第46話 騎士の実家にて2~手探りの心~

 ――Side 幸希



『可愛い寝顔だな……』


 温かな感触。肌や髪を擽ってくる……、悪戯めいた仕草。

 甘くて優しい声音に抱かれながら、私はその温もりを手離したくなくて、子猫のように擦り寄ってしまう。

 いつまでも、いつまでも……、触れていたい、包み込んでいてほしい。……大好きな、大好きな。


『ユキ……、そろそろ起きてくれ』


 駄目……。まだ、離れて行かないで……。

 姿の見えない誰かの温もりが自分から遠のきかけた気配を感じた私は、両手を伸ばしてその感触を捉えた。

 

『ゆ、ユキ……? 寝惚けているのか……? ま、待ってくれっ、うわっ』


 僅かな抵抗の気配と狼狽える声音を感じながら、私は力を籠めて縋り付く。

 一人ぼっちにしないで……。ずっと、ずっと、傍にいて。

 この温もりを失ってしまったら、きっと……、寒くて、寒くて、凍えてしまいそうな気がするの。


「行かない、で……」


『ユキ……』


 困惑しているかのような声音。

 絶対に離れたくないと主張する私に、その声が溜息を零して微笑む気配がした。


『勿体ないかもしれないな……。こんな風に、俺に縋って甘えてくるお前は』


 私の我儘を受け入れてくれた声が、愛おしそうに背中へと腕をまわし、ぎゅっと抱き締めてくれる。

 頬や額に柔らかな感触が落ちて……、耳元に私の名前が甘い響きを帯びて囁かれた。

 幸せ、心からそう思えた私は、何度もそうやって自分の音を囁かれながら顔や耳にキスを受け……。


「ん……」


 やがて、夢の世界から目覚めた。

 ぼんやりと霞む視界が徐々に晴れていき……、すぐ間近に、穏やかさと甘い熱を宿した蒼と出会う。


「…………」


「おはよう、ユキ」


「……アレク、さん?」


 神々しいまでに美しく、凛々しい面差し。

 ゆっくりと瞬きを繰り返していた私は、アレクさんの顔が至近距離に迫っている事に、ようやく気付いた。

 現実を認識し、みるみる内に羞恥の赤へと染まっていく私の顔。


「あ、ああああああああああ、アレ、アレ」


「アレ?」


「アレクさんっ!! か、顔っ、顔っ!!」


「顔がどうした?」


「ち、近っ!! 近、……って、あ、あのっ、えぇえええええええっ!?」


 麗しの美貌を抱く騎士様と至近距離でのご対面を果たしただけでなく、私はベッド場で上半身を起こしてアレクさんに抱き着いているだけでなく、足まで絡ませてしまっていた。――意味がわからない!!

 アレクさんも私の身体をしっかりと抱き締め、この事態に大慌て状態の私を宥めるように頭を撫で、頬に小さな音を立ててキスをしてきた。――動じないだけでなく、何を大胆な行動を平然とやっているの!! この人は!!


「すまないな。そろそろ朝食の時間なんだ」


「そ、そう、です、か……っ」


「最初は普通に起こそうと思っていたんだが……、甘えてくるお前に抗えず」


 つまり、ぐーぐーと眠っている私を起こしに部屋を訪れたら、寝惚けた私の被害に遭った、と。

 ちょっとだけ照れくさそうに説明するアレクさんだけど、その両腕が私を離してくれる気配はない。

 私も自分で頑張って離れようと奮闘したけれど、力強い拘束に以下略。


「あ、アレクさん、あの、も、もう、離れま……」


「……もう少し、寝惚けていて構わない」


 いえ!! 私が構います!! 物凄く!!

 寝惚けている最中ならいざ知らず、今はもうバッチリお目々が開いてますから!!

 だけど、アレクさんは私の身体をぎゅっと抱き締めたまま首筋に顔を埋め、嬉しそうな吐息で肌を擽ってきた。

 何だか、とっても危ない雰囲気に雪崩れ込みそうな予感が……!!


「ちょっ、あ、アレクさんっ、も、もう大丈夫ですから!! ご、ご飯にっ、ご飯に行きましょう!!」


「もう少しだけ……、頼む」


 嫌なわけじゃないけど、不味い!! 不味いから!! これ!!

 爽やかな朝に、男女がベッドで抱き締め合ってくっ付いていたりなんかしたら……!!


「アレク兄さ~ん! ユキさん、まだ起きない……、の? あら」


「しゃ、シャルフィアさん!?!?」


「アレク、ユキ姫様には申し訳ないが、丁重に……」


 開いていた扉の向こうからやって来た、アレクさんの妹、シャルフィアさん。

 そして、ニヤッと楽しそうに笑った彼女の横に、アレクさんのお父さんまで現れて……。

 え? あ、あの、アレクさんのお父さ~ん? 急に怖い気配をダダ漏れにさせて、あれ? どちらへ?

 ご家族の方に目撃されても全く動じない、どころか、甘えん坊万歳みたいな体(てい)で抱擁を続けているアレクさんの背中をバシバシ!! と叩きながら抗議していると、アレクさんのお父さんが戻って来た。

 その手には……、鞘のない、剥き出しの刃が。


「アレクディィイイイイイイイイス……!!」


「やばっ。ユキさんっ、アレク兄さんを盾にしていいから、頑張ってね!!」


「え? しゃ、シャルフィアさん!? ちょっ、逃げないでくださぁあああああい!!」


 ご自分の息子さんがしでかした、と思っている、王族と臣下の在り方を飛び越えた抱擁に激怒したアレクさんのお父さんが、現世に降臨した鬼神の如き形相で剣を振り上げ、――。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「はぁ……。原因は私にありますけど、場所を考えましょうよ」


「……ユキ」


「何ですか?」


「場所を弁えれば、今朝のような甘え方をしてくれるのか?」


「なっ!! そ、そんな亊言ってません!!」


 阿鼻叫喚の親子喧嘩……、じゃなくて、教育の一環としてアレクさんを追いかけまわした一家の大黒柱さんの怒りが鎮まり、どうにか無事に朝食を終えてからの事。

 私とアレクさんは、彼のお母さんに頼まれて、街中へと買い物に来ていた。

 

「だが……、俺に行かないでくれと、甘えて」


「寝惚けていただけです!!」


「……夢は、人の本音が溢れていると、前に陛下が」


「ち、違います!! 違いますから!!」


 新鮮な野菜や果物などが並ぶ朝の市場を歩きながら私が否定すると、アレクさんが寂しそうな表情になって俯いてしまった。わざとやっているのか、素直な反応なのか……。まぁ、後者なのだろうけれど。

 

「あ、アレクさんの事が嫌とか、そういう意味じゃありませんっ。ただ、……寝惚ける事なんて滅多にないものですから、ちょっと……、気恥ずかしかっただけで」


「俺の前でなら、幾らでも寝惚けてくれて構わない」


 だからっ、そういう事を嬉しそうな顔で言わないでください!!

 私の言葉や表情で一喜一憂してしまう騎士様に羞恥心を煽られながら、自然な流れで手を取られる。

 剣の訓練で豆の出来た手のひら。ひとつになった温もりを……、離そうとは思えない。

 私を見下ろしながら微笑むアレクさんの存在に、鼓動が、心が、喜びに騒ぎ始める。


「おや、いらっしゃい! アメジスティーさんとこの、アレクじゃないかい。可愛いお嬢ちゃんを連れてるねぇ。家族……の子じゃないね? 親戚の子かい?」


 うぐっ!! い、妹……、親戚の、子。

 市場の中を歩いていると、瑞々しい果物を売っている姉御肌をした女性にそう声をかけられ、……地味にへこんでしまった。

 妹、……妹、かぁ~。確かに、成熟期のアレクさんと少女期の私じゃ……、ふふ、そう見えますよねぇ。

 大体、私とアレクさんの関係は友人同士みたいなもので……、恋人同士じゃ、ないし。

 

「…………」


 アレクさんの隣でずぅ~んと沈んでいると、繋いだ手に強い力が籠められた。


「妹でも、親戚でもない。彼女は、俺の想い人なんだ」


「おや!!」


「あ、アレクさん!?」


 誰にも、何にも偽らない、自分の気持ちに正直なアレクさん。

 この人が私に対して向ける想いは一途で……、純粋で、……心地良すぎて。

 

「アレ……」

 

「堅物の仕事一筋なアンタに好きな子が出来るとはね~!! ふふ、めでたいねぇ!! よし、お祝いにサービスを奮発してあげようかね!!」


「有難う」


 買い出しのメモを見ながら果物を袋に入れて貰ったアレクさんが、サービスで渡されたもうひとつの袋を右手に持ち、私の手を引いて歩きだす。

 

「頑張って口説き落とすんだよ~!!」


 応援の声が遠ざかっていく。前を行くアレクさんの背中を見つめながら、ある変化に気づいた。

 彼の耳が……、ほんのりと、赤くなっている。

 髪が長かった頃はそれに隠れて見えなかった部分だけど、今はハッキリと見えていた。

 平気で大胆な事を言ったり、行動に移したりする人なのに……、ズルイ。

 

「次は、野菜だな。……ん? どうした? ユキ」


「ふふ……、いえ。何でもありません」


「だが、笑っている……。何か面白いものでも見つけたのか?」


「そう、ですね。……面白い、というか、可愛いな、と」


「可愛い……?」


 歩調を速めて隣に並んだ私に、アレクさんが不思議そうにキョロキョロと周囲を見まわして首を傾げる。

 どこを見ても、見えない『可愛い』もの。

 それは、私だけが知っている……、貴方の。

 

「今度教えますね」


 クスクスと笑いながら言って、……気付いた。

 今度、とは、いつの事だろうか?

 この胸に芽生えた、いや……、花ひらく寸前の感情さえも、殺さなくてはならない私が、彼に何を言えるというのだろうか。

 

「ユキ? どうした……」


「いえ、……あの」


「忘れるんだ」


「え?」


「明後日の朝までは、王宮に帰り着くその時までは……、忘れると、約束した」


 急に表情を陰らせた私の心を察したのか、アレクさんが繋いでいる手を持ち上げ、懇願するかのように私を見つめながら言った。

 私の手の甲に触れた熱が、迷いや不安、これから先で起こる後悔の深まりを拭い去り、幸せの中に引き戻していく。


「はい……」


 忘れていていい。その許しは、私にとって楽な道であり、けれど……、その夢が覚めてしまえば、現実の残酷さを色濃く深める事にしかならないのだと、頭の片隅で思った。




 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「ん~! 美味しいっ!!」


「口に合ったようで良かった」


 買い物を終え、二人揃って腰を下ろした広場のベンチ。

 特に急ぐ用事でもなかったので、アレクさんが広場の出店で買ってくれたクレープを頬張り、その甘さに表情を緩める。ベリーの実と生クリームがたっぷりと絡み合った、ボリュームたっぷりの美味しさ!

 どこかで食べた事があるなぁと思ったら、この町の広場に出ている出店は、王都にある本店からの出張店舗だった。アレクさんの方はチルフェートクリームと、バナナによく似た味の、バニアンという果物が一緒になったクレープを食べている。

 そっちはまだ食べた事がないなぁ、と思って見ていると、アレクさんが前に向けていた視線を私に据え、――。


「え?」


 私が持っていたクレープを……、ぱくりとひと口攫っていった。

 

「……すまない。お前が美味そうに食べている姿を見て、味を知りたくなった」


 そして、私の方へと差し出されたアレクさんのクレープ。

 口にぴたりと添えられ、私も、ぱくり。


「美味しいです!」


「そうか」


 わかりやすい行動だったけど、アレクさんの気持ちが嬉しくて……。

 私はチルフェートクリームとバニアンの甘い味と香りを楽しみながら、今度は自分の分を差し出した。

 アレクさんが少しだけ目を見開いて、楽しそうに笑みを浮かべて、また、ひと口。

 お互いに食べ合いっこをしながら、時折近くを通りがかった人達が微笑ましそうにこっちを見ているのに気付いて、でも、気恥ずかしくても、やめようとは思えなくて。

 結局、どちらも食べ終わるまで同じ事を繰り返しながら、時を過ごした。

 そして、食べ終えた頃……。


「あら? アレクじゃない。こっちに帰って来ていたのね?」


「あぁ、イレアか。久しぶりだな」


 牧場に戻ろうとベンチからアレクさんが腰を上げた時だった。

 買い物袋を持って通りがかった長い金髪の女性がアレクさんを見て表情を輝かせ、彼も親しみのある和らいだ笑みでそれに応えた。……お知り合いの人、かな?

 アレクさんは私に断りを入れ、少し離れた場所にいる彼女の方に歩いて行く。


「誰なんだろう……」


 話している内容は聞こえない。狼王族としての耳や、力を使えば聞き取る事は可能だけど……、何故か、あまり気が進まなかった。

 だけど、話している二人の雰囲気だけは伝わってきて……。

 目を逸らせばいい。見なければいい。でも、……私の瞳は現実を隠そうとはしなかった。

 楽しそうに笑い合い、昔からの仲だという事が読み取れてしまう光景。

 アレクさんが、笑っている。……騎士団の人達に向ける穏やかな笑みとも違う、特に親しい人に向けるような、そんな表情だ。


「……誰、なのかな」


 呟いた自分の声は、とても暗く……、どろりとしていたような気がする。

 アレクさんと、イレアと親しげに呼ばれた女性を見ていると……、心の奥底から、不快な淀みが沁み出してくるようで……、だんだんと、苛立ちにも似た感覚が湧き上がってきて。

 以前に感じた、カインさんと他の女性が一緒にいる所を見てしまった時とは、あきらかに違う感覚。

 あの時は、友達を取られて拗ねた子供のような……、まだまだ可愛いと思える類の苛立ちだったのに。


「だ、……め」


 アレクさんに対して何かを茶化していた女性が、彼の頬にキスをした瞬間。

 身体中に茨の棘が喰い込んでくるかのような痛みを覚え、私の視界は真っ暗になった。


「きゃぁあっ!!」


「うわあっ!!」


 自分自身が穢れた闇に飲み込まれていく。

 そう感じた直後、聞こえたのは人々の驚きの声だった。

 朦朧としながら瞼を開けると、広場の中心にあった噴水が破壊され、水があちこちに勢い良く噴き出しながら場を濡らす光景が目に入った。


「な、何なの……? 急にっ。あら? アレク?」


 戸惑ったイレアさんの声を素通りし、自分の耳に一番よく合う声を求めて視線を彷徨わせると、駆け寄って来たアレクさんが心配そうに私の肩を掴み、ユキ、ユキ、と、何度も呼びかけてくる音だけが耳に届いた。


「アレク……、さん?」


「ユキ……」


 彼が私の身体を包み込むように抱き締め、ほっとしたように息を吐きだすと……、私の中に溢れていた淀みが、急速に引き始めた。心に……、失った平穏が、戻ってくる。

 服も、髪も、何もかもが濡れてしまっているアレクさんを前にして、私は首を傾げる。


「……あ、れ? 私……、アレク、さん?」


「大丈夫か?」


「は、い……」


 抱き締められながら、彼の肩越しに見た噴水の哀れな姿。

 自然に壊れたわけじゃない、……あれは、……あそこから感じるのは、私の力の残滓。

 気のせいとは言い訳出来ない程の濃い跡を感じ取ってしまった私は、自分のやった事に恐怖した。

 私は……、さっき、無意識に、あの噴水を……。


「ユキ、帰ろう」


「アレクさん、でも……っ」


「大丈夫だ。噴水の事は町の役場にいる者が修復士を手配してくれる」


 アレクさんだってわかってる。

 だけど、私に何も言わせず、彼は荷物を持ち上げて帰路を急かした。

 私のしでかした罪を……、なかった亊にでもするかのように。


「……私、は」


 無意識に発動させたあれは、間違いなく神の力。

 その力が及んだのは、広場の噴水にだけ。

 噴き出した水は広場中を水浸しに陥らせ、イレアさんも、他の人達も頭からそれを被っていた。

 だけど、……唯一人、私だけは、何の被害も受けていない。

 その事実が、無意識の暴挙が、私の心に不安の影を落とす。

 

『ユキ、貴女が……、……に、……れ、た、時、……に、……わ』


 自分のやった事に戸惑い、アレクさんに手を引かれながら広場を後にしかけたその時。

 ……また、遥か昔に災厄の女神となったお母様が囁いたあの途切れ途切れの言葉が、頭の中に響いた。




 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「……はぁ、やっぱり、眠れない」


 貸して貰っている一室で何度も寝ては起きを繰り返していた私は、朝から心に纏わりついて離れてくれない不快感に悩まされながら、眠る事を諦めた。

 広場での一件後……。破壊された噴水の事に関して、何も語ってはいけないと……、そう、言い含められてしまった。噴水ひとつの事だから、何も喋らなくていい、と。

 私がどうしてあんな事をしてしまったのか……、それさえも、聞かずに。

 それからのアレクさんは、牧場の仕事を手伝う時も、家の中で彼の弟妹さん達と話している間も、ずっと、ずっと、傍についてくれていた。

 

「……アレク、さん」


 何故、自分があんな事をしてしまったのか……。わからない。

 アレクさんとイレアさんが話しているのを眺めていて、……それで、だんだんと、何だか、嫌な気持ちが、大きくなって……。

 その後に、一瞬意識が遠くなって、――あの件が起きた。

 噴水を壊したのは、紛れもなく、私自身。

 広場にいた人達に及んだ被害に大事がなかったとはいえ、……一歩間違っていれば、もしかしたら。


「――っ」


 全身に恐ろしい震えが走った。

 魔力や神の力を制御下におけず、暴走をさせてしまった際に生じる甚大な被害は、噴水ひとつ、いや、この町ひとつでは収まりきらないだろう。

 だからこそ、強い力の持ち主は幼い頃から己を律する為の努力を重ね続けるのだ。

 私も、力が暴走しないように、その教育は受けていたけれど……。

 意識が薄らいだ時に力が暴れてしまうなんて……。


「違う……」


 バラバラになった噴水の残骸や、その跡地を見た時に感じたのは……。


「あれは……、私の、意思?」


 そう、暴走の気配はなかった。

 あの噴水を破壊した力は、確かに……、私の意思を受けていた。

 何故? どうして? ……答えはひとつしかなかった。

 楽しそうに、まるで……、恋人同士のように近い関係を思わせる様子で話していたアレクさんとイレアさん。

 私は……、それを見ているのが耐えられなくて……、苦しくて。

 意識が遠ざかる寸前、アレクさんの傍にいた彼女を……、――憎い、と、そう感じた自分がいて。

 ハッキリと思い出した朝の光景と、自分の意識の中にあった感情を探り当てた私は、両手で顔を覆い、小さく呻いた。


「……ご、ごめん、な、さいっ。ごめんな、さい……っ」


 噴水を壊し、その水を彼女に放つ亊で済んだのが……、奇跡だったのかもしれない。

 もし、私の意思が強く、強く、神の力に働きかけていたら。

 私は、――イレアさんを、コロシテイタノカモシレナイ。


「い、やぁ……っ。やだっ、やだ……!!」


 頭を振り乱しながら、私は毛布越しにベッドを打ち付ける。

 普通に使えていたはずの神の力を、自分の中で眠っている生まれながらの強い魔力を、ここまで恐ろしいと感じた事はなかったのに。

 私は……、今日、初めて……、特定の誰かを憎み、――消そうと考えてしまったのかもしれない。

 アレクさんに対して抱く気持ちが日ごとに強まり、形を成していくのと同じように。

 彼を奪おうとする者を憎悪し、醜く歪んだ心で排除したいと思うようになっていく心。

 今日はまだ、それが浅かったから……、あの程度で済んだ。

 だけど、アレクさんの存在が私の中で大きくなっていったら……、抑えきれない程に膨らんでしまったら、次は。


「――っ!!」


 発狂してしまいそうな苦痛を抑え込み、私は部屋を飛び出した。




 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「いやっ、いやっ……! いやぁああ……っ」


 アレクさんの実家を飛び出し、私は逃げ場を求めるように走り続け……、あの広場へとやって来た。

 私が壊した噴水は修復士の人達のお陰で元の姿を取り戻し、さらさらと綺麗な水を噴き続けている。

 

「ごめんなさい……!! ごめんな、さいっ!!」


 噴水の周りを囲む縁(ふち)に額をぶつけ、滲んだ血が顔を伝っていくのにも構わず、水に顔をぶち込む。

 頭の中に……、天上での記憶が蘇りながら、神々の声を響かせる。


『母親が災厄の化身となったのだ!! 娘も同じ道を辿るに決まっている!!』


『アヴェルオード様を誑かす、魔性の姫め!!』


『お前は必ず、このエリュセードを……、いや、全ての世界を飲み込むほどの災いとなり果てる!!』


『殺せ!! 殺せ!! 器も、魂も砕き!! 永遠の牢獄へと閉じ込めるのだ!!』


 お母様を失ってから、一体何度、いや、何千回叩き付けられた怨嗟の声だろうか。

 災厄の女神となったお母様を罵る声と、残された私達家族に向けられ続けた敵意。

 天上に迷惑をかけたのだから、当然の報いだ。

 ……そう、自分を納得させながら過ごした、長い、長すぎるほどの年月。

 何も言わず、ただ、黙っていればいい。反抗心など見せず、大人しくしていれば、きっと災いは起こらない。

 そう信じて、眠りに就くあの瞬間まで生きてきた。

 だけど……、本当は、……本当は、言い返したくて、恨み言を吐き出したいと願った事もあったのだ。

 お母様は、なりたくて災厄の女神になったわけじゃない!!

 私とお兄様、シルフィールとユシィールも、災いなんて起こさない!!

 貴方達(天上の神々)なんか……、大嫌いだ!!

 ……そう、叫びたくて堪らなかった事もあった。

 だけど、そんな事をしたら、家族や、庇ってくれている御柱の方々や神々に迷惑がかかってしまう。

 だから、ずっと、ずっと、物わかりの良いふりをして……、全てを受け流してきたのに。


「あの神(ひと)達の言ってた事は、……本当だったっ」


 誰かを特別に想う気持ちと、その人を独占したいが為に起こる……、他者への敵意。

 嫉妬の情に狂い、邪魔者を消そうとする、……悪しき神の面(かお)。

 このままいけば、彼らの予言は現実のものとなる。

 そう確信した私は、水面から顔を上げ、息を乱しながら地面に倒れ込んだ。

 月が、見える……。色と大きさの違う、御柱を象徴する光が。


「……アレク、さん」


 あの人の音を形にするだけで、想うだけで……、あたたかな幸福感と、苦しみが同時に襲ってくる。

 向けられる想いから逃げず、受け止めながら進もうと決めたのに。

 それが、……こんなにも、自分だけでなく、他の人達も苦しめる結果になるなんて。

 昔語りの中には、嫉妬の情に狂い、世界を乱した神の話もある。

 人も同じく、誰かを愛するが故に苦しみ、狂気に走る例も星の数ほどある。

 誰もが抱く感情。普通なら、ここまで深く考え、悩む必要なんてないのかもしれない……。

 だけど、私は普通じゃないから。誰かを傷付け、全てを破壊出来るだけの力を、持っているから。

 いつか、……取り返しのつかない過ちを犯してしまう、危うい神だから。


「……封じれば、楽になるのかな」


 あの神(ひと)が選んだ道と同じように、私も……。

 蒼銀の輝きを放つ月に手を伸ばしながら、私は微笑む。悲しみの涙を頬に伝わせて。

 結局、最後にあるのは……、皆を傷付けて逃げる自分の未来だけ。

 なら、今この想いを封じて、なかった亊にしても、特に問題はないだろう。

 誰かを傷付ける前に、誰かを、深く愛する前に……。今、この場で……。

 神は知っている。生まれながらに、それを成し遂げる方法を。

 だけど、その詠唱を紡ぐ前に……、私の名を呼ぶ悲痛な声が耳を突いた。


「ユキ!!」


「…………」


 冷たくて、少し痛い地面に背中をつけて倒れ込んでいる私を見つけたアレクさんが、焦った様子で抱き起してくれた。ここまで全力疾走をして来たのだろうか? 汗だくになっている身体で私を支えながら、アレクさんが大声を上げる。


「何をやってるんだ!! お前は!!」


「…………」


「こんな真夜中に飛び出して……っ、足も、泥だらけじゃないかっ!! 顔も、髪も、何でこんな事になってるんだ!!」


 本気で怒っているアレクさんに怒鳴りつけられた私は、その身体を押しのけるように両手を張り、彼の温もりから逃れようと身を捩る。


「ユキ?」


「離し、……て」


「動くな。先に足の治療を」


「嫌!!」


「――っ」


 振り乱した右手が勢いに乗ってアレクさんの頬を打った。

 何故拒絶されるのか、何故、こんな仕打ちを受けなければならないのか。

 他の人だったら、きっと私に軽蔑の言葉を叩き付け、同じように頬をぶって立ち去ってしまう亊だろう。

 それなのに、アレクさんは驚いた表情の後、泣きそうな顔で私の右手を掴み、無言で抱きすくめてきた。


「い、やっ、……嫌っ!!」


 この人の温もりを感じたくない!!

 ずっと守り続けてくれていた頼もしい腕の感触も、すぐ近くで聞こえる小さな呻き声や熱い吐息の気配も、彼の存在の何もかもが、私から逃げ道を奪い取って行く。

 駄目なのに、これ以上傍にいたら……、私は。


「…………」


「怖がらなくて、いい……」


 子供をあやすような、優しい、優しい声音。

 アレクさんは弱々しい動きに変わってゆく私の頭を撫でながら、耳元にだけ聞こえる声で……、小さな歌を奏で続けた。これは……、昔、お母様が幼かった私に聴かせてくれた、子守唄?

 神の言葉による不思議な旋律が、女性の綺麗な高音とは違う雰囲気で私の耳に流れ込み、不安と恐怖に包まれていた心を優しく包み込んでくる。

 あたたかい……、この人の声は、温もりは、私を駄目にしてしまう、危険なものだ。

 それなのに、やっぱり……、離れられない。


「ユキ……。言っただろう? 怖い亊や、弱音も、全て俺に打ち明けてくれと」


 歌が終わり、私の顔を覗き込んできたアレクさんにゆっくりと首を横に振ったのは、ドロドロに甘やかされて自分が駄目になるのを拒んでいるからなのか……。

 だけど、アレクさんは私の顔を両手の温もりで包み込み、額を押し付けてきた。


「駄目だ。全て引き摺り出すと、そう言った」


「お、横暴、です……っ」


「そう罵られても構わない。お前が一人で悩み、苦しみに苛まれながら傷付く現実がなくなるのなら」


「人に……、アレクさんに頼ってばかりいたら、強く、なれないじゃないですか……っ」


「お前は、十分に強い。昔から……、辛い事に耐え続け、必死に本音を隠して生きてきた。だから、もういいんだ。思った事を吐き出して、誰かに泣いて縋る甘さを、身に着けていい」


「そんな、の……っ。そんなの……、駄目、ですっ」


 家族からも、この国の人達からも、散々甘やかされて育ってきた。

 これ以上……、心を弱くされてしまったら……。


「ユキ……。お前は、自分の努力が足りていないと、人に甘えているから弱いのだと、そう思っているのかもしれない。だが、事実は逆だ。度を越した頑張りは、毒にしかならない。自分の心が壊れるほど続けるものではないんだ」


 アレクさんは知らない。私が家を飛び出し、この場所で苦しんでいた理由を。

 だから、またいつもの事だと思っているのだろう。

 頑張る、頑張らないの問題じゃないと、知らないから……。

 だけど、アレクさんは私を至近距離で見つめたまま、いきなり確信を突いてきた。


「朝の事だろう?」


「うっ」


「何故噴水を壊したのか……。お前は、それを知ったから、一人で苦しんでいた」


「ち、違い、ますっ」


「違わない。あの波動は……、噴水を破壊した力から感じた気配は、俺にも覚えがある」


 覚えがある。そう呟いたアレクさんの声音は、過去の痛みを思わせる響きを帯びていた。

 天上で起こった、アヴェルオード様の暴走。その発端は、嫉妬の情。

 

「違い……、ます」


 認めてはいけない。知られてはいけない。

 この人に酷い傷を刻み付けて逃げる私に、これ以上の深入りをさせてはならない。

 必ず訪れる別れの時に、この人が受ける苦しみが……、少しでも減るように。


「戻ります」


「あの時、……お前を傷付け、天上を乱した後、俺の中には、苦痛と後悔ばかりが渦巻いていた」


「聞きたくありません」


「お前を愛した亊で得た、何物にも代え難い幸福と、醜い歪みの心……」


 耳を塞ぎたかった。アレクさんは私を逃がしてくれない。

 朝の件を持ち出して、自覚しろと迫ってくる。

 

「いっそ……、お前への想いをなかった亊にすれば、誰もが幸せになれるのではないかと思った」


「…………」


「だが、――出来なかった」


 向けられる、愛おしさに溢れたその一言に肩を震わせると、アレクさんが私を腕に抱えて立ち上がり、牧場への道を歩き始めた。

 それ以上の言葉はなく、無言の道で感じていたのは……、慰めてくるかのような、彼の温もりだけ。



 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「はい。これでも飲んで、温まるといい」


「……ありがとう、ございます」


 アレクさんの実家に戻ると、異変を察して家の前で待ってくれていた彼のご両親が出迎えてくれた。

 ずぶ濡れになった髪、額に出来た傷や、泥だらけの足。

 アレクさんのお父さんが声を上げる前にお母さんの方が場を制し、すぐにお風呂を沸かすから、身体を温めてくるようにと促してくれた。

 人様の御実家でお世話になっている上に、安眠妨害までして迷惑を掛けてしまうなんて……、情けない。

 

「ユキ姫様、一体何が」


「お前とアレクは、部屋に戻れ。後は私が見ておくから」


「母さん……」


「大丈夫だ。女は女同士が一番だからな。そうだろう? ユキ」


「……はい」


 私が王兄姫だとわかっていても、アレクさんのお母さんは素のままで接してくれている。

 アレクさんと、彼のお父さんが渋々といった体(てい)で自分の部屋に戻るのを見届けると、椅子に座っている私の隣に腰を下ろした。

 何も言って来ない。黙ってホットミルクを飲んでいる私を温かな眼差しで見守りながら、頬杖を着いている。


「あの……、御迷惑をお掛けして、すみませんでした」


「気にするな。あれの酷く焦った珍しい顔を見られて、親としては色々と得だったからな」


「得、ですか……?」


「あぁ。アレクは昔から、感情の機微が薄い。表情もあまり変わらないし、あまり物事にも動じない奴だ。下の奴らはうるさい程だというのにな」


 感情の機微が、薄い……?

 確かに、普段は落ち着いていて、穏やかで真面目な人だけど……。

 私に向けてくれる優しい笑顔、カインさんに向ける苛立ちの顔、暴走した時に見せる、苦しそうな顔。

 

「その顔は、他にも色々と息子の珍しい面を知ってるという感じだな?」


「そう、なんでしょうか……。ただ、感情の波が、たまに突き抜けている時は、あります、けど」


 神であった頃でいえば、あの人の感情が激しく表に現れたのは、暴走を引き起こしたあの晩ぐらい、だろうか。

 それに比べれば、地上の民として生まれてきたアレクさんの方が、豊かな感情を表しているような気がする。

 アレクさんのお母さんは、私が話す彼の事を聞きながら笑みを零し、やっぱりなと口にした。


「親に見せる顔、友人に見せる顔、人は向き合う相手によって様々な顔を見せる。だから、私が知っている顔と、お前への顔にも違いがあるわけだ」


「……」


 また、静寂が室内に満ちた。

 気まずいわけでも、嫌なわけでもない……。まるで、アレクさんが傍にいてくれるかのような安心感が心に流れ込んでくる。

 アレクさんは自分のお父さんに似ているのだろうと思っていたけれど、お母さんも同じ性質のようだ。

 神として生きてきた年月でいえば、私の方が遥かに年上。

 だけど、神に時の制約は無意味で、精神的にも私はまだ幼い。

 だからなのか、アレクさんのお母さんから注がれてくる眼差しに、自分にとっての二人の母親を思い出してしまう。見てくれているだけで、心が落ち着いてくるかのような、母の視線。

 彼女が伸ばしてきた手の温もりを黙って受け入れ、頭を撫でられる。


「今夜は一緒に寝ようか?」


「え?」


「ふふ、今夜は少々冷えるからな。暖が欲しいんだ」


「い、いえ……、一人で」


 流石にこの歳で添い寝をして頂くというのは、申し訳ないというか気恥ずかしいというか。


「おや、王兄姫殿下は私と眠って下さらないのか? これでも、何人もの子を胸に抱いて寝かしつけてきた実績があるんだが?」


 茶目っ気のある笑みで私を見るアレクさんのお母さんはきっと、私の状態を見抜いているのだろう。

 一人にはしておけない。また、面倒を起こすかもしれない、と。

 迷惑を掛けたのだから仕方ないのだけど……、今、誰かに甘えてしまうと、また……。


「はいは~い!! 母さん!! 私もユキさんと一緒に寝たいで~す!!」


「しゃ、シャルフィアさん?」


 起こしてしまったのか、シャルフィアさんがひょっこりと食卓の場に現れた。

 私の頭を両腕に抱え込んで、「女子会、女子か~い」と鼻歌交じりに話題の波に乗ってくる。

 

「女の子同士で夜更かししながら寝るのっていいわよね~!」


「ははっ、恋バナでもするか? シャルの初恋から何十回も経験した失恋の話まで、ネタは幾らでもあるぞ」


「ちょっ!! 母さんっ!! 母さんっ!! ダイレクトに娘の傷を抉るのやめてよね!!」


「あ、あの、お二人とも、私は」


「一緒に寝ようね! ユキさんっ!!」


「一緒に寝れば、暖かさも三倍だぞ」


 ……両サイドからにんまりと微笑んだ女性陣に、私が押し切る根性を持っているわけもなく。

 ホットミルクを飲み終わると、わいわいと盛り上がる親子に連れられてアレクさんのお母さんの寝室に入る事になった。……アレクさんのお父さんは、ポイッと寝室から追い出され。


「アレク、お前の寝台に入れろ」


「……いや、大の男が二人も入れる程の余裕は」


「そうか。なら、子供部屋の方に」


「わかった。わかったから、アイツらの安眠を妨害するような真似はやめてくれ」


 静かな攻防を繰り広げた結果、負けたのはアレクさんだったらしい。




 ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「すぅ~、すぅ~。……ん~、モテ期、こぉ~い」


 むにゃむにゃと寝言を漏らしながらぐっすりとお休みモードのシャルフィアさんに含み笑いを零していた私は、やっぱり、まだ眠る事が出来ずにいた。

 気を使ってくれたアレクさんのお母さんとシャルフィアさんの話してくれるものはどれも面白かったし、少しの間だけど、辛い事を忘れる事も出来た。

 だけど……、静寂に包まれると、やっぱり元の状態に戻ってしまって……。


「眠れないか?」


「……すみません」


「謝り癖は、良くないぞ」


「す、……あ、えっと」


「ふふ、やはり、癖になっているようだな」


 時には、謝罪の言葉が相手の負担になってしまう事もある。

 アレクさんのお母さんの胸に抱かれながら、私は懸命に言葉を探す。

 謝罪の代わりに、何か、何か……。


「あの、……明日は、お手伝いをいっぱい、頑張ります」


「ぷっ……、そうきたか」


「明後日には、もう……、帰らなきゃいけませんけど、牧場のお仕事、もっと、覚えたいです」


「幾らでも教えよう」


「他にも、出来る事があったら……、頑張ります」


 今夜の償いにもなればいい。そんな風に考えている事もお見通しのようで……。

 アレクさんのお母さんは頑張り屋の子供を褒めるような仕草で私の頭を撫でた。


「お前は……、ウチの息子によく似ているな」


「アレクさんの事、ですか?」


「あぁ。昔から馬鹿真面目で、必死過ぎる不器用な息子だ」


「…………」


「似すぎていて……、少々、困る」


 やっぱり、迷惑を掛けてしまった事で、印象を悪くしてしまったのだろうか。

 優しくしてくれるのは、あくまで私が王兄姫だから……。

 邪険にする事も出来ず、かといって、どう扱うべきか、悩ませているのかもしれない。

 

「こら、勝手に勘違いをするな。私も、家族達も、お前の事を迷惑になど思っていない」


「あ、あの、……すみません」


「私が困ると言ったのは、親心的な気持ちになるという意味だ。何を悩んでいるのかは知らないが、お前が辛い思いを抱えている事はわかる」


「……」


「アレクと同じで、一度悩んだり落ち込んだりすると、容易には浮上してこない。困った子供達だ」


 どう答えればいいんだろう……。

 嫌われてはいないとわかって安心したけれど、どう反応していいのか、わからない。

 

「私が何を言ったところで、今のお前の力になる事は出来ないだろう。人の言葉も、心も、あくまで支えのひとつだ。それを自分の中で昇華し、新たな力に変えていくには、時間がかかる」


「……すみません」


「いや、気にする必要はない。ただ、お前は孤独になりたがる傾向があるからな。……と同じように」


「あの、今、何て……」


 孤独になりがたがる、の先が聞こえなかった。

 だけど、アレクさんのお母さんは「何でもない」と静かに言って、私を抱く力を強めた。


「私は、お前が悩む事を止めない。苦しむ事を止めない。だが……、これだけは言わせて貰おう」


「はい……?」


「女は感情的で、男から見れば、脆くて頼りない種だ」


「…………」


「だが、舐めてかかると痛い目を見る。女という生き物は、感情に振り回され、酷く脆い面もあるが……、本当は男よりも図太く、逞しい性だ」


 カカァ天下と言うだろう? そう笑みを向けられ、静かに頷きを返す。

 地上の、今の私を産んでくれたお母さんも、お父さんを尻に敷くぐらい強い。

 それは、腕力とか、そういう類ではなく、どちらかといえば、……図太い精神力の賜物、というか。

 

「弱くても、歳を経るごとに強く、図太く、大樹の如き逞しさを育てる事が出来るのが、女だ」


「はい……」


「たとえ、自分の弱さに打ちひしがれ、絶望を覚える時があろうとも、それに負けず、必死に道を進み続ければ……、強くなってゆく。いや、強くなる事を強いられる時が、くる」


 それは、子を産み、愛情と厳しさと共に命を育む女性ならではの進化なのかもしれない。

 アレクさんのお母さんは世間話をするように話しながら、瞼を閉じた。


「今は酷く扱い難い感情も、いずれはその手綱を握れる時がくる……」


「…………」


「弱さを恐れるな。身の内に生まれた醜さを否定するな。全てを受け入れ、耐え難い苦痛に翻弄されたとしても……、歩む事をやめなければ、いつか、強さはお前のものとなる」


 押し付けるのではなく、ただただ静かに……、子守唄のような穏やかで紡いだその言葉を最後に、アレクさんのお母さんは眠ってしまった。


「歩む事を、やめなければ……、いつか」


 誰かを傷付けてしまうかもしれない。さっきは、そればかりを気にして、私は不安に陥り、この家を飛び出してしまった。覚えた危惧を消し去る事だけを考え、楽な道を選ぼうと……。

 アレクさんのお母さんがくれた言葉は、心の中に沁み込んで……、ぐるぐるとまわっている。

 何が最善の道なのか、選んだ道が間違っていたらという不安が消える事はない。

 だけど……、アレクさんのお母さんが浮かべている安らかな寝顔を見ていると……。


「おやすみなさい」


 母の温もりが与えてくれる心地良さにひとときの休息を覚え、私は訪れた睡魔に身を委ねた。

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