第15話 怯えを抱く神と、それを抱擁せし女神

 ――Side 幸希。



「冥界が……、近づいてきてるっ」


 ルイヴェルさんと一緒に王宮の地下から飛び出した私は、闇の広がる上空に目を見開いた。

 アレクさんの創り出した神の力を宿す陣が、その存在を維持出来ずに消えかかっている。

 そして、その存在を呑み込もうとするかのように……、獅貴族の空に別の空間が引き摺られるかのように開きかけていた。

 あれは、死者の魂が向かう死後の世界、エリュセードに属していながら、別の空間にある世界。

 冥界と呼ばれる、死者の魂を司る世界への道が……、今頭上に。

 その原因となっているのが、暗い上空に向かって吸い寄せられていく沢山の魂なのだと、私とルイヴェルさんは険しい顔つきで理解しながらそれを見た。

 獅貴族の王都から感じられる、不穏なる強大な力の気配……。

 ルイヴェルさんの腕に支えられ上空に飛んだ私は、王都を喰らおうとする巨大な陣の不気味な光に息を呑んだ。


「遥か昔に使われていた獅貴族の文字だな……。恐らく、ヴァルドナーツのものだろうが、支配権が何者かに乗っ取られている、と見るべきか」


「はい……。術式が別の意図を受けて書き換えられている気配がします。恐らくは、この王都内に在る生者の魂を大量に刈り取る為に……」


 死を迎えなければ解き放たれないはずの魂。

 それが、誰かの目的の為に肉体から引き剥がされて王都の中を漂っている。

 力の弱い者から魂を奪われていっているはず……。けれど、何の為に。

 そんな事は、考えなくても一目瞭然だった。

 大量の魂が彷徨い始めた事により、冥界側がその事態を収拾する為に近づいてきている。

 冥界へ通じる道が……。それが目的なのはわかる。

 問題はそこから先。冥界への道を開かせて、彼らは何をしようというのか。

 

「アレクさん!!」


 一度その疑問を横に置き、私は空中で胸を押さえて苦しんでいるアレクさんの許に飛んで行く。

 カインさんとサージェスさんが、どう扱えばいいのかわからずにその周囲に待機しているのが見えた。……神の力が、彼の不安定な心の影響を受けて暴走しかかっている。

 蒼銀の光が弱く、強く、彼の全身を縁取りながら戸惑っている様子がわかった。


「うぅっ、……ぁああっ、くっ」


「カイン、サージェス、何があった?」


 こちらへと寄って来たカインさんとサージェスさんが、首を振って意味がわからないと起きた事をそのままに伝えてくれる。

 神の力を使い、王都を蝕む陣の力と戦っている最中……、徐々に状態が悪くなり、ついには抗い様のない何かに脅かされているかのように錯乱し始めたのだと。

 もしかしたら……、記憶が目覚めかかっているのかもしれない。

 このエリュセードを支える、三人の御柱たる……、アヴェルオードの抱く記憶。

 何故彼が不完全な神としての目覚めしか迎えられなかったのか、何故、その力の半分は彼の中になく、記憶さえも失っていたのか。

 それを、私は知っている……。横にいるルイヴェルさんも、きっと。


「ユキ、お前はここにいろ。俺が止めに行く」


「いえ、私が行きます。そうさせてください」


 理蛇族の青年である白銀髪の青年が、まだ記憶を取り戻していなかった私に教えてくれた昔の話。

 確かにあれは、間違いではない。事実も含められている……。

 けれど、あれで全部なわけじゃない。

 私はルイヴェルさんの傍から離れると、不満そうな王宮医師様が伸ばしてきた手を拒んだ。

 アレクさんが苦しんでいるのは、全部私のせいだから……。

 あの時、逃げる事しか考えられなかった私の罪。

 

「ルイちゃんとユキちゃん……、なんか、前と違う感じがするんだけど?」


「ルイヴェル、……その目、どうしたんだよ」


 神としての目覚めを迎えた私達の事情を知らないカインさんとサージェスさんに微笑み返し、まだ止めようとしてくるルイヴェルさんを言い含め、私はアレクさんの許に向かう。

 その心が不安定になっているせいで、彼の周囲に神の力が外部への敵意となって私を拒もうとする。まるで、ガデルフォーンで力を暴走させた時の私みたいだ。

 

「アレクさん!! 私です!! 幸希です!! こっちを見てください!!」


「はぁ、……あぁっ、くぅっ、……ユ、キ……、ユキ、ユキっ、うぅっ、ぅぁあああああっ」


 間違いない。こちらへと向いたアレクさんの蒼が、酷く怯えた様子を伝えてくる。

 天上での記憶が、あの時の罪悪感が、彼を蝕み苦しめているのだ。

 

「ルイヴェルさん!! 障害となっているアレクさんの力を、お願いします!!」


「わかった……。だが、危険だと判断すれば、手荒な真似も行使させて貰うぞ」


「はいっ」


 今の私は、ヴァルドナーツさんの魂を取り込み、その存在を浄化する為に力をまわしている。

 その上、目覚めたばかりで疲労の度合いも濃い。

 だから、ルイヴェルさんに私を拒もうとする神の力を退けて貰えるように頼んだ。

 いざとなれば、アレクさんに危害を加えなければならない事も了承して……。

 一瞬で神の力の矛先を逸らし道を作ってくれたルイヴェルさんに感謝し、一気にアレクさんの腕の中へと飛び込んでいく。

 私の力を使って、彼の心を、遥か古の時代に取り残された記憶を落ち着かせる為に。


「――っ!!」


「アレクさんっ!! 大丈夫です!! 貴方は何も悪くない!! 私のせいで、心優しい貴方がずっと苦しみ続けていた事を、全部見てました!! だからっ、もうっ、お願いだから、自分の事を許してあげてください!!」


「俺は……っ、はぁ、あぁっ、俺、は、……ユキ、俺の、罪はっ」


 出来る事なら、忘れたままの方が幸せだった。

 そうでなければ、アレクさんが壊れてしまうと……、私は涙を浮かべながら彼の身体をきつく抱き締める。こんなにも心優しい人を、私の存在で深く傷つけてしまったあの日から……。

 けれど、綻びが出ていたのだろう。アレクさんは神としての記憶の奔流に呑み込まれてしまっている。受け止め難い過去の記憶、あの時の……、自分の罪を突き付けられている今の状態は、地獄以上に、恐ろしい苦痛をアレクさんに与えていた。

 

「アレクさんのせいじゃないんです……っ。私が、私が、……ずっと逃げ続けて来たから、だからっ」


 暴走しかけている神の力に干渉し、その存在ごと優しく撫でるように落ち着くべき道を示す。

 そうしている内に、アレクさんは徐々に落ち着き始め、息を乱しながら私の背をきつく掻き抱いた。


「どう、して……、お前、は……、俺を救おうとしてくれるんだ」


「アレクさんの事が大好きだからです。そして、遠い記憶の中に、悲劇を生みだしたあの時に、貴方を一人残して来てしまった……、私の罪をわかっているから」


「なら、わかっているなら……、何故、俺を救う真似が出来るんだっ。お前が眠りに就く事になった原因は、……俺が、この、……俺が、お前を手にかけたからだったのにっ!!」


 神としての肉体を失う事はなかったけれど、あの時……、アレクさんが、アヴェルオード様が暴走した時に、私はこの身を貫かれた。――彼の、手で。

 一緒にいた異界の神であった人が負うはずだった傷を受けた私は、自分の存在を盾にアヴェルオード様の前に飛び出した。結果、一途で心優しい神様はその悲しみと罪の意識のせいもあって、十二の災厄と共鳴し、天上に混乱と不穏が一瞬で広がっていた。

 そして、それを収める為に……、私は傷ついた身体で神殿に向かい、災厄を鎮める事に。

 その時の事が、彼の中で深い傷となる事も、全部わかっていて……、眠りという道に逃げた。

 一番罪深いのは私。自分を包んでいた幸せを失いたくなくて、……あの選択を選んだ私の。


「それでも、です……。私は、貴方を恨んでなんかいません。むしろ、貴方が私に負わせた傷を理由に、逃げました。誰も……、選ぶ事の出来なかった、弱い自分を、どこかに逃がしたくて」


 そう、あの時……、騒動が起きる少し前。

 私は異界の神様に告げたのだ。自分には誰も選べない。皆大好きで、誰か一人を特別に想う事が出来ない。……その、勇気がないのだと。

 勿論、その答えに異界の神様が頷く事はなくて……、アヴェルオード様が私の許に訪れたあの時、偶然という名の不幸が、彼の目に映ってしまったのだ。

 逃げる事など許さない……、私が出した答えに怒りの情を抱いた異界の神様が、衝動に任せて起こした、あの瞬間を。今思い返してみても、何故あのタイミングで……、と、自分自身の愚かさを呪いたくなる。どう見ても誤解されるワンシーンだった……。

 そのせいで、アヴェルオード様は自分が失恋してしまったと思い込み、天上全体を巻き込んでの大暴走劇になってしまった、と。

 あの時の事は、どう謝っても謝り切れない程に申し訳なく思っている。

 それを必死に伝えようとする私に、アレクさんはそれでも自分自身を許せないと涙を零し続ける。


「俺は、この手で……、大切なお前を傷つけたんだっ。許されるわけがないっ、誰よりも、俺自身が、お前をこの手で幸せにしたいと願っていたのにっ」


「アレクさんなら、そう言いますよね……。けど、もう駄目です。あの時の事は、私自身が全ての原因だったって、そう受け入れてください。貴方達から逃げ出そうとした、愚かな娘の迂闊さが招いた罪」


「違う!! ユキは何も悪くない!! 悪くないんだ!! 俺が、俺達が一方的に、平穏な幸せの中にあったお前の中に迷いを抱かせてしまった……、その元凶が、俺達だ!!」


 やっぱりアレクさんは、心根の優しい真面目な人。

 いつだって、私の事を守ろうとして……、傷も罪も、全部引き受けようとしてくれて。

 静かに瞼を閉じた私は、少しだけ緩んだ彼の右手を自分の両手に引き寄せた。 

 それを、拳の形に握りこませて……。


「ユ、キ……?」


 自分の左頬に、少しだけ強く押し当てた。

 意味がわからないと、アレクさんが目を丸くして私を見ている。


「叱ってください……。自分達の想いに背を向けて、逃げ出したお前は最低な女だって、愚かな私を叱りつけてほしいんです。悪い事は悪い、って……」


「そん、な……。お前は、悪くなんか」


「そうやって私を甘やかさないでください!!」


「――っ!?」


 アレクさんや皆の優しさに甘え続けて、結局は逃げる事しか出来なかった愚かな自分。

 それは、神としての時代だけでなく、幸希としてエリュセードに戻って来てからも同じだった。

 アレクさんとして、もう一度私に恋をしてくれたこの心優しい騎士様は、何があっても私を責めようとしない。その両腕に包み込んで、何もかもを許し、魂の底まで甘やかしてしまう。

 でも、……そんなのは、もう嫌。私の我儘を、許してほしくはない。

 

「アレクさんを、皆さんを傷つけてきたのは私です!! それを悪くないと甘やかされてしまったら、私自身がどんどん駄目になってしまうんです!!」


「ユキ……」


 涙を浮かべて怒り散らす私に、アレクさんはどうしていいかわからない様子で戸惑っている。


「大体、アレクさんは何でも我慢し過ぎなんです!! 昔も今も、私の事を全部許して、ドロドロに甘やかして、怒りたい時や文句を言いたい時だってあったでしょう!? それなのに、それなのにっ」


「ゆ、ユキ……、お、俺が悪かっ」


「だから!! そういうのをやめてくださいって言ってるんです!!」


「うっ……」


 ガウッ!! と、本気で噛み付いてきた私に、アレクさんが悲しそうな顔になって顔を俯けた。

 そして、器用にも空中で銀毛の狼姿に変じ、その場でお座りをして背を向けてしまう。

 ふさふさの尻尾が……、しゅんと、垂れ下がっている。

 間違いない。私からの抗議で完全に落ち込んでしまった。


『すまない……、俺は、俺は……、お前の事を、た、大切に、守り、たくて』


「アレクさんの気持ちは嬉しいんです。でも、それじゃ……、アレクさんだけが大変になってしまうでしょう? 私は、アレクさんに沢山迷惑をかけてますけど、言いたい事や感情を素直にぶつけてほしい、って、そう思ってるんです。だから……」


 銀毛の狼さんの前へとまわり、その大きな頭を両手に抱いて頬を摺り寄せる。

 心の優しい人は、全部我慢してしまうから……、だから、沢山傷ついてしまう。

 私は、アレクさんにそんな我慢をさせたくない。

 そう願いを込めて何度も銀の毛並みを撫でていると、傍に気配が生じた。


「とりあえずは落ち着いたようだな。ユキ、アレク、事態の収拾を着けるぞ」


「番犬野郎、今回だけは見逃してやるが、帰ったら覚えとけよ? 本気でぶん殴ってやる!!」


「前から言ってたのに、アレク君って本当真面目だよねー。いっそ感心するぐらいに凄いよ」


 べりっと、私とアレクさんの身体を引き剥がしたのは、不機嫌顔のカインさんだ。

 ルイヴェルさんとサージェスさんは真剣な眼差しで上空に注意を向けている。

 アレクさんを落ち着かせるのに精一杯で、冥界側の事をうっかり忘れていた。

 謝罪と共に人の姿に戻ったアレクさんを見上げると、静かに頷きが返ってくる。


「死と魂は、アヴェルオードの領分だ……。俺が収めよう」


 そう厳かにアレクさんが言葉を紡ぐのを見つめながら、私もお願いしますと頷きを返す。

 いまだ戻らぬ力の半分の心配はあるものの、今の彼は自分の神としての名を知っている。

 冥界は、死と魂はアレクさんの、アヴェルオード様の領分。

 彷徨える生者の魂が悲しそうに漂うその様を見つめ、事態が本当の収束に向けて動き出す。

 たとえ、今は囚われの身となっている『彼』の意図が働いていても、されるがままでは終わらない。何故ならば……、アレクさんこそが、――アヴェルオードその人なのだから。

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