渦裏兎無の人間推理学

宮葉

00 序章 上

 


「罪って云うのは常に、誰かの価値観が崩壊することで発生するどうしようもなく動物的な感情を、人間的に解決する為の道具に過ぎないんだよ。そして、その時に発生する罪の大きさは、崩壊した価値観を所持する人数に依存する」

 三メートル四方の白い部屋。

 部屋と呼ぶにはあまりにも簡素な造りだが、外界からは程よく切り離され、幾分の安心感を与と共に、この空間を部屋として至らしめている。

 部屋と外界を唯一繋ぐ架け橋は、僕が背伸びをしても届きそうにない、鉄格子で閉じられた小窓が一つあるだけ。その小窓から差し込む太陽の白い光が、部屋の白さと相乗効果を起こし、部屋中に反射する。

 僕はその部屋の中央で、白い腕輪に、白い服を着たまま、まだ発達が許されているこの幼い体を、顔が地面にめり込む形でうつ伏せにしていた。

 正確には、うつ伏せにさせられていた。 

「お金が大切な人、恋人が大切な人、思想が大切な人。そんな多くの価値観がリソースとなり、絶妙に混ざり合い、不透明で捉えることの出来ない社会が構成されていく。そんな不透明な社会に住む私たち人間は、なんの信頼性もない暗黙の了解に浸り、この社会に価値観が混在することを容認してしまっている。だけど、人々は心のどこかで無意識に、自分の価値観が絶対だと、思い込んでしまっている。そして社会はその矛盾を抱擁してしまうの」

 僕の頭上から、繊細で綺麗で幼い声が聞こえる。

「だから人間は毎日、もしかしたら自分とは全く違う価値観を持った人かも知れないと云う不安感を抱きながら、疑心暗鬼に人付き合いをする。でもそれじゃあ、人間は心の底から集団的な社会を築けない。だから人間はそんな疑心暗鬼を消し去る為に、法律と云う固定化された価値観を、道徳を材料に無理矢理作ったの。その法律という価値観は、多くの人に支持されている。云い換えるなら、多くの人が支持出来るようにありふれた価値観をくっ付けて作ったの。だからね、もし自分が持ち合わせていない価値観を持つ法律を破ると、自分にはそんな価値観がないとしても、法律で決められた他の価値観が自分の価値観と同じだから、自分にはない価値観でも、あたかも自分の価値観のように錯覚してしまうの。だからね、初めにも云ったように、罪とは常に誰かの価値観が崩壊することで発生するのだから、自分の持ち合わせていない価値観の法律を破ったとしても、他の法律がその人を縛り、罪人として裁ける」

 少女は続けた。

「だけどね、思い返してみて。人間には、個人個人に違う価値観が存在するって云ったよね。覚えてる?だからね、本当のところは、個人を尊重する民主主義では、罪が人々の生活に介入する余地も権利もないの」

 少女はおもむろに僕の首にナイフを押し付けた。ナイフの冷たさが僕の体温と入れ替わりに恐怖を置いていく。

「つまりね。結論を急ぐとね。今私が、君を殺したとしても、罪として私が払う対価は存在しないってことなの。なぜなら、この2人だけの空間で、唯一価値観の崩壊を起こすのは君であり、死ぬのも君だから、結果的に死が罪を吸い取って、誰の価値観の崩壊を起こさないの。それどころか私の価値観が肯定される副産物まで残してゆく。だからね、私が君の首を切るついでに、死んでくれる?」

 この世に唐突でない死というのは自殺ぐらいで、決められた死刑の実刑でさえ開始1時間前に告げられられるという。

 しかし、ここでの唐突の定義は余りにも相対的で、正しい判断とはいい難いのかもしれない。

 例えば、世界が明日終わりますと明言されれば、ありとあらゆるメディアが人間の文明が始まって以来最大の量の“唐突”と云う言葉を使うことになるだろう。

 つまり死の執行猶予に時間は関係ない。

 もしかすると、生まれた瞬間に死が確定していること自体が唐突なのかもしれない。

 でも、まあ、今から殺される僕からすれば、どうでもいい話だけれど。

 その刹那、少女は僕の首のナイフを勢いよく引き抜いた。

 その途端に緩やかに感じでいたナイフの冷たさは一転して、温かさと痛みを僕の首元に与えた。

「――っ!」

 僕の口から漏れ出た驚きと共に、うつ伏せ状態の僕の首に激痛が走る。

「なんてね。軽い冗談だよ」

 無防備この上ない僕の体制を確認した少女の声は一転して明るくなり、不思議と首の痛みと恐怖心をさらった。

 安心感からなのか、安堵した僕は強力な脱力感に襲われた。

 そんな僕を見て、少女はにこやかに僕に歩み寄ると、顔を覗き込んだ。

「傷ないよね?軽い冗談で死なないでよ」

 少女はそう云いながら、僕と同じ白い腕輪をはめた手を差し伸べて来た。

「重い現実だと思うけど・・・・・・・首痛し」

 差し伸べられた手を握り、痛む体をゆっくりと起こした。

「あっ。やっと喋ったね。私心配してたんだよ、もしかしたら日本語が分からないかもって。もしそうだったら、君から見て私は、ただ単に意味の分からない言葉を云った挙句に、首をナイフでで切っただけの、残虐者に成ってたよ」

 例え言葉を理解していたとしても、首を切る時点で残虐者であることに変わりはないと、僕は思った。

「私の名前は、白染茜。どこにでも居ない、ただの殺人鬼だよ。よろしくね」

 そう自己紹介した茜は、僕と同じ服装と、同じ腕輪をして、僕とは対照的な真っ白な髪をしていた。

 それはあまりにも白すぎて、今にもこの白い部屋の壁に溶け込むかのようだったが、ただ一つ真っ赤な目がそれをよしとしなかった。

「・・・・・・」

「おーい」

 彼女に見惚れて完全にフリーズしていた僕の前で小さく手をふる白い手に、僕は慌てて自分に再起動をかけて言葉を押し出した。

「自分の名前は分からないけど、皆はとなしって呼んでいるよ」

「如何してとなしなの?」茜は首を傾げた。

「管理番号が1074だからかな?」

「それでと・な・し・か。安直な考えだけど、私好きだよ。なら今日からしー君だね。うん、決定。今日からよろしくね、しー君」

 茜は繊細に完成されたガラス細工のような存在感を出しながら、真っ赤な目を細めて笑った。

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