6-3

 翠ヶ崎に帰ったあと、三年生の引退式を称して全員が道場に集まると、優都は部員の前で「今日はお疲れさま」と微笑み、拓斗のインターハイ出場を改めて祝福した。その後、優都と雅哉が主将の席を拓斗に、副将の席を潮に譲ることをそれぞれ告げ、「よろしく頼む」と頭を下げた。潮は「はい」と返事をして深々と頭を下げ、拓斗は短い言葉で次期主将としての所信を表明してから、「お世話になりました」と優都たちに応えた。

「別になにができたわけでもないけど」と、引退の挨拶はまず千尋から切り出した。

「気付いたら優都と一緒に五年半もここにいたのは、やっぱ楽しかったからだと思うよ。ありがとうな、これからも頑張れ」

 短い言葉で話をまとめた千尋は、それでも後輩たちに向かって深く頭を下げた。

 続いて口を開いた雅哉は、まずありきたりな感謝の言葉を同期と後輩に対して述べたあと、「知らない奴もいるかもしれないけど」と前置きしてから、自分が翠ヶ崎に入学するまでの経緯に軽く触れた。

「俺は、中学のときに一度本気で弓道も部活も嫌いになったんだけど、あのとき、全部諦めて全部辞めてなくてよかったと、いまは思ってる。この三年間頑張れたのも、たぶん大学行っても弓道やるだろうなって思えるのも、全部おまえらのおかげだよ。ありがとう」

 内部進学する奴いたらまた一緒にやろう、と笑って締めた雅哉は、話し終わったあとに目を潤ませていたのを千尋に突っ込まれ、「うるせえ」と顔を隠した。そのやりとりを見てしばらく笑った優都は、そのあと、わずかに目を伏せてから「こういうの喋るの得意じゃないんだよな」と苦笑した。

「ちょっと長くなってもいいかな」と前置きして、優都は無難な挨拶を二言三言並べた、今年新しく入って来た一年生に対して、感謝と激励の言葉を丁寧に紡いだあと、二年生が並ぶ方向に体ごと向き直った。

「由岐」と優都に名前を呼ばれ、由岐が驚いたように上ずった声で返事をする。

「この二代の中でひとりだけ初心者で入ってきて、おまえが居づらさを感じていないかこっそり心配していたんだけど、人一倍熱心に練習をして、年数の不利を縮めていったおまえの努力の前では、そんな心配は必要なかったな。いろいろと悩みながらもそうやって頑張って来たおまえ自身が、いまの後輩たちにとってはすごく大きな存在なんだと思う。手本でい続けてあげてくれ」

 由岐はいまだ目をしばたかせながらも、「ありがとうございます」と声を絞り出した。なにか、向き合ったものに対して言葉を尽くす、というのがこの男の特徴のひとつだった、とその姿を眺めながら千尋は感じた。定型句や使いまわしの表現で、優都は他人を語ることができない。

「京。おまえはほんとうに優しくて、だれの気持ちにも行動にも寄り添って慮ろうとしてしまうから、それで苦しい思いをさせてしまったこともたくさんあると思う。だけど、おまえが思っている以上にその優しさに救われているひとはいるし、僕もそのひとりだったよ。すこしはわがままを通したってかまわないんだから、おまえ自身で、その優しさを守っていってほしいなと思ってる」

 京はその言葉に礼は言いつつもどこか不思議そうな顔でそれを聞いていて、けれど隣に居た潮のほうが大きく頷いていた。潮はすでに鼻をすすっていて、順に彼に向き合った優都は、「おまえ泣くの早いんじゃないか」とそれをからかった。

「潮。おまえにとって、ここがきちんと居場所になっていて、大切に思ってくれていて、僕のことを慕ってくれていたことは、僕は全部うれしかったよ。僕は、おまえがこれからする選択がどんなものでも、ずっと応援してる。――部のことはよろしくな。自分ではあんまり気付いてないのかもしれないけど、おまえだってとっくに立派な先輩だよ」

 潮は返事もできないほど嗚咽をかみ殺すのに必死で、見かねた京が一年生に「ちょっとティッシュ取ってきてやってくんね?」と声をかけるのが聞こえた。「優都先輩大好きです」と号泣しながら絞り出した潮に、優都は苦笑しながら「ありがとう」と返した。思えば、ここ数か月、かつては口癖のように言っていたそれを潮はめっきり口にしなくなっていた。

「風間。――信頼してる。あとは頼んだ」

 拓斗への言葉はそれだけだった。代わりに、優都は地面に手をついて拓斗に向かって深く頭を下げ、しばらくその姿勢のまま動かなかった。拓斗は特別なにを言うでもなかったけれど、「はい」と答えた彼の顔を、面(おもて)を上げてまっすぐ見た優都は、頷いて笑みを浮かべた。彼はそのまま今度は同期の方に向き直り、隣に座っていた雅哉に視線を合わせる。

「古賀。おまえが翠ヶ崎に入ってくれていなかったと思うとほんとうに怖いよ。古賀がいてくれなかったらどうにもならないことがたくさんあった。副将としても同期としても、おまえのことを心から尊敬してる。いろいろ迷惑も心配もかけてごめんな。でも、古賀と一緒にこの部を作っていけてよかった」

 「俺もそう思うよ」と返した雅哉は、優都の前に手を差し出して、優都はそれを握り返した。最後に、優都が千尋に視線を向ける。雅哉が一歩下がって、優都と千尋のあいだを空けた。「俺にもあんの」と千尋が肩を竦めると、優都は「ないと不公平だろ」と笑った。

「でも、おまえになにか言うのは気恥ずかしいな。……千尋。さっき、なにができたわけでもないって言ってたけど、とんでもないよ。ほんとうに、何度もおまえに救われた。まあ、僕手かかるけど、これからも面倒見てやってよ」

 優都の言葉に、「おまえ、自覚あったのか」と溜息をついた千尋は、「お疲れ」と続けて雅哉と同じように優都の手を握った。

「おまえたちが大好きだよ。――ありがとう」

 ゆっくりと呼吸を置いてからそう言った優都は、どこか照れくさそうな表情を浮かべ、それをごまかすように首を傾げて笑ってみせた。


 引退式がすべて終わったあと、ほとんど日の暮れ切った弓道場で、優都はぼんやりと的場を眺めていた。千尋が声をかけると、彼は鷹揚に振り向いて、「なんだか、作り物みたいな感傷だな」と呟いた。

「よく、青春映画とかで観る感じのさ」

「作り物がよくできてるってことだろ」

「そういう考え方もあるのか」

「おまえのさっきの挨拶もなかなかよくある青春漫画って感じだったぜ」

「かっこつけたくなっちゃうんだよな。思い返すと恥ずかしいかも」

 でも、最後だしな、と呟いた優都は一度目を閉じてから、自分の後ろを通り過ぎようとした拓斗を呼び止めた。

「ねえ、一本だけ引いていってもいい?」

 そう問われた拓斗は、ふいをつかれたように一瞬押し黙ってから、「別に、気が済むまでどうぞ」と返した。

 弓と矢を取って射位に向かった優都に、順に視線が集まっていく。ライトに照らされた的は群青の夜空を背景にぼんやりと光を帯びていたが、西の空の端はまだすこしだけ橙に明るい。優都はその残り火のような夕焼けに視線をやってから、いっとき顔を伏せた。射場からの逆光で表情はあまりよく見えない。

 五年半、この男が弓を引くのを見続けてきた、とその後ろ姿に千尋は実感した。それと同じくらい、的前に立っていないときの彼の姿も知っていた。優都のことを、自分には決して持てないものを持っていて、自分には行けない場所に行こうとする人間だと思っていた。なにに阻まれても頑張り続けることしかできない、どこか欠落した彼の生き方が、最後に辿りつく場所がどこであるのかを、ほんとうは見届けたかった。

 彼の欠落を長所のひとつと数えたくなるのも、あるいは信仰のひとつであるのだろうか。世界と同じ速度で生きられないこと、なにに対しても正面から向き合うしかできないこと、ほんとうの意味では、他人と足並みをそろえてともに呼吸をすることができないこと。優都のそういった欠落が、彼の首を緩やかに絞めていくことを知っていた。それでも、その穴を埋めなくてはならないと言えないことは、いつの日か誤りになるのだろうか。そのことだけ答えが出せなかった。その欠落に、なにか自分では一生得ることのできない美しいものを重ねて望んでしまうのは、彼から呼吸を奪った、あの切実なまでの信仰となにか変わるところがあるのだろうか。

 優都は目を閉じて息を吐き、時間と時間の隙間を縫うように弓を引き絞った。この光景を知っている、と強く思った。喋るのが遅くて、言葉を使うのも下手で、ひとりだけ周りと時間の流れが違う、背が低くてどこか抜けているけれど思慮深い、あの。優都にとって弓を引くとはこういう営みであるはずだった。自分の時間と一対一で向かい合い、急かされることなく呼吸ができる瞬間。真摯であることと正しくあることを自らに課して、それを貫こうとひたすらにもがいていろいろなものを背負い込んできた優都の弓は、あらゆる重圧を肩から下ろしたいま、なによりも美しかった。

「ありがとう」

「まじで一本でいいんですか」

「うん、満足した」

 そう言って首を傾げて穏やかな笑みを浮かべた優都は、矢取に行こうとする後輩を制して、「自分で行くよ」と言い、そのまま矢取道を通ってほのかに光を受ける的場までひとりで歩いて行った。





***





「うーやん?」

 だれもいない音楽室で、ピアノの前に勝手に座って鍵盤を眺めていた潮の名前を、ごみ箱を抱えてふいにドアを開けた親友が呼んだ。「なにしてんの?」と言いながら、ごみ箱を元の場所に戻して近付いてきた京は、今日はこの場所の掃除当番だったらしい。

「リハビリ的な」

「――ピアノ? 弾けんだっけ」

「二歳から弾いてた」

「まじかよ……」

 右手できらきら星のメロディを一音ずつ叩いていると、京が笑って「それは俺でもできるやつ」と言った。今日は弓道部はオフで、いつもは音楽室を使っている吹奏楽部は遠征かなにかで学校を離れている。京は教室に並べられた椅子のうちひとつをピアノの横に引っ張ってきて、潮の隣に腰を下ろした。

「もっかい、音楽やるの?」

 京の問いに、潮はしばらく押し黙ってから、人差し指でラの音を鳴らし、「やらなきゃなって思う」と呟くように返した。

「全然、そんなかっこいい決意じゃねえし、こないだサックス引っ張り出してきたら見ただけで吐きそうになったし」

 いまだって、と続けた潮は、ピアノの上に置いた自分の右手を京に示した。白鍵に触れた指先は目で見て取れるほど震えていて、潮は自嘲気味に息を吐く。「大丈夫?」と京が問うと、潮は「平気」と頷いて鍵盤から手を降ろした。

「そんなしんどくても、やんなきゃだめなの?」

 京の問いに、潮ははっきりとは答えを返さなかった。楽譜をなにも載せない譜面台をぼんやりと眺めながら、潮の視線は京には知れないどこかに向いていた。

「引きずってるってことは、でかいものなんだろ、って、けーくん去年言ってくれたじゃん」

 潮が反芻したその言葉には京も覚えがあった。ちょうど一年ほど前、いまと同じくらいの秋の季節に、たしかに京が潮に渡した言葉だ。

「俺は、自分がずっと行けると思ってたところには行けないんだって、努力とか年季とかそういうの関係ない、もっと全然別の、生まれ持ってるか持ってないかで決まるもんがあって、俺はそれを持ってない側だ、って気づいて、どうしようもなくなって、逃げたんだけど」

「――うん」

「そのことにずっと負い目があって、ぐずぐずしてたときに優都先輩に助けてもらって、それから、俺が逃げたのを正当化するために、自分が信じてたかっただけのバカみてえなきれいごとを、全部あのひとに押し付けてて」

 潮がこういった文脈で優都の名前を口に出すのも久しぶりだった。三か月ほど前に引退して部を去った前代の主将のことを、潮はひどく慕っていた。潮はあまり自分のことを語らないが、それを言葉にするとき、彼の顔には名前のつけられる表情が浮かばない。

「結局、俺は挫折して音楽からとりあえず逃げただけで、そっからどうするべきかとか、どうしたいのかとか、自分で考えもしてなかったなって思って。……考えるためには、とりあえず、もう一度これと向き合ってみなきゃ、って、まあ、そういう状況。ご覧のあり様だけど」

 そう言って自嘲した潮に、京は安易な言葉で同情することはできなかった。自棄の雰囲気が漂うその言葉の裏で、潮がどれだけ悩んできたのかを京に推し量ることはできない。それを共有できるだけの背景がなかった。

「うーやんがさ、信じてたかったことって、なに?」

 それは、ともすれば一年越しの問いだった。彼の一番深いところに触れることを、いままで京はためらってきていた。そうしなくたって別に構わない、という思いもたしかにあった。けれどこのときばかりは、その問いは自然と口をついた。潮も、予想していたように浅く頷いて瞼を伏せた。

「頑張れば報われるし、いつか認めてもらえるってこと。才能なんかなくても、努力すればいつかはなにかになれるってこと。それだけでずっと続けていけるってこと」

 潮は歌うように淀みなくその言葉を口にした。ずっと反芻し続けてきた言葉であるようだった。「ガキだろ」と笑った彼は、そのあと目を伏せたまま「でも」と逆説を継いだ。

「いまでも、ほんとはそうならいいのになって思っちまうよ。自分のこと別にしても、優都先輩が、いつかあのひとの思うとおりに報われて、あの努力に払ったしんどさとおんなじ分だけ、幸せになってほしいな、って、すげえ思う」

 もう言わないけど、と肩を竦めて、潮はもう一度鍵盤に手を置いた。震えはすこしおさまっていて、一オクターブを親指からつなげると、思ったよりも芯のある音が出た。

「千尋先輩も、同じこと思ってたのかな」と京が呟く。

「あのひとが、いちばん思ってんだろ」と返すと、京は「そりゃそうか」と頷いた。

 ドから次のドまでを右手と左手で交互に繰り返す。潮の鳴らすその単調な音を背景にしながら、京はなにかを考え込むように目を閉じていた。

「都総体のときさ、優都先輩も風間も調子良かったし、おまえと古賀先輩も普通に中ってたのに、俺全然だめで、ほとんど中んねえで、結局団体決勝行けなかったじゃん」

 ふいに京が呟いた言葉に、潮は鍵盤で手遊びをしていた指を止めて彼の方を見た。京がいままで、そのことを蒸し返すことはあまりなかった。けれど、言わずにいただけでずっと内側に抱えてはいたのだろうということは、その表情を見ればわかる。

「俺、あんま朝練とかちゃんと行ってなかったし、優都先輩どころか、古賀先輩とか風間とかうーやんとか、なんならゆっきーとかと比べても、まじで全力で全部賭けて練習してたかって言われると、全然そうじゃないし、そんでも人数足んなくて五人立入れてもらってた身だから、俺のせいで申し訳ない、なんてほんとは思える立場じゃねえわけよ」

 京の言葉に、潮は軽い同意を返した。潮自身、あのときの団体では決して調子がいいと言えるわけではなかった。あと一中、のために、もっと詰めた努力や献身はあるような気もする。

「でも、やっぱ終わったあとは悔しかったし、申し訳なかったし、まあ、正直いまでも申し訳ないし、……それでも、そういう思いしても、俺は優都先輩とかみたいには、できないなっていうのも思って、――だから、優都先輩のことも、おまえのことも、俺は単純にすげえと思うんだよ」

 京は座った椅子を前後に揺らしながら、言い訳をするような口ぶりでそう言った。「わかる気はする」と潮が言うと、彼はこころもち表情を緩めた。

「だから、千尋先輩の考えてたこともいまならちょっとわかる気がする。あのひとも、そうだったのかな、って思って」

 やっとだけどな、と言って伸びをした京に、「そんでもけーくん次は皆中頼むぜ」と潮が言い、京は「頑張るわ」と答えた。

会話の途切れた音楽室で、潮が手慰みにひたすらにオクターブを鳴らし続けていると、それを目に留めた京が「なんか弾いてよ」と軽い口調で言った。その言葉に答えて、かつてよく指慣らしに弾いていた練習曲を鳴らしてみると、ワンフレーズも弾き切らないうちに指がつかえて不協和音が鳴った。

「うえ……幼稚園児の潮くんでも目つぶって弾けたぜこれ」

「京くんはそのころたぶん木とか登ってたし十分すげえぜ」

「俺的にはそっちのがすげえわ」

 潮は今度はテンポを落としてゆっくりとその短いフレーズを弾きなおし、何度かそれを繰り返したあとに、「きついわ」と呟いた。

「メンタルへの打撃がすごい。一週間絶食したあとに焼き肉食ってる感じ」

「えぐいやつじゃん」

 茶化すように言ったあと息を吐いた潮は、しばらく手を置いた場所を見つめたあとに、鍵盤の蓋を閉めて息をついた。

「というわけで、俺は弓引きに行くけど。けーくんは?」

「この流れで行かなかったら俺まじでクソ人間だろ」

「言うと思った。行こうぜ」

 弾みをつけてピアノ椅子を降りた潮に続いて、音楽室の重たい扉を開けて外に出る。開け放たれた廊下の窓から、いくつかの運動部の掛け声と歓声が混ざり合って吹き抜けていく。二階に向かう階段を二人で降りていると、前を歩いていた潮が「あ」と声を上げた。

「優都先輩!」

 潮の声に、二階の廊下を歩いていた緑の上靴の生徒が振り向いたのが見えた。大きく手を振る潮に彼はすこし笑って小さく手を振り返す。優都がこちらに歩み寄ってくる前に、潮は「練習してきます!」と宣言して階段を駆け下りて行った。苦笑するように「頑張れ」と口を動かした優都に軽く頭を下げて、京も駆け足で潮の背中を追いかけた。

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