいつに時間がないわけではないのはわかっている。その証拠に、両側に鎮座する結構大きな棚には、定期的に本が数冊追加され、それを何日かに一回読んでいる。

 最近は『吾輩は猫である』とかいう猫が主人公の小説が好きらしく、時々変な声を上げている。全力で噛みついてやりたい。

 つまり、単純に書いていないだけなのだ。馬鹿で、アホで、ゴミ。だからゴミ箱で生活しているような生き方しかできないのだろう。

 たぶん、台所のいたるところに潜んでいるゴキブリ共の方がもっとましなことを考えながら生きている。

 そのとき、こおお、と馬鹿が大きないびきをかいた。

 ゴミめ。

 振り返って、そう独りごちた。


 猫の朝は早い。

 ――というより、人間の朝が遅い。どこの馬鹿が七時まで寝続ける。誰かに襲われたらどうするつもりなのだ。

 人間だから襲われないなんてことはない。それくらい、俺だって知っている。

 常に発情期の雄みたいな奴がいて、そいつが襲いかかってきたり、縄張り争いで殺し合うことだってある。

 雌だからといって牙を研がなくていいわけではない。そういう意味合いでは、俺たち猫よりも過酷だといえる。

 なのに、この馬鹿はしっかり太陽が上ってからのろのろと起き始めるのだ。

「んあ~、しゃくらにゃん……お仕事嫌だよぉ~……行きたくないぃ~」

 知るか。どうでもいいから飯をくれ、この能なし。こっちも腹が減って嫌になっているのだ。

 などと睨むだけではこいつには通じない。だから仕方なく声を上げて訴える。

 それでもなおしばらくふにゃふにゃ言っていた馬鹿だったが、足に体をすりつけてやるとようやく「わかったよぉ、ごはん作るぅ」と言いながら台所へ向かった。

 寝ぼけているのか、あっちへふらふらこっちへふらふらしている。一回、壁に体をぶつけていた。

 その衝撃も、この単細胞を人間にすることはできなかったらしい。やっぱりふらふらしていた。

 やれやれ、こんなところをワシにでも襲われたら一撃だ。子猫より危機感がない。

 人はワシには襲われない、というのは妄言だ。ワシだって人を襲う。

 正確には、人の持っている食べ物を、だが。

 もっとも、今のこいつなら直接襲われて空へ連れて行かれてもおかしくない。

 ひょっとしたら、息の根が止まるまで襲われたことにすら気づかないかもしれない。

 座布団の綿みたいに柔らかな笑みを浮かべる馬鹿を見ているとそんな気がしてくる。

 調子外れの鼻歌を聞きながら、ふらふらと皿を持って歩いてくる馬鹿を見上げる。

 どうでもいいや、このナメクジみたいな奴のことは。

 とりあえず、飯だ。腹が減ってゆっくり二度寝もできない。

「ほぉら、ごはんだよぉ~」

 馬鹿がそう言って皿を置いた。

 すぐに台所へ戻り、食パンを漁る。生のまま食らいつき、身支度を始めた。

 食べながら、ふとこいつがふんふん歌っている曲がなんだったのか思い出した。

 カノン。

 この曲のことなら少し知っている。俺くらい賢い猫になると、音楽だって多少は嗜む。

 ずっと昔にドイツの作曲家が作った。ヨハン・パッヘルベル。外国人らしい、ものすごく言いにくい、そして覚えづらい名前だ。

 だがこの誰かさんが作った曲は、世界的に役に立っていると言える。

 カノン進行。作曲を嗜む人なら何度かお世話になっているはずだ。最初のCから最後のGまで空で言える人だってたくさんいるだろう。

 元々大空を飛ぶ小鳥のように危うい印象を持っていた曲だが、馬鹿がゆっくりと、微妙に調子を外しながら歌うと余計浮き足立って聞こえる。

 軽く吹いたら飛んでいく、綿毛みたいだ。

 やれやれ、と思った。今のこいつの状況をよく表している。未来がない。

 有名な八小節を五周くらい歌ったところで、準備が整ったらしかった。

 服装もちゃんとしている。髪の毛も、少し寝癖が見受けられるがとりあえず整っている。

 だが目には生気がない。焦点も微かに合っていないような気がする。でもいつもそうだった気もする。

 今日はゴミの日らしく、いつものバッグのほかにゴミ袋を持っている。

 ゴミがゴミを捨てに行く。おもしろい。捨てられるゴミの方がよっぽど役に立っているだろうあたりが特に。

「しゃくらにゃん~、ぎゅぅぅぅぅぅぅ!」

 などと言っているが、今日の馬鹿は両手がふさがっているから俺に抱きつくことはできない。幸運だった。ゴミに感謝。

 代わりにものすごく見つめられた。喧嘩の合図、な訳がないのだが、イラッとする。

「うーん、行ってくるねぇ~」

 やがて馬鹿はそう言って、今日も何の役にも立たないことをしに出かけていった。

 馬鹿だ。そうつぶやいた。

 おかしいと気づいたのは、微かに風を感じたからだ。

 扉の方から風が吹いている。

 その理由がわかるまでに、少し時間がかかった。

 扉が、ちゃんと閉まっていなかった。

 嘘だろう、と思った。

 俺のヒゲを、耳を、目を疑った。

 けれど暖かな風は確かに吹いていたし、扉はわずかな隙間を残していた。

 馬鹿が気づいて帰ってくるかもしれない、と思った。

 だが、いつまでたっても帰ってくる気配はなかった。

 今日の馬鹿はいつも以上に頭がおかしい。

 いったい何をどうしたら、鍵も閉めず、扉もちゃんと閉めずに仕事になんか行ってしまうのだ。

 いつ帰ってくるのだろう、と思った。

 そして気づく。

 俺は、今、猛烈に興奮している。

 それは本能にも似た欲望だった。

 今なら、外に出られる、と。

 俺は人間ではない。だから、欲望には逆らわない。

 少し扉を押すと、それは簡単に開いた。呆気なさに驚いたくらいだった。どうして今までこれを開けることができなかったのだろう?

 外は暖かかった。

 今すぐこの場で眠ることができそうなくらい、心地よかった。

 古アパートの扉を振り返りながら、つぶやく。

「あー、今日中には戻るから」

 当然、返事はない。中に誰もいないのだから当たり前だ。馬鹿げている。馬鹿が移ったのかもしれない。

 思わず毛がざわついた。そんな馬鹿なことがあり得てなるものか。

 あり得ない。

 そう思い直して、冒険に出た。


 外の世界は思ったよりも音であふれていた。塗れている、と言ってもいい。

 アパートの周辺は大都会と言うほどでもないが、田んぼと畑しかないような田舎というわけでもない。

 だから人は通るし、車も通る。

 小学生が信号に従わない遊びをしている。怖じ気づく子の声、それを笑う声。

 一台の車が堂々と赤信号を渡る子供を轢きそうになって、クラクションを鳴らした。わあ、と叫んで子供たちが逃げていく。

 犬の散歩をしている老人もいた。

 犬はよたよた歩く老人の後ろで、控えるようにして歩いている。

 馬鹿みたいだ。そう思ったのが態度に出ていたらしく、犬に睨まれた。俺も睨み返したら、睨みながらどこかへ行ってしまった。

 この勝負、勝ったのかどうかわからなかった。

 それにしても、案外やることがない。

 昼寝をしようと思っても、うるさくて寝ていられない。それに、どこに何がいるのかわからないから、ゆっくり眠ることなんてできない。

 どこか面白いところはないかと探してみたが、人と車とくだらない建物――例えばコンビニとか――しか見つからなかった。救いようがないほどつまらない町だ。

「あなた、見ない顔ですね」

 ふと声をかけられて、振り返る。

「あん?」

 思わず睨んでしまったのは、いい加減、イライラし始めていたからだ。

 そこにいたのは黒渕の猫だった。

 見た感じ、雑種だ。雄。

 薄く笑っているように見えるが、目は冷徹そのものだ。

 誰彼かまわず喧嘩を売ってしまったことを後悔した。

 見ればわかる。物腰は柔らかそうに見えるが、体が大きい。少なくとも、俺よりは。

 何回か実際に喧嘩をしたことのある雄だ。勝てるわけがない。

「あ、いや……」

 勝てない勝負は挑まない方がいい。

 とっさに目をそらし、降参する。

 だいたい、俺の爪は馬鹿のせいで短く切られている。これでは武器にはならない。そういう意味でも不利だ。

「安心してください。意味もないのに攻撃なんてしませんよ」

 わたくしは平和主義者なんです。雄猫がものすごく優しい声で言った。

 逆に言えば、俺がもし敵意を見せていたら容赦はしなかった、ということだ。

 耳と尻尾が自然と縮こまった。

「はあ……」

 恐ろしい。ごく控えめに言って。

 とてもじゃないが、目を合わせるなんてことはできない。

「ところで、あなたはどちらへ? この先は川しかありませんけど」

「川?」

 と、俺はそっぽを向いたままたずねた。

「ええ。かなり大きなものなので泳いで渡るのは難しいかと。桜を見に来たと言うのでしたら、残念ながら散ってしまいましたよ」

 今年は平年より早かったですからね。

 雄猫の言葉に耳を立てる。目を見開く。

「桜? 桜があるのか?」

「ええ、そうですよ。でも、散ってしまいましたが」

 雄猫が困惑した様子で言った。

「行きたい。どこにあるんだ? その、桜ってやつは」

 思わず目を合わせてしまった。慌てて目をそらす。

 驚いたことに、雄猫がひるんで一歩後ろに下がった。

「え、えっと……何度も言っているとおりもう散ってしまって見るものは何もないのですが……」

「散ってるか散ってないかなんてどうでもいいんだよ」

 本当にどうでもいいことだ。咲いていようが散っていようが花は花なんだからたいした変わりはないだろう。

 雄猫がもう一歩下がる。

 ものすごく不思議そうに見つめてきた。いったい何なんだ。

「で、どこにあるんだよ、その花は」

 なんだかよくわからないまま、もう一度たずねる。

 奇妙な沈黙が降りる。馬鹿がいたら起こりえない部類の、居心地の悪い静寂だった。

 何か嫌な感じがする。

 沈黙を破ったのは雄猫だった。

 ああ、ひょっとして、と苦笑いを見せる。

「あなた、桜を見たことがない?」

 ぎくりとヒゲを震わせる。

「な、何だよ、悪いかよ……」

 自然と目をそらしてしまう。

 くすくすと雄猫が笑った。

「な、何だよ……」

 嫌な感じだ。なんだか、馬鹿にされているような気がする。

「いえ、何でもございません。この辺りにもそういう猫がいらっしゃるのだなと」

 気がする、のではなく実際馬鹿にされているのかもしれない。

 むかつく。同じ猫の分際で偉そうにしやがって。

 俺が黙っていると、雄猫はまた少し笑った。

「ですが、そういうことでしたら、わたくしに少し考えがあります。ついてきてくださりませんか?」

 態度はあくまでも下手なのが余計に腹が立った。

 よっぽど拒否してやろうかと思ったが、ほかに行く当てがないのも事実だ。

 なんだかとても悔しいが、こいつの提案に乗ってやることにした。

 人間は、こういう時舌打ちをするらしい。ちぇっ。

 やり方はわからないが、気持ちはわかった。


 通学の時間を過ぎた町は程よく静かだ。

 本当に、程がいい。

 全く無音というわけではなく、時々車が通り、時々人が歩いている。その九割は老人だ。少子高齢化がどうの、とニュースが騒いでいたのを思い出した。

 まあ、ちょうどいいんじゃないか? というのが俺の意見だ。

 そもそも、小さな縄張りに人間どもが一億もいるのが悪い。

 数が多すぎる生き物はその内減る。自然の摂理だ。どうして騒ぐのかわからない。

「そういえば」

 と、しばらく静かに前を歩いていた雄猫が口を開いた。

「名前をたずねるのを失念していましたね」

「名前?」

 そんなもん訊いて何になるというのだろう。

 猫に名前は必要ない。自分か、そうじゃないかだけわかればいいだろうに。

「ええ。あなた、飼い猫でしょう? 飼い猫には名前があるはずです」

「俺が飼い猫だってよくわかったな」

 少し驚いてそう言うと、雄猫は楽しそうに耳を動かした。

 知りたいですか? と笑った。

 そんな風に言われると知りたくなくなる。だから黙っていたのだが、雄猫は勝手にしゃべり始めた。

「まず、野良猫にしては身なりがきれいです。よく手入れされている。それに、この辺りの野良猫で桜を知らないというのは、世間知らず過ぎます。そして何より――アレがない」

 アレ、と少し言いにくそうに言った。

「あー……」

 なるほど、それは決定的だ。

 俺は生まれて数ヶ月も経たないうちに去勢された。だからアレがない。野良猫なら、アレがないわけがない。

「それで、お名前は?」

 笑いながら、雄猫が言った。照れたのかもしれない。

「さくらだよ」

 そう答えると、雄猫は驚いたように一瞬立ち止まった。

「さくら。ああ、なるほど」

 再び歩き始めた雄猫が、一匹でうんうんとうなずいている。

「いい名前ですね。あなたの飼い主はいい人のようです」

 これには「はあ?」と思わず声を上げてしまった。

「あの馬鹿が? いい人? あり得ねぇよ」

 猫に花の名前をつけるようなアホだぞ。

 俺を見て交尾中の雌みたいな声を出すゴミだぞ。

 あんな雌人間がいい奴なわけがあるか。

 思っていただけのつもりが、口に出していたらしい。くすくすと雄猫が笑い始めた。

「ああ、なるほど。では訂正します。確かに馬鹿でアホでゴミのようですが、いい人だと思いますよ。少なくとも悪い人ではないかと」

 まあな、と短く返した。

 悪いことができるほど、あいつは頭がよくないし、何より、肝も据わってなければそんな意気地もない。

 ムッとしたのは、なんとなく、こいつに言われるのは癪だと思ったからだ。

 確かにあいつはどうしようもない馬鹿女だが、そんなのは俺が一番よく知っている。ほかの奴に言われなくても。

「ですが桜はいい花です。ますますお見せしなければ」

 などと思っていたら、雄猫がそう言った。

 それで、ふと思い出す。

「そういえば、川はこっちの方向であってるのか? 全然着かないけど」

「違いますよ」

 あっさり雄猫がそう言った。まるで今日の天気をたずねられた時みたいに。

 えっ、と思わず声を漏らす。

「おい、川に向かってるんじゃなかったのかよ。桜見せてくれるんだろ?」

「もちろんお見せしますよ。散ってしまった桜ではなく、満開のものをね」

 なんだか訳がわからなくなってしまった。何を言っているんだこいつは。

「まあ、ついてきてください」

 雄猫がそう言った。

 俺たちは三十分ほどかけ、神社を抜けて、商店街の脇を抜けた。

 すると、本当に静かになった。

 まるで時間という概念が石化したみたいに、なんの音も、匂いも、気配も感じることができなくなった。

 風の流れすら感じ取ることができない。

 あり得ない、と思った。

 ヒゲも、鼻も、耳も馬鹿になってしまったのだろうか。突然に、唐突に。

 ぴったりと、足を動かすことができなくなってしまった。

 おびえている。

 この俺が。

「ここは、そういうところなのです」

 言い聞かせるように、ゆっくりと、はっきりと、前を歩く雄猫が言った。

「不思議なところです。ここだけ、とても孤立している。ほかの場所から切り取られたみたいに」

 俺を振り返った雄猫の目を見る。

「なあ、この道に入ったら、戻れなくなったり……しないよな?」

 アホみたいな質問だ。これではあの馬鹿女と一緒ではないか。

 だがそうせずにはいられなかった。

 左右にそびえる建物の影の間から見える、どこか現実離れした青空を見ていると、本当にこの路地だけ世界から切り離されているような気がした。

「わたくしも、時々不安になるのです。本当に、商店街に戻れるのかと」

 それを聞いて、自然と足が後ろに下がった。

 本能が警告する。こいつは、俺をとんでもなく危ない場所に連れて行こうとしているのではないか。

 雄猫が再び前を向き、歩き始めた。

「安心してください。戻れなくなったことはございません。そんなこと、起こるわけがない。わかっているでしょう?」

 一歩、二歩、と離れていく雄猫。

 この路地裏に、入りたくないと言う気持ちと、ここに一匹だけで取り残されたくはない、という気持ちがせめぎ合った。

 結局、奴を追いかけることにした。二匹一緒なら、何が起きてもどうにかなるだろう。

 要は、強烈な生存本能に従ったのだ。

 雄猫は何度もここに足を運んでいるらしく、慣れたようにちょっとした出っ張りを伝って上へ上へと上っていく。

 例えば色あせたポストや、穴が開きそうな雨樋の上を、するすると歩いたり、飛び越したりしている。

 正直に言うと、俺は雄猫について行くのだけでも必死だった。

 足場は悪く、踏み込むと揺れるところすらあった。その上を、この雄猫は走ったり跳ねたりするのだ。

 奴は俺を気にするそぶりもなかった。猫ならこれくらいできて当たり前だろうと言わんばかりに。

 たぶん意識しているわけではないと思うが、むかつく野郎だ。これではまるで俺が運動不足みたいではないか。

 運動不足? この俺が? やめてくれ、あの馬鹿女とは違うんだ。俺が運動不足なわけがない。

 そう、単に慣れていないだけだ。そうに決まっている。

 どうにかこうにか雨樋を三つほど渡り歩き、さらに庇を二つ、飛び越える。

「ここです」

 雄猫が急に立ち止まった。

 足下を気にしすぎていた俺は危うくぶつかりそうになった。畜生め、これじゃヒゲの意味がない。

 前を歩く奴にぶつかってずっこけるなんて、馬鹿でもゴミでも間抜けでもできる。

「ここ?」

 だから、喧嘩腰な声が出てしまった。

 元々相手の方が強い上、地の利もある。しまった、と一瞬思った。

「ええ」

 だが、そう答えた雄猫は、俺のことなど全く気にしていないようだった。

 どこか上の空な表情で、薄汚れた窓の中をのぞき込んでいる。

 まるで、子供を見つめる親みたいだ、と思いながら俺も窓をのぞいた。

 そして、その直感は当たっていたと言うことを知る。

 中では、人間の女の子が風景画を描いていた。

 大きなキャンバスに描かれた薄桃色の木々。白に近いそれらは、昔よくベランダに遊びに来ていたスズメの産毛を思い起こさせた。

 木々の前には川が流れ、映り込んだ木々は今にも川底に溶けて無くなってしまいそうに見える。

 女の子は、その絵に少しずつ色を付け足していた。俺にはほとんど完成しているように見えるが、彼女は満足していないようだった。

 とはいえ、女の子がどんな表情をしているのかはわからない。ちょうど、こちらに背を向ける形になっているからだ。

 時々、ほんの時々、赤いゴムで端正に結わえられたポニーテイルが微かに揺れた。

「あれが、桜です」

 雄猫が言った。

 俺は黙っていた。

 不思議なことだが、桜を見た感想は、何も出てこなかった。正直、あれが桜だろうがオクラだろうが、どうでもよかった。

 ただひたすら、女の子のことしか頭に浮かばなかったのだ。

 十四、五歳くらいの女の子が、整えられた勉強机と柴犬のぬいぐるみが添えられたベッドしかない部屋で巨大なキャンバスに向かう姿は、どこか現実離れしている。

 どんな顔をしているのだろう? どんな生活をしているのだろう?

 そして、どうして桜の絵を描いているのだろう?

 何かを暗示するように揺れるポニーテイルは、もちろん何も答えてはくれない。

「人間はみんな馬鹿です」

 雄猫が独り言のように言った。

 しっかり耳を傾けなければ、そのまま時間の狭間に吸い込まれて無くなってしまいそうな口調だった。

「救いようがありません。きっと、その辺のダンゴムシの方がまだましなことを考えているでしょう。でも、悪くない馬鹿もいる。彼女もその内の一人です」

 雄猫の言葉を聞きながら、じっとポニーテイルを見つめる。

「そうかな」

 自分でも驚くほど、上の空な声が出た。

 まるで自分が空気に溶けてしまいそうな、そんな気がした。

 本当に、この路地裏は不思議な場所だ。世界から切り離された場所。このまま、俺もここの一部になってしまうような気がする。

 うまく物事を考えることができない。

「わたくしは、これくらいの年齢の人間が、一番まともだと思うんですよ。やりたいことをやっている。でも、ここからはどんどん下らない馬鹿になるだけです」

 雄猫がのんびりと言った。

「そうかもな。どうしてだろうな」

 俺の疑問に、簡単なことですよ、と雄猫は笑った。

「彼らを育てる人間が、全員下らないからです。猫に育てられた生き物は猫になります。下らない馬鹿に育てられた生き物は下らない馬鹿になります。当然です」

「じゃあ、あいつも?」

 雄猫を振り返る。

 奴の表情が強張ったのがわかった。

 言葉を探るような沈黙が降りる。ひょっとしたら、それについて考えたことがなかったのかもしれない。

「そうかもしれません。彼女もまた、下らない馬鹿になってしまうのかもしれません。残念ながら」

 やがて、雄猫は俺から目をそらしながら言った。

「ですが、彼女は学校に行っていません。下らない馬鹿から下らないことばかり教わってはいない」

 だから、わからない。未来のことは。心の中で、俺は奴の言葉にそう付け足した。

 もう一度、女の子を見つめる。

 彼女が一人でいる簡素な部屋はこれから失われようとする何かの象徴のように思えたし、微かに揺れるポニーテイルは不明瞭な未来の象徴のように思えた。

 桜の絵に目を移す。

 あまりにも繊細なその風景画に、ふと不安と恐怖を感じた。

 なんだこれは、とそれについてじっくり考える。そして、気づいた。

「カノン進行」

「はい?」

 雄猫が、俺の声に怪訝そうな表情をする。

「ヨハン・パッヘルベルのカノン……それの、コード進行」

 奴は俺の説明を理解していないようだった。あるいは、理解するのをあきらめたようだった。

 それでもいい。どうでもいい。

 大空を飛ぶ小鳥のような危うさ。

 それこそが、絵から、そして女の子自身から感じる不安だった。

 あるいは、人間というのは全員カノン進行のようなものなのかもしれない。

 今はそれなりに生きることができているかもしれない。だが、それはいつバランスを崩して壊れてしまうともわからない、脆いものだ。

 永遠に続くようで、その実、未来がない。

「そろそろ帰ろうと思う」

 ここは、ずっといるべき場所ではない。

 俺には、未来どころか現実感もない馬鹿女がいる。あのアホが帰ってくるまでに、帰っていた方がいい。

「それがいいと思います。あなたの飼い主を心配させない方がいい」

 雄猫はそう言って、もう一度女の子を見た。未練があるのかもしれない。

 でも、どうしようもないのだ。

 俺たちは猫なのだ。大空を飛ぶ小鳥のように生きる人間が、いつ墜落するかなんて心配していても仕方がない。

 そして野良猫と違って、俺には帰らなければならない場所があるのだ。

 一向に動こうとしない雄猫に、口を開こうとした時、雄猫が言った。

「あなたの馬鹿に教えてあげてください」

 柔らかい声だったが、しっかりした口ぶりだった。

「時間というのは、ただ流れていくだけのものではないということを」

 雄猫がくるりと背を向けて、歩き始める。

 奴の言葉の意味を考える。だがよくわからなかった。どういうことだ?

 ふと気づいたら大分置いて行かれていた。来たときと同じように、奴は俺がついてきていることを前提に歩いているようだった。

 慌てて後を追う。

「時間というのは、その人の思いであり、考え方であり、感情です。その人そのものです。自分自身を金で売る人間が、あまりにも多すぎる」

 奴はぐらぐらと揺れる雨樋を軽快に進みながら言った。

 足場の悪い場所をいちいち選んで通っているのではないかと思うほど不安定な通り道を、仕方なく必死に進む。

 だが奴の言うことは正しかった。

 少なくとも、正しいように思えた。あの馬鹿女を思えば。小説に対する情熱を失った、あの馬鹿女を思えば。

 認めよう。あのアホは情熱を金で売ったのだ。馬鹿だから。そしてゴミになった。クソッタレ。

「もう遅ぇよ」

 そう声に出す。

 もう遅い。あの馬鹿はもうすでにゴミクズだ。そしてゴミ溜めの中で生きている。

 雄猫が足を止めた。

「いいえ。あなたの馬鹿はまだ間に合います」

 振り返った奴の顔は、俺まで足を止めたほど真剣だった。

「あなたの馬鹿はまだ完全に売り切ってはいない。だからまだ間に合います。あなたが教えてあげれば」

 こいつは、あの馬鹿を知っているのだろうか。どこかで見たことがあるのだろうか。

「でも、あいつは俺の言葉なんか理解しない。馬鹿だから」

 そうかもしれない、と俺は思った。こいつは野良猫なのだ。

「何度でも教えてあげてください。あなたしかできないことなのです」

 何か言葉を返そうとした。

 だができなかった。何を言えばいいのかわからなかった。

 俺しかできないと言われても、何をすればいいのだろう。

 奴は俺の言うことを理解しない低脳なのだ。いったいどうすればいいというのだろう。

「わたくしの馬鹿は、すべてを売り切ってしまったのでしょう……きっと」

 それはたぶん、俺に向けた言葉ではないのだろう。

 雄猫が尻を向けてまた歩き出した。

 俺は、奴に何があったのかは知らない。

 わかったのは、あの馬鹿女には未来も、現実感も、そして時間もない、ということだ。

 まずは帰ることだ。急いで帰って、そして、馬鹿を待つ。

 そのあとは、どうにかするしかない。俺が、どうにかする。

 馬鹿のことを考えた。

 ゴミクズのままにはできない。

 路地裏を抜ける。商店街を歩く人間共を見ながら、そう思った。

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馬鹿とカノン進行 アスカ @asuka15132467

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