第3話 深夜の護衛狼

※ウォルヴァンシア王国副騎士団長・アレクディースの視点でお送りします。


 ――Side アレクディース



『ユキ……』


 人々も動物も寝静まる深夜、俺は銀毛の狼の姿に変じ、最愛の少女が暮らしている家の窓辺へと両足を着いて中を覗き込んでいた。

 視界の先に見えるのは、寝室の寝台ですやすやと眠るユキの姿。

 昼間の祭り見物で俺が不用意な言動をしてしまったせいで、彼女を傷つけてしまった。

 女友達だという獅貴族の姫によって俺の許から攫われて行ってしまったユキだったが、俺の代わりに陰から護衛の役割を担ってくれたルイこと、ルイヴェルからの報告によると、この家に戻った時には落ち着きを取り戻してくれていたらしい。……本当に良かった。

 だが、まだ問題は片付いておらず、彼女の記憶もいまだ眠ったまま。

 焦らせる気はないが……。


『自分の事を忘れられているというのは、酷く切ないものだな……』


 俺の事を見知らぬ他人としてしか接してくれないユキ……、いや、今はキャンディか。

 まさか、理蛇族の王子から逃げのびた後、野良犬の身になっているとは思いもしなかった。

 ユキは自身の存在に関する全てと、俺達との記憶をその身に封じ込め、獅貴族の王弟殿下に拾われるまでは、頼る者もない生活をしていたらしい。

 俺達がユキを早く助け出せなかったばっかりに、彼女はゴミ漁りまでして……。

 ようやく獅貴族の王国で再会出来たかと思えば、姿は髪色以外元に戻せても、ユキの記憶は戻らぬままだ。ルイからの提案で、ユキとしての存在を押し付けず、彼女の中で無意識に発動している術が完全に消えるのを待ち、それまではキャンディとして接する事に決めたわけだが……。

 人混みの中で転びそうになっていたユキを見た瞬間、堪え切れず本来の音で呼んでしまった。

 そのせいで、キャンディとして生きている彼女の心を乱し、深く傷つけて……。


『ユキ……、ユキ』


 肉球のある前足で窓を軽く叩いてみる。起きない……。どうやらぐっすりと眠っているようだ。

 記憶がない事で、俺達が現れた事で、彼女が悪夢を見ていないか心配になってやって来たのだが、その穏やかな寝顔を見る限り、大丈夫のようだな。

 今、この獅貴族の王国には、あの不穏を抱く者達が新たな災厄を引き起こそうとその姿を潜めている。ユキを連れ去ろうとした、不精髭の男……、ヴァルドナーツと、ガデルフォーン皇家の亡霊とも言うべき少女、マリディヴィアンナ。

 ユキが無意識に神の力を解放し、彼らを退けたわけだが……、十中八九、この獅貴族の王国に現れた理由は、『ディオノアードの欠片』を回収する為だろう。

 『ディオノアードの欠片』……、それは、遥か古の時代よりも前、とある女神の悲しみと負の感情から生まれた、十二の災厄のひとつ、『ディオノアードの鏡』が砕け散った物の事だ。

 災厄の影響を受けた、とある時代の神々が『ディオノアードの鏡』を持ち出し、天上の神々との戦いの果てに、地上を襲ったその脅威。

 このエリュセードでは、『悪しき存在(モノ)』と呼ばれる、負の力に侵された神々は異空間へと封じられ、その影響を受けなかった正常な神々は砕け散った『ディオノアードの欠片』をその魂に封じ込め、浄化と力の回復の為に永き眠りへと就いた。

 俺もその一人なわけだが、自分の神としての名の忘却、記憶の欠如、足りていない神の力。

 不甲斐ない……、不完全な覚醒を遂げてしまった自分。

 だが、ある程度の神の力の行使と、『ディオノアードの欠片』の存在を感知する事ぐらいは出来る。まぁ、そちらはルイに任せているから大丈夫だろうが、今はユキの事だ。

 姿は一応元に戻せたが、理蛇族の王子が色々と余計な事を言ってしまったらしく、ユキはその手から逃れる為に、真っ黒な子犬となり、その記憶を封じた。

 その記憶の封印が解けやすくなるようにルイが干渉を施してくれたが、それでも、ユキの中に在る怯えが酷いせいか、記憶が元に戻るのは……、早くとも、祭りの最終日の前後。

 それまで彼女を戸惑わせないように接したかったのだが、はぁ……。

 

『騎士団で鍛えた忍耐の意味は……、なかったな』


 こんなにも近くにユキがいるというのに、祭りの最中に心の距離をとってくる彼女に抉られていった俺の精神力。キャンディとしての暮らしを壊そうとする俺達の存在を怖れているのは感じていたが、正直……、ユキに拒絶され怯えられるのは、辛すぎて堪らない。

 見抜かれていたのだ。俺がキャンディとして彼女に接していても、その中にいるユキを見ている事に。いや、同一人物なわけだが、今のユキには酷な事だったのだろう。


『ユキ……、すまなかった。ユキ』


 前足の肉球でふにふにふにと窓の表面を押しながら謝罪の言葉を小さく呟き続ける。

 ユキを守りたいと願いながら、俺は何度過ちを繰り返すのか……。


『ユキ……、ユキ、せめて、お前が好んでくれたこの姿で安眠の手助けを』


 眠る彼女の傍に行きたくて、ちらりと窓の鍵の部分を見遣った。

 今なら……、ルイもカインもいない。神の力で鍵を、鍵を。

 と、別に下心ではなく、ただユキの傍に寄り添いたくて寝室の窓を開けようとしていると、背後から俺の頭を容赦なく鷲掴んだ存在が一名。

 ギリギリギリギリギリ……。俺の頭部を破壊しかねない力の入れ様だ。


「護衛を任せてみれば……、今、何をしようとした? アレク」


『る、ルイ……。王都の調査に行っていたはずだが……、何故』


「今夜の調査は収穫を得て終わらせた。――で? 今、俺の見間違いであればいいんだが、寝室の窓を開けようとしていなかったか?」


 ひんやりと心地の良い夜風を受けて靡くルイの白衣の裾。

 気まずい心境で振り向けば、月光の煌めきを背に受けながら静かな怒りを湛えて佇む幼馴染の姿があった。眼鏡の奥の深緑が……、俺を心の底から咎めている。


「ユキの記憶がない状態を辛く思っているのは、お前だけじゃないんだがな?」


『少しだけ……、少しだけでいい。ユキの傍に』


「そうか。一切容赦のない仕置きが必要か」


 長年の幼馴染が相手であっても、ルイの優先順位はいつでも自分の双子の姉とユキが先のようだ。

 本当は……、彼女の記憶が戻るまで接触も控えろと言われていたのだが、結果は見ての通り。

 ユキの心を乱してしまったというのに、足掻くのをやめられない。

 彼女が行方不明になってから、どれだけの眠れぬ夜を過ごしただろうか……。

 ようやく探し当てても、ユキに存在を忘れられてしまった俺は、その拷問のような仕打ちに耐えられなかった。だから、眠る彼女の傍に、少しだけでも自分の心を近づけたくて。

 そんな俺の切ない心情など知るものかとばかりに、銀毛の尻尾を鷲掴まれ窓から引き剥がされる。

 

『ルイ……、せめて、もう少しだけ、ユキの寝顔をっ』


「黙れ。お前のユキに対する依存は最早末期レベルだ。治療してやるからこっちに来い」


 依存……。そう指摘されてしまうと、確かにそんな気もしてくる。

 ユキの存在は、俺にとって何にも代え難いもので……、彼女の優しい笑顔を守る為ならば、俺はきっと、手段を選ぶ事はしないだろう。たとえ、この手が汚れても、ユキの幸せを守りたい。

 ルイの指摘通り、それは依存と呼ぶに値する、狂気と隣り合わせの感情だ。

 ずるずると家の近くに立っている古木の根元に引き摺られていった俺は、その陰に隠れている竜の存在に気付いた。

 この闇夜と同じ、漆黒の髪を纏う真紅の瞳の男……、カイン・イリューヴェル。

 歩み出てきたその顔には、俺に対する怒りと不満が爆発寸前となっているのが見てとれた。


「番犬野郎……、今朝はよくもやってくれやがったな」


『何の事だ?』


 古木の幹に拳を打ち付け、短気で粗暴な竜の皇子は怒気も荒く俺を睨み付ける。

 今朝……、あぁ、ユキの護衛をルイと交代する時に強制的に眠らせた事か。

 ユキと再会してから、俺達は彼女を守る為に順番で護衛を担当していたのだが。


『お前が体調不良になっていたから、俺がその責を代わってやっただけだろう?』


「ふざけんなぁああっ!! ちょっと風邪の引き始めだっただけだろうが!!」


『ユキに風邪を移されては迷惑だからな。俺は当然の処置をしただけだ』


「隠れて護衛すんのに関係ねぇだろうが!! てか、テメェ、ユキと祭り見物に行ったらしいな!? 記憶が戻るまでの接触禁止令を忘れたかのよ!!」


 と、本人は風邪の引き始めだったと言い張っているが、顔を真っ赤にして咳やクシャミを繰り返していたあの状態は、どこからどう見ても重病人状態だった。

 だから、俺がカインを強制的に眠らせ、なおかつ、治療用の術まで施してやったというのに……。

 まぁ、これだけ元気なら何も心配はいらないんだろうが、確かに……、俺はユキの前に現れるべきではなかったのかもしれないな。

 丁度祭りの期間で、ユキと一緒に行ってみたくなった自分の欲が引き起こした末路。

 俺は、彼女の心を悪戯に掻き回しただけの存在……。


「カイン、お前の怒声が家の方に響く。少しは抑えろ」


「けっ!! テメェだって腹立ってるくせに冷静ぶんなよな」


「お前とは生きている年数も経験も違う。みだりに吠えるばかりでは、何も成長しないぞ」


「ふんっ」


 俺に噛みつくように怒鳴りつけてくるカインを宥めたルイが、その視線をユキのいる家の方へと向ける。あと数日……、ルイの読みが正しければ、祭りが終わる頃には記憶が元に戻るかもしれない。だが、それと同時に、不穏を抱く者達がこの国で仕出かす災厄にも気を配らねばならない。

 

「今後、ウォルヴァンシアに帰還するまでは、くだらない仲違いは絶対に禁止だ。ユキを守りながら、ヴァルドナーツ達を相手にするには骨が折れるからな……」


「ちっ……。仕方ねぇな。けどよ、あの悪趣味な野郎共の事だろ? どうせ、この祭りの期間中にでも事を起こすんじゃねぇか?」


『俺も、そう思う……』


 どれ程の規模で災厄を作り上げるかは不明だが、すでに不穏の種は蒔かれているはずだ。

 祭りの真っ只中に、『核』と『瘴気』から生み出した化け物達を放つ可能性もあるが、奴らのそれはあくまで余興。『ディオノアードの欠片』の回収が最終的な目的となる。

 俺はその場に座り込み、生えている草を食みながらルイに尋ねた。


「ルイ、王宮の方はどうだったんだ?」


「獅貴族の王と謁見したが、どうやら体調が思わしくないようだな……。診察を申し出てみたが、健康には絶対の自信を持つその性格のせいか、大事ないと断られた」


「病気とは無縁の御方という印象があったんだが……」


 獅貴族の王族は、その肉体と精神を鍛える事が生き甲斐のような人種が揃っている。

 寿命が近づき衰えが出始めたならまだしも……、今のゼクレシアウォード王はまだまだ若い。

 ルイが診察を願い出る程となると……。

 それも不穏のひとつか? そう視線だけで問うと、肯定の頷きが返ってきた。


「禁呪文の件とガデルフォーンの件では散々馬鹿にされたからな。疑うべき点は全て小さな事であっても調べ尽す」


「獅貴族の王から何か出たのかよ?」


「結果的に言えば、強力な呪いの類が王を蝕んでいた。ついでに『傀儡』の術もな」


 禁呪とガデルフォーンの一連の不穏を経た後、ルイは敵が行使している『見えない細工』を看破する為に、フェリデロード家の当主であるレゼノス様に助力を願った。

 これから起こる次なる不穏に備えるべく、互いにぶつかり合う事が多い父親に頭を下げたのだ。

 俺も何か力になれれば良かったんだが、覚醒前、神の本能が必要だと判断し揮った力。

 一度目は、ガデルフォーンの夜空で光り輝く三つの月が黒銀の力、すなわち、『ディオノアードの鏡』……、恐らくはその負の恩恵を受けたその力で覆われた時。

 二度目は、ガデルフォーンの女帝が受け継いでいる『宝玉』に新しい力を与える為。

 この二度に渡る神の力の行使で、俺は覚醒後にある程度の神の力しか宿していない事に気付いた。

 通常、エリュセードの民と同じく、魔力や神の力は休めば回復するようになっている。

 だが、俺の場合は違う……。足りない、消耗が激しすぎたというわけではなく、神の力の源である『神花(エリュ・フィオーラ)』が、大幅に欠けてしまっていたのだ……。

 恐らく、『ディオノアードの欠片』を魂に取り込んで眠りに就く前に、何かがあったのだろう。

 自分で『神花(エリュ・フィオーラ)』を切り離したのか、それとも……。

 なんにせよ、そのせいで俺は不完全な神のままだ。

 一応、ルイ達に神の力の質の説明はしてあるが、それが少しは役に立っているという事だろうか。


「生憎と、あれを解くには時間がかかる。そして、俺の診察は王に拒まれているからな……。明日、また謁見を願い出て、王に解呪を促すが……」


『ルイ……?』


「解呪を成す事により、新たな呪が時間をおいて発動する恐れがある……。ユキや、ガデルフォーンの皇子達の時のようにな」


 そう静かに語るルイの表情には、強い苛立ちの気配が浮かんでいる。

 数十年程前、ガデルフォーンの地に蘇った過去の皇族であるマリディヴィアンナ……。

 ガデルフォーンの皇子達を術で操り、時の皇帝を残虐な方法で殺害し、今の女帝によりその魂を裂かれたと思ったのも束の間、亡霊の少女は消えたフリをして皇子達の身に仕掛けた呪いを発動させた。そして……。


(ユキの時は、わざとルイに解呪させ、時間をおいて凶悪な『傀儡』の支配を発動させた)

 

 意識と身体の自由を奪われ、ユキは望んでもいないのに……。

 幼い頃に強い絆を結び、兄のように慕っていたルイを短剣の鋭い刃で刺してしまったのだ。

 

「わざと俺に見抜かせている節もある……。王に二重の呪いを仕掛けているか、それとも王の存在を囮とし、別の誰かを動かしているか、いずれにせよ、注意の目は方々に配っておくべきだな」


「うげぇ……っ。一点集中でいけよなぁ、アイツら……」


「敵が俺達の思うように動いてくれるわけでもないだろう? 翻弄と誤魔化しは、ラスヴェリート王国の件でもやっていたからな。だが、今回は……」


 ――徹底的に叩き潰す。

 負ける事も侮られる事も好まないルイは、売られた喧嘩は買う気質だ。

 あの不穏を抱く者達の中でも、特に『ヴァルドナーツ』という男相手には、苦汁を舐めさせられている過去もあり、十倍返しならぬ、万倍返しでいく気だろう。

 月明かりの照らす闇夜の中で不敵に口角を上げて悪役以上の不穏な笑みを浮かべたルイに、俺とカインがぴしりとその場で固まってしまう。

 神よりも恐ろしい存在がいる……。魔王、いや、この世で一番最強最悪の。


((大魔王……))


 喉の奥で報復の日を想像しながら嗤っているルイから、俺達は徐々に距離を取り始める。


「そ、それは、別に止めねぇけどよ……。他には何かないのか?」


「王の呪いの他は、そうだな……。他にも幾つかあるが、恐らく、これが一番の『鍵』となるはずだ……」


 深夜の護衛兼これからの話し合いは、夜風に攫われ消えていった。

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